日本 その5






 あけおめでごんす・・。長らくご無沙汰してしもうて申し訳ないでごんす・・。年末年始は何かと忙しく、体調もイマイチ、未だに駄目だすな~・・。

 ま、こんなことは書きたく無い・・書いて良いのか判らん・・っちゅうような気持ちが、ファシレをブログから遠ざけてるのかもしれん・・っちゅうのは言い訳には過ぎんけんども、やっぱりこれは日本人にゃ~ちとショックなことかと想像できるしの・・。

 それは・・

「日本と言う名称は、西暦700年頃までは日本列島のどこにも無かった」

っちゅう事実なのねん。


 ま、史実として証明できん・・っちゅうだけで、もしかしたら列島の東国で「日本」「日之下」「日之本」を名乗る小国が有った時期が有る・・かもしれんけんどもね・・。でもそれはどんなに古文献を探してもでんな・・ま、評判の悪い東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)だけは除くとして、「日」が付く地域、小国は有っても「日本」につながる名称は出て来んのねん。

「有ったはず!」

っちゅうのんは、全くの「こじつけ」にしかならん。


 西暦700年前後に倭国の名称を捨て日本を名乗ったのは、内外の古書から確実視されとるけんども、中臣の大祓にも出て来る「日高見」国にしても、「日」だけであってね・・その響きが持つ意味がいかに近く思えても、「日本」とはかけ離れてる名称なのねんな・・。


 じゃぁ・・その「日本」っつう名称はどこから来たか・・っちゅうことが、このところのブログのタイトル「日本 その~」になっとるのねんが・・そろそろ書いてしまわないといかん。「ケリ」をつけんといかん・・。


 西暦700年頃の「日本」は藤原氏が天皇家の外戚に入ってね、天皇家へ着実にその藤原の血を濃くして行く初期段階と言えるよねん?

 ある意味、「日本とは藤原である」と言うのが大正解・・なのねん。だから、藤原氏を「あ~だこ~だ」と非難することは、自分自身を非難しているのと同様なのねん・・・ま、「そんなん、判っとるがな~!」っちゅうお方がほとんどでっしゃろが、

「・・うんにゃ・・そんなこと、考えたこともね~っす・・」

っつ~ような方々もおられるでっしゃろなぁ・・。

 それに、不比等ちゃんとは奥さんの一人の橘美千代さんでつながる「橘氏(たちばなし)」もね、不比等ちゃんの息子たちの藤原氏と同様に、我が世の天下を目指して高級官僚として世の中を動かしてたのねん。

 これも有る意味、

「橘美千代(たちばなみちよ)が日本を創った!」

と言えることは、皆さんもご存知かと思うけんども・・

「橘氏(たちばなうじ)って、何?」

っちゅう疑問は、どんな歴史家も、はたまた歴女も歴男?も・・結局誰にも解けてないだしょ~?


 大体ね・・敏達天皇さんの後裔の美努王さんとその後の橘氏を継ぐことになる子孫をつくりながら別れ、不比等ちゃんと一緒なって光明皇后(光明子 こうみょうし)さん等を生んだ縣犬養氏出身の女性・・なんてことが、日本の史実になってるっちゅうね・・本当に有ったこととされてるっつうね・・それが真実と信じさせられてるっちゅうね・・ことになってるのねんな~。ま、それはそれで良いんだけんどもね~・・反論しよ~としても、何の根拠も無いんじゃど~にもならんばってんね~。

 そもそも「橘氏」は縣犬養美千代さんが、元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜ってね・・美千代さんの息子たち・・これは皇族出身の王だけんども臣籍降下して母である三千代の氏姓を継いで出来た・・とされとるのねんな~。だから、橘氏はそれが最初っつうね・・ことなのねん。

 でもね・・橘(たちばな)何とか・・っつうお名前はね・・それ以前からずうっと使われててね・・ま、氏姓じゃぁないけんどもね・・例えば弟橘媛(おとたちばなひめ)ね・・。


 彼女はヤマトタケルさんの妻の一人でんがな~・・。相模から房総へ船で出た時に神に祟られ、嵐になってしもうたので、タケルさんの代わりに海に飛び込んで鎮めた・・ことになっとるのねんな。・・ま、そんな弟橘媛さんだけんども、偽書とされちゃあいる先代旧事本紀によると9人もの男子を生んでるのねん。


「何とまぁ・・9人もの男子を生んだ奥さんを連れて蝦夷征伐に出かけたヤマトタケル!」

 ・・うにゃ~・・でんな・・。ましてや神さんへの生贄としてなら普通、処女とか・・だっしょ?奥さん、自重しなはれ・・って、ま、ここじゃ関係無い話だけんどもね・・。

 他にも「」が付く西暦700年以前の方々は沢山おるのねん。もちろん、「」に関係するお方もね・・。その中でも歴史上、まずはこの方が最初かな?・・と思われるのんが・・

「田道間守(たじまもり/たぢまもり)」さん

でんな~・・。

「・・ありゃ?・・このひとは田道間守だから、たちばなと違うんちゃう?」

と思われるかもしらんけんどもね・・。


田道間守(たじまもり/たぢまもり)
は、記紀に伝わる古代日本の人物。
<略>
『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖としても信仰される。
<略>
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。

『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(同じく)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。
<略>
「たじまもり/たぢまもり」の名称については、「但馬国の国守(くにもり)」の意味とする説がある。この「たじまもり/たぢまもり」の類音からタチバナ伝来の物語が引き出されたと見られ、「タチバナ」という名前自体を「タヂマバナ(田道間花)」の転訛とする説もある。
By WIKI

注:三宅連(三宅氏)さんと非時香菓(ときじくのかくのみ)については、次回の試験に出る予定なのねんで覚えておくように~


 そうなのねん・・。橘の語源となった可能性が有るのが「タジマモリ」さん・・なのねん。

 で、その後もね、沢山、橘関係はあちこちにその名が使われてね・・あの聖徳太子さんの奥さんの一人も橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)っちゅうね・・お名前だったのねんよ~。

 西暦700年の直近にゃぁ、朝倉広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に斉明天皇さんが入られ、

 7月24日に朝倉宮で崩御。朝倉広庭宮に都が置かれたのはわずか2か月余りということになる。朝倉広庭宮の建設に際しては、朝倉社の木を切って用いたために神が怒って宮殿を壊したほか、宮中では鬼火が目撃され、大舎人らに病死者が続出したという。
by WIKI

 ま、ファシレのおじさん的にはね、「斉明天皇さんは新羅に出頭した」のんで・・ここでは亡くなってはおらん・・ちゅう立場だけんどもね・・それはこのページに書いてるけんども、

「斉明天皇さんもに関係していた」

 ちゅうことだけは確かなこと・・でんな~。

でねでね・・その「橘」だけんども、例のタジマモリさんが常世国から持ち帰った不老不死の果実で柑橘植物だったよねん?これ、かなり酸っぱいのねんな~・・まぁ、Wikiによるとそうよねん・・。

 じゃぁ、

「その常世国っつうのはどこなん?」

ちゅうのんが大事だしょ?。日本書紀によるとタジマモリさんは9年も掛かって常世国でタチバナを探し出して、帰って来たことになっとるのねんから・・。


 その国はね・・実は、神功皇后さんが平定した国・・とされている中に、その名前を見つけることができるのねんよ。

比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した
By WIKI

 ここの・・

卓淳国

でんな~・・。

 これはね・・達句火や達句伐とも書かれるのねんけんども、

卓 タク、タカ、タック
淳 ジュン、シュン、スン、スゥン

とね・・日本語や韓国語、中国語で読めるよねん?

 だから、最後の「国」の読みに新羅的に「伐(読みはボル、ポル)」を付けると・・

「タックスンボル」

 国=伐=原 は、日本語の「~原」・・・九州じゃ「~ばる」と読むでっしゃろ?わかみたふり解析は無駄な努力??でも百済語の意味を書いとるけんどもね・・。で、「田原」と書いて「たばる」でんがな~・・。なので、

「タックスンボル」=「タックスンバル」

 速く読むと・・

「タッスンバル」

で、

「タチバナ」

・・でんな~。・・ん?・・ちと苦しいじゃんってかぁ?・・ま、古代は

「漢字を読みに充てただけで現在の漢字の意味そのものは無く、読みも徐々に変化する」

からの~・・。


 達句伐だって、同じなのねんよ。達は「タチ・タッツ」、句は中国語で「チュ・ジュ」だから・・

達句伐=「タッチュバル」=タチバル=タチバナ

達句火だって・・火は国とか、地域と同意でね・・

達句火=タッチュ+「ファ」

で、火=ファ なのねんが・・何とね・・

花=hwa(中国語・韓国語)=ファ

だから、

橘=立花=達句火

なのねんよ~・・。


「モロ・・そのものじゃん!」

だしょ~?


 つまりね・・不比等ちゃんと同族の橘氏は、不比等ちゃんの奥さんの縣犬養美千代さんが賜った氏性、「橘宿祢」を皇族の息子たちがが臣籍降下して名乗ったのねんから・・

「・・あれ?・・橘は・・卓淳国?」


 ありゃらん・・やっちまったな~・・ど~しましょ~!・・ど~もならん!

「橘」は常世の国に生える「非時香果」



 これが実は日本につながるのねん・・「非時香果」っつ~のは橘の実のことだけにねん・・♪♪


 ・・ちゅうところで時間切れなのねん・・でもこの先もあまり書きたく無いの~。ま、ちょっと脳の崩れてるおっさんの言うことと笑って許してほしいのねん・・。じゃぁまた~!ばいなら~!

日本 その4






 そろそろ本題に入らんといかん・・と思いつつ、2カ月も経ってしもうた・・申し訳無いの~・・。・・とは申せ、ひっじょ~に誰も見とらん・・に近いブログなだけに、書いたところで誰も気にせんしの~・・でも、こんなん書いちゃってほんと、だいじょ~ぶなんかの~???と、づ~~~~っと葛藤を続けていたのねん。かなりの決心がいるのねんな~・・たかが文字の羅列でしかないのねんが、時に誰かを傷つけてしまうかもしれんし、そうするとそれは何らかの形に変わってでも自分に向かってくるのは必定なのねんから。

 書かんのが良いのか書いた方が良いか・・たとえ誰かが何かを隠滅したことに気付いたとしても、そんなにも臭ったもの、臭いものにフタをして、ただただ時を過ごして生きるっちゅうことは、気付かなかったことと同じにはならんで、何かを隠滅した者と同罪だとは判っているのねんがの・・。

 昨今は何かね、

「そんなに自分が大事なん?」

と他人に対して思えるようなことがあまりに沢山有って、けっこう凹んでまんがな・・。ま、ファシレのおじさんみたいなもんは圧倒的少数派であるんは自分でも大いに判っとるけんども、じゃぁ、自分がそんな場に出くわした時に、そんなに一貫した自分を持っているのねんか~?・・と自問した場合に、

「・・ん~~~・・迷うのねんな~~」

などと思った段階でもう、自分を凹ませた誰かとさして変わらんかったことに気付くことにもまた凹むのねん・・。


 「新撰姓氏録」を見るとね・・非常に面白いのねん。

「どこ出身のどなたは(その時の)誰々っちゅう名前なのねん」

とか、

「誰々っちゅう名前の人はxxx神の子孫なのねん」

と書いて有るように読めるからねん。


 平安時代の初期の西暦815年に出来たのねんから、色んなことが有った西暦700年前後からは120年位後の成立なのねんな~。

 で、さらに面白いのはね・・

「百済・百済王、新羅・新羅王、高句麗・高句麗王、秦を始めとする中国勢、任那、伽耶出身者は出ているがそれ以外は出て来てない」

っちゅうことでんな~~。

 まぁ、伽耶ったって高霊、金官くらいしか出て来んのねん・・他にも有ったのねんよ。安羅、古寧、星山、小加羅の伽耶に、多羅、卓淳、己汶、滞沙などね~・・。

 例えば安羅(あら)っちゅう国の出身者には新井さん、荒井さんとかね・・今でもそう名乗ってる人も沢山いらっしゃる位、大挙して日本列島に移動してるのねん。関東には沢山のアライさんいらっしゃるのねんよ~・・・。でもねん、

「安羅王のダレダレのあと・・」

なんぞは全く書かれておらんのねん。有ったかどうだかを韓国とバチバチやっとる「任那」さえね・・

任那国豊貴王之後也
任那国賀羅賀室王也
任那国人都怒賀阿羅斯止也
任那国主龍主王孫佐利王也

とね・・しっかり書かれとるのねん。記紀には全くその名も載って無い、レア情報なのねん。少なくともこの西暦815年の段階では、任那は国で、何人もの国王がいたことが判る・・もしくはそのように理解されていたことが想像できるのねんな~。

 ところがそんなレア情報満載の「新撰姓氏録」でもね・・全く出て来ない国が有るのねん・・。

「それって・・だいぶおかしいと思わん?」


 以前の記事にも書いたけんど、百済の「阿麻意弥(あまおみ)」は日本に来て「取石造(とりいしのみやっこ・とろしのみやっこ)」と名前を変えていることさえ判る「新撰姓氏録」に、掲載されない倭人国家出身者って???

「・・・倭王だった者、それに直接つながる者、もしくは倭・日本の指導者」

の可能性が高い!・・と思えるのねんがねん。


 神功皇后さんが三韓征伐をされた後のこと・・

 神功皇后49年(249年または369年)3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。比自[火+保](ひじほ)、南加羅喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳加羅七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。
by WIKI

となっとるのねん。


 ま、三韓征伐が本当に有ったのか・・神功皇后は本当に存在されたのか・・それは何年のことなのか・・とかの問題も有るけんども、その後の様子を見る限りにおいては、それに近いことは有ったと言えると思うのねん。

 だとするとね・・

「七カ国を平定」
「四つの邑は降伏」

だしょ?

 平定し、降伏させたら・・次はどうしなきゃいかんかな~?

「治める・統治する」

 これが無きゃおかしいのねん。


 ところがでんな・・記紀を見ても、三国史記の百済本記や新羅本記を見てもね・・その平定した後の指導者が・・書いて無いのねんよ。まったく伝わってないのねん。まぁ、加羅は六カ国ほど有って金官国王、高霊伽耶王のみ後世に伝わってるし、安羅王の1人はね・・ちらっとだけ伝わってはおるけんども、

「平定した直後の比自ホ、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳の王が伝わってない!その後もほとんど判らん!」


ちゅうのんは、絶対におかしいのねん。ま、古爰津(こけいのつ)と忱弥多礼(とむたれ 済州島)を亡ぼして百済に賜った・・とはされとるけんね・・それだけさ・・あらっ?


 何故ってね・・あれだけ記紀に神功皇后の功績として綿々と描かれているのにも関わらず、しかも「平定」しとるのねんから、その代理の王について何も書かん方がおかしい・・だしょ?

 結局は書かんかったのでは無く、書けんかったのねんな~。そうゆ~ことだしょ?

 先のWIKIから引用させていただいた文の中の将軍さんは、毛野氏族なのねんが・・崇神天皇さんの末裔と言われておるのんで、皇族でんな~・・「新撰姓氏録」的に言うと「皇別」になるのねん。

 で、お名前を見るとね・・・ひじょ~に有名なお方で、

「荒田別(あらたわけ)さん」
「鹿我別(かがわけ)さん」

とおっしゃるのねんが・・この名前でね・・判っちゃうよねん・・ん?。。判らんかぁ??

「荒田別(あらたわけ)さん」--> の一族が -->「安羅・多羅・分け られて統治」

「鹿我別(かがわけ)さん」--> の一族が --> 「伽耶・分け られて統治」

っちゅうことだんねん。かなり安易だし、危険さも含むとしてもねん・・伽耶全部を分けてもろうた訳じゃぁ無いのは当然だしねん。

 しかし、記紀ではこのお二人は戦いの後、しっかり帰順したことになっとるのねんよ。列島に帰ってきたことになっとるのねん。


 せっかく平定してもね・・何もせんで帰ったりはせんのよねん。ちゃんと統治したのねん。それが、

「毛野一族」

なのねん。


 でね・・これにはちゃんと「オチ」が有ってね・・そう、例の筑紫君「磐井(ちくしのきみ いわい)の乱」の時でんな~・・。


 527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
by WIKI

 ・・そう・・磐井さんが本当に反乱を起こしたかどうかは別にしてもね、

「近江毛野さんが南加羅・喙己呑を奪い返すために出発」

したと・・記紀に書いて有るのねんな~・・。


 もう・・判るよね~・・判らんかぁ・・?


 でね・・実は記紀にはさらに「オチのオチ」も・・書いて有るのねん。
 

 物部麁鹿火によって磐井の乱が平定された後、翌年の528年に、毛野はようやく任那の安羅に赴任し、新羅との間で領土交渉を行った。しかし、毛野は驕慢な振る舞いが多く、新羅・百済両国王を召し出そうとしたが、両者が応じず失敗。逆に両国から攻撃される始末であった。事態を重く見た朝廷から帰還の命令が出されたが、これを無視。530年、再び召還されて応じるも、その帰途対馬で病死した。
by WIKI


 どう?・・これって・・一体ど~ゆ~ことなのねん・・って思わん?


 まぁ、近江毛野さんは一応、「近江氏」のククリにされておるようでね・・毛野氏族とはされとらんのねん。日本書紀では「近江毛野臣」とされててね・・「波多氏」にククられとるけんども、


「毛野氏族が統治していた半島の国が新羅に奪われたので同族が助勢に行った」


のがホントだしょ。・・もしくは・・

 ま、近江毛野さんが波多氏だとしてもね・・神功皇后とは同族の息長氏族なもんでね・・大将軍の荒田別さんが崇神天皇直系で、その後に断絶が無きゃ、これも末裔に違いは無いのねん・・・いや断絶が無きゃ・・ね。

 近江毛野さんが亡くなられてね・・それが530年だけんども、532年には金官国が新羅に滅ぼされて国王が降伏(でも皇太子に食扶ちとして所領を安堵)、562年には任那諸国を新羅が滅ぼしたのねん。

 っちゅうことはねん・・少なくとも562年以降、滅ぼされた国の王や領民はそのまま新羅の配下になるか、列島(もしくは高句麗辺り)に逃げ出したか、新羅に殺されたか・・ということだしょ?

 でねでね・・ここで今回のメインイベントが始まるのねんよ・・。凄いのよん・・書いちゃって・・良いのかの~・・とは思うけんども・・。


 百済本記にはね・・

「辛亥(しんがい)の年に日本の天皇及び太子・皇子がともに死んだ」

とね・・書いてあるのねん。


 百済本記・・はね・・原本は現存もせんし、書紀などの記述を元に書かれたとされてはおるのだけんども、その日本書紀にもね・・継体天皇の崩御年を算出するために、その文章が掲載されとるのねん・・

 そう・・

「日本!」


又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥之歳、當廿五年矣

 辛亥の歳は西暦531年と見られててね・・。でも、記紀記載の「倭(やまと)の王」「天皇」には全く該当せんのよねん。しかもしっかり「日本天皇」とね・・書いてあるのねんよ。


 日本と言う国名を元にした記述が出てきたのは、おそらくこれが初めて・・なのねんな~~。でもね・・該当する天皇さんが日本にはおらん・・っちゅうことでんねん。


 記述されたものに初めてね・・日本の文字が出たのねんからね・・いや、でも初めてかどうかは微妙でね・・「任那日本府」・・が有るからね・・・で、これは「やまとのみこともち(倭宰)」と読まなきゃいかんようでね・・めんど~なのねん。

「みまなにほんふ」

でよろしいがな~・・。誰がど~やっても「やまとのみこともち」とは読めんのねんから・・。


 もしね・・本当に「みまな の にほん ふ」、もしくはね・・任那が滅んで安羅に移動しとるもんで、「安羅日本府」も「あら にほんふ」でよろしいとするなら・・


「日本=倭ではあり得ない!」


ちゅうことにならんかの?

 中国の正史とされる西暦945年に成立したと言われる「旧唐書(くとうじょ)」の日本国伝には、こう書いてあるのねん。

「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」

とあり、

日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本が倭国を併合した。
by WIKI

 そうなのねんよ・・いや、新唐書っちゅう本には微妙に違うニュアンスにはなっとるのねんけんどもね・・

「日本=倭では無く、日本が倭を併合!」

と、旧唐書には一度書かれ、その後出された新唐書(西暦1060年成立)には、

日本乃小國 為倭所并 故冒其號

「倭は小国の日本を併合し、その名を奪って号した」

と書いててね・・

「倭>=日本」

だと・・主張してるのねんよ。


 それって絶対・・

「おかしくね~すかぁ?」

 だって・・日本が見つかりもしないのにね・・日本の名前を奪えるのかの~?・・それに、一度は「日本=倭では無い」と言っておきながら、「倭>=日本だ」なんてね~・・。

 つまり、

「日本国隠し」

が行われた・・っちゅうことでんねん!倭が日本と単純に名乗りを変えたのなら、まぁ・・判らんでも無いの~・・。でも、日本と名乗る国、もしくは地域が有って、それが倭を併合したか、それとも倭が日本と名乗る地域・国を併合してその名を奪ったか?・・と聞かれりゃぁ・・勿論のこと、前者でしかあり得んだしょ?

「併合した国の名前を名乗ることは無い」

し、

「そもそも名乗りさえ無い日本の名など奪いようが無い」

のねん!


 っつ~ことは・・あれ?・・毛野氏って、上毛野(かみつけの・上野 こうづけ)と下毛野(しもつけの 下野 しもつけ)の毛野さんだしょ?・・じゃぁ・・日本って?あれ~?


っちゅうところで、すまんの~・・時間切れじゃ・・書きたく無いの~・・じゃぁまたね~・・

日本 その3






 倭の五王さんの話しは前にもしたけんど、覚えてるかな~~?・・ま、讃、珍、済、興、武 と言うお名前の王様でね・・

「だれがど~考えても日本人にゃぁ~思えん!」

っちゅう話しをしたように思うのねん。


 彼らは西暦413年から502年にかけて、今の中国に当たる国に貢物を献じてね・・倭王の称号と近隣の国の使持節都督として封ぜられたのねん。ま、今は「使持節都督」についちゃ説明はせんけんども、「その国の王では無く中国の代理の監督者」みたいなもんと思っておけばまぁまぁ・・でんな~。

 でね・・倭王武さんは西暦478年にね・・南朝宋に

「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六国諸軍事 安東大将軍 倭王」

に任ぜられてるのねん。

 長ったらしくてめんど~なのねんが、「使持節都督」「倭王」は何となくでも判るでっしゃろ・・。それに「安東大将軍」もね・・中国のお役の一つで、

「ちょっと偉い」

感じの官位だと思ってくれれば良いのねん。


 で、問題は、

「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六国諸軍事」

の、

「秦韓・慕韓」

にあるのねんな~。


 だって・・変だしょ~?西暦478年にぁ、秦韓、慕韓と言う国は存在せんことになっとるのねんから・・。秦韓は新羅「斯盧(しろ)国」に350年頃併合され、慕韓(馬韓)は百済に併合されてる・・ちゅうのんが今の常識とされてるのねん。

「もう存在せん国の監督も倭王のお役目のひとつなんでっか~?」

っちゅう疑問は無いのかの~・・。

 新羅や百済が出張る前はね・・三韓と言えば、「馬韓、弁韓、秦韓」だったけんども、西暦350年頃以降の三韓は、「高句麗、百済、新羅」ちゅうのんが常識で、それ以外の国は無いとされてたのねん。

 まぁ、そんなに厳しいことを言わんでもね・・それ以外の国も存在していたけど、

「中国のわしらに細かいことは判らんけん、もしかしたら秦韓・慕韓に他の国もあるのかもしれんからいちお~申請通り叙しとこうかいの~」

と、中国の王様も思ったのかもしれんからの~・・。


 でね・・まぁ、加羅や任那は昔の弁韓に括られるし、任那(みまな)についてはは韓国は認めんけんども日本府(にほんふ・やまとのみこともち)が有ったことは日本書紀も書いておるし、「新撰姓氏録」にゃ、

道田連 連   出自任那国賀羅賀室王也
多々良公 公   出自御間名国主尓利久牟王也
大伴造 造   出自任那国主龍主王孫佐利王也

など、任那の王様の出の公家さんを記録しとるしね・・ま、この方たちは、

「倭人」

なのでっしゃろな~・・。もっとも、「道田連の任那国賀羅賀室王」さんは、大加耶の王または、阿羅伽耶の王とされとるもんで、「任那(みまな)」っちゅうのんは何?っちゅう疑問の答えにはなっとらんけんどもね~。爾利久牟(ニリクム)王さんも百済人っちゅう話しもあるもんでね~・・。


 でねでね・・あんまり引っ張ってもしょうないもんで、そろそろ結論に向かわんといかんのねんが、やっぱりね・・


「西暦400年台の半島南部には、秦韓・慕韓の国々が存在した!

っちゅうことなのねんな~・・。中国の王様・皇帝さんも、ただ申請されたまんまに叙しておった訳じゃぁ無いのねん。ちゃんと判ってやってたに決まっとるのねん。そ~じゃなきゃ・・周辺諸国に

「馬鹿にされてしまう」

に決まっとるのねん。当たり前のことなのに、

「秦韓・慕韓はもう無かった」

で済ませてしまうのねん・・。きっと、そ~誤魔化さにゃならん必要が「今でもある」のかもしれんの~・・。


 因みに「秦韓」はね・・

「馬韓王が中国の労役から逃げてきた者たちに東部の土地を分けて住まわせ、国にした」

とされててね・・

秦韓(辰韓)12国

已柢国
不斯国
勤耆国
難彌離彌凍国
冉奚国
弁樂奴国
軍彌国
如湛国
戶路国
州鮮国(馬延国)
斯盧国
優由国

斯盧国が後の新羅(しんら・しらぎ)とされ、周辺他国を併合したとされてるのねん。

 また馬韓(慕韓)はね、

慕韓(馬韓)54国

感奚国
監奚卑離国
乾馬国
古臘国
古離国
古卑離国
古爰国
古誕者国
古蒲国
狗盧国
臼斯烏旦国
狗素国
狗奚国
內卑離国
怒藍国
大石索国
莫盧国
萬盧国
牟盧卑離国
牟水国
目支国
伯濟国
辟卑離国
不彌国
不斯濆邪国
不雲国
卑離国
卑彌国
駟盧国
桑外国
小石索国
素謂乾国
速盧不斯国
臣濆活国
臣蘇塗国
臣雲新国
臣国
兒林国
如來卑離国
冉路国
優休牟涿国
爰襄国
爰池国
一難国
一離国
日華国
臨素半国
咨離牟盧国
支半国
支侵国
捷盧国
楚離国
楚山塗卑離国
致利鞠国

と沢山有ってね・・伯濟国が後の百済とされ、周辺諸国を併合したと・・されてるのねん。


 でもね、上記のようにね、

「秦韓・慕韓の国は他にもまだ有った」
「百済・新羅の影響は受けていたが独立国家が有った」

と言えるのねんで・・中でも、

楚山塗卑離(ソサントヒリ・ショサントヒリ)国

なんぞはね、日本語じゃ「やまと」と読めるような「山塗」っちゅう漢字が当たってるしね~・・「臣蘇塗国」についちゃ、以前の記事で

「蘇塗(そと)」


「天君」のところで書いてるもんで見てほしいけんども、

「馬韓≒日本?」

と思えるような漢字・感じもあるのよねんな~・・まぁ、ここは今は余り関係無いのんで、はしょるけんども・・。


 でねでねでね・・ここで問題になる馬韓の国の名前が有るのよねん・・それが、


「不斯濆邪国」

でんな~・・


 何て読むのか・・非常にムズイのねんが~・・


「不」 は 「ふ」

    で・・ま~・・良いでっしゃろねん?・・「ぷ」かもしれんけんどもね~・・


「斯」 は「し」

    日本語じゃ 呉音 : シ 漢音 : シ

    中国語じゃ 普通話の ピンイン: sī (si1) ウェード式: ssu1 広東語 イェール式: si1

    韓国語じゃ sa

なのねんで、「し」「す」「さ」 のどれかの可能性が大きそうねんな~。



「濆」 は

    日本語じゃ 呉音 : ブン、ホン 漢音 : フン、ホン 訓読み ほとり、わ-く

    中国語じゃ 普通話 ピンイン: fén (fen2) ウェード式: fen2 広東語 イェール式: fan4

    韓国語じゃ bun もしくはpun

 なのねんで・・「ふん」「ほん」「ふぇん」「ふぁん」「ぶん」「ぷん」



「あれ?」


 ・・ま、良いのねん・・で、


「邪」 は・・

    日本語じゃぁ
    呉音 : ジャ、ヤ(表外) 漢音 : シャ(表外)、ヤ(表外)

    中国語は
     普通話 ピンイン: xié (xie2) ウェード式: hsieh2 広東語 イェール式: che4

      韓国語は sa もしくは ya


で、「じゃ」「や」「しぇ」「さ」


っつ~ことは?


「ふ」 「し」 「ふぁん」 「じゃ」


 意味判らんのんで、

」は「や」なのんで、いつも通り「卑字」を使ってると見なせば良いねんから、伽耶の「耶」と同じ意味の「場所や土地を意味するもの」とすると?


=加

」 = 「

だから・・

「ふ」 「し」 「ふぁん」 「ら」

・・・・


藤原


 ・・・こんなんなっちゃいますた・・xxタx ガクガク ・・


 ま、可能性は低いけんど、「濆」は「沸く」で「わ く」なのんで、「わ」・・と、さらにそのまんまかもしれんしね~・・。



 っつ~ところで時間切れかな~・・すまんのねん・・まだ「㶱」にはたどり着かんのねん・・。これでも一生懸命書いとるばってん、許してちょ~よ~・・。じゃぁね~ばっはっは~い。














日本 その2.5






 尉仇台・仇台(いきゅうだい・くだい・くで etc)さんがつくった国だから、その頃の倭の国じゃ「百済」を「くだら」と訓だのは判ってもらえたかどうか判らんけんども、「百済」と言う国はどうやら幾つか有ったのねんな~。少なくとも2つ、多ければ4つ有ったとねん。

 でもこれは歴史的にみると全然不思議なことではないのねんよ。それこそ「えっ!?・・徐福さんは何と~!?」で書いた「斉」っちゅう中国の国もね・・興ったり滅んだりしてるのねん。徐芾さんが日本に来る前には滅んどるけんども、また再興されて・・滅んでを繰り返してるし、「魏」の国だってそう・・アジアの国じゃぁ全く珍しくないのねん。

 ただ、その2つ(以上)の国が時代を被って存在してるもんでね・・周りから見ると、もしくは時代が下がってから古書を読むと、

百済っちゅう一つの国のこと

と勘違いしてしまうのねんな~。だから、「くだら」と言った場合は基本、

仇台百済のこと

と分けて考えんとね・・いかんのねん。


 それにね・・今までは何とか誤魔化しつつ書いておったのねんけんども、

「倭」

は、

「い」

と読んだらしいのねん。日本語が判る日本人はどうしても「わ」と読みたくなってしまうけんども、ここは「い」と・・読まんといかんのねんな~。


 「あたらしいこじき」には、「倭」を「イ」と読み、その者たちを「イチ」と言った・・と書いてあるけんどもね・・これは、

「夷家」

「彝家」

で「イチ」・・なのねんな~。「家」は今の中国の言葉で「ちゃ」・・だから「いち」なのねん。


 だいたい、中国では北や東の方角にいる異人・異族を

夷(イ)

と読んだのねん・・。日本だと「えびす・えぶす」でんな~・・。「征大将軍」なんてのも中国から輸入された言葉なんでっしゃろな~。誠意大将軍は・・違うのねんよ~・・ふるっ!


040715云南彝族毕摩 望传统文化代代相传 from Eacast Media on Vimeo.



 ところでね・・もし上のビデオが見えんようならご面倒でも、

https://vimeo.com/124310435

をコピーペーストしてご覧いただきたいのねん。中国のビデオなのねん。

 これがね~・・結構凄くてね・・。ど~見ても日本人でね、・・・ビデオの最初のうちなんぞ、何をしゃべってるか、全く判らんのにね・・

「日本語に聞こえてくる!」

のねんよ。

 顔もね・・日本人そっくり、頭は武士のように月代(さかやき)に剃っててね・・ちょんまげを結ってるビモさんもいるみたいだし~。で、ど~もこの方は・・

「彝族(イぞく)」

の方らしいのねん。中国は福建省を中心にいるらしい・・


イ族(イぞく、彝族, 拼音: Yízú)
は中国の少数民族の一つ。2010年の第6次全国人口普査統計では人口は8,714,393人で、中国政府が公認する56の民族の中で7番目に多い。

名称
 彼ら自身は「ノス」と呼ぶ。もとは「夷族」と表記されたが、清朝時代に、自らも漢民族ではない支配階層の満州人が蛮族を意味する呼称を嫌い、同じ音に「彝」の字をあてた。彝は「祭器」転じて「道徳」などを意味する雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は蔑称。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」では、部首にけものへんを付け加えるなど、多分に蔑視的な要素を含んでいる。

歴史
 イ族は中国西部の古羌の子孫である。古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。南詔王国を建国した烏蛮族が先祖だと言われている。

 精霊信仰を行い、ビモという司祭が先導する。道教や仏教の影響も多く受けている。雲南省にはイスラム教を信仰するイ族の集団もある。ただしそれらは、イスラム教を信仰するイ族なのか、イ語を話しイ族の文化に属する回族なのかは、明確には分別できない。

 雲南北西部と四川に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度をもっており、人は黒イ(貴族)と白イ(平民)に分けられていた。白イと他民族(主に漢民族)は奴隷として扱われたが、白イは自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあった。
by Wiki



 それにね・・ビデオの中頃に出てくる「古い本」の文字をみて欲しいのねんな~。何とね・・漢字じゃなくて、


「ホツマツタエのオシテ文字かハングルか?」

 みたいなね~・・読めそうで読めない、「イ族文字」らしいのねんよ~・・。


 そしてね・・実はこのおじさんは世襲の「畢摩(びも)」っちゅう「シャーマン」なのねん!・・「ビモ」でっせ~?・・しかも「イ族」!占いや祭祀を司るようなのねんよ~・・。


 倭(イ)にもそんなお方がいらしたよね~?・・そう、


「さよちゃん卑弥呼」

でんがな~・・。

 さよちゃん卑弥呼は鬼道に仕え、衆人を惑わせたと・・言われてるのねんが、イ族の「ビモ」さんも鬼道のシャーマンなのねん!

「卑弥(呼)」 =「毕摩・畢摩」

っちゅうね~・・式が成り立つと思えんかの~・・。さらには、

「卑弥(弓呼)」=「卑弥(呼)」 =「毕摩・畢摩」

ちゅうね~・・。

 だから、「さよちゃん卑弥呼」は、「さよちゃんびもこ」と読んだのかもしらんよね~・・。


20160724.jpg


 因みに、この文字は「びも」さんにしか読めん神聖文字だったんだと・・。それも世襲でね・・各部族に居るそうでね・・。それに、

「スーニー(蘇尼)」

と呼ばれる「びも」さんに似たようなシャーマンのお方もいらしてね・・こちらは世襲じゃなくて突然変異。病気が治らんでそのまま山に籠っていると、神様の言葉を通訳できるようになるらしいのねんよ~。

 こんなビデオを見てるとね~・・・ある昔話が蘇ってくるのねん。・・そう、14代の仲哀天皇さん・・でんがな~・・

 筑紫の香椎(かしい)の宮に熊襲を討とうとね・・いたときに、天皇さんが琴を弾くと神功皇后さんが神懸かりになってね・・。

「海の向こうに新羅と言う金銀財宝がたっぷりある国があるからお前にやろう」

とお告げが有ったのねん・・・が、天皇さんは、

「・・んなもん、知らんがな~・・」

とね・・無視してしもうたのねん。

 審神者(さにわ)役の武内宿禰(たけしうちのすくね)さんがね・・

「(神の仰せですから)オオキミ、琴を弾かれませ」

と、言ったのねんが、渋々従った天皇さんはね・・突然、崩御されてしまった・・っちゅう話しでんがな~・・。まぁ、熊襲の矢に当たって亡くなられたっちゅう話しもあるけんどもね~・・。でも、「びもさん」が、日本の侍さんみたいな頭で琴を弾いて、鬼道に仕えるなんぞを見るとね~・・重なるのよねん。


 でね・・さっきのビデオもそうだしね、イ族の方々のお写真をネットで検索したりすると、ま~これがね・・

「もし日本にいたら日本人としか思わんだろねん!」

としか見えん方が実に多いのねんよ。むしろ今の日本人の方がね・・国際色豊かに思える・・。


「あ~・・この人、漢人っぽいな~・・」

とか、

「この人は南方系かな~・・」

とかね・・感じてしまう・・。


 でねでね・・先の「斉」の国からいらした斉王さんの子孫もね~・・羌族が出身なのねんで、イ族の血統らしいのねんな~・・。今の中国は漢人が中心で、他の多数の民族を支配してるけんどもね。

 だから倭の国は、元々列島に住んでいた縄文人と、大陸や南方から押し寄せた難民たちが混血して出来た国だと言えるし、

「・・そんなこと言われんでも判っとるがな~・・」

「・・だけんども、仔細がよ~判らんのよねん~」

ちゅうことなのねん。


 まぁ、それでもね・・斉王さんも列島に住む者の一員になった・・そして「倭(イ)」は「彝(イ)」と無関係じゃぁ無いっちゅことが判ると思うのねんな~。

 おひまがあったらぜひね~・・「イ族」「彝族」でネット検索してみてほしいのねん・・ちゅうところでね・・今回は「説明に終始」してしもうてすまんの~・・「」を説明するにはもう少し掛かりそうなのねん・・「あれ」を説明するには「それ」を説明せんといかんし、「それ」を言うには「これ」も言わんといかんのんで~・・パニックなのねんな~・・。

 じゃぁまたね~!アディオ~ス!

日本 その2






 ま~ね~・・古代の日本のことを言うっちゅうことは、その周りの国のことまで調査せんと何も言えんっちゅうことになるし、その年代にはどんな状況だったかとか、それまでのそれらの国々の歴史も理解せんといかんっちゅうことなのんで、ファシレのおじさんにはめっちゃ荷が重いどころが、

「・・んなもん、無理だっちゅ~の!」

と放っぽりだすのが正常な精神を持った正しい人間には必要で寛容なことなのねんな~。昨今は現実と非現実が良く判らんよ~になってきてるよ~な気がするのねん。ま、ファシレのおじさんだけじゃなくてね。世の人、みんな・・でんがな~。

 大体にして、何が真実だったかなんてね・・改竄しなけりゃ対面が保てんどころか、自分の国を亡ぼすことにも繋がってしまうのねんから、どっちかっちゅうと、

「嘘も方便!」

ちゅうことでね・・生き残る方法を選んだのでっしゃろな~・・。ま~・・今も変わらんのでっしゃろけんども、それに慣れてしまってね・・結局は民を裏切ることにつながって、その王たちも滅んでしまったのねんな~・・。

 倭や日本の場合は君(キミ)、臣(オミ)、民(タミ)っちゅう感じでね~・・もっと遡れば耳(ミミ)がトップだったのでっしゃろがの~・・。


 倭の歴史の中では何故か「百済」と言う国がね・・非常に関わってくるのんで、まんずはココを何とかせんとね・・日本が「にほん」「にっぽん」になったかも明らかにならんのよねん。

 そもそもね・・

「百済」と書いて「くたら」と読む

なんぞはね・・

「東京」と書いて「フランス」と読む
は違うにせよ、

「出雲郷」と書いて「あだがえ」と読む


のと同じに近いと思わへん?


 ど~やったってね~・・「くたら・くだら」とは読めんだしょ~・・。まぁね・・何度も今まで書いとるもんで、目に蛸が住み着いとるかもしらんばってんね~。

 韓国語じゃぁ「ぺくちぇ」と読むらしいし、古代のその「百済」でもそれに近い発音だったと思われるのんが、倭・日本では何故か「くたら」と読んだのねんな~。

 これはね・・「旧多羅(くたら)」・・昔の多羅っちゅうことでね・・多羅っちゅうのんは伽耶諸国の一つでね・・倭人の国だったと言われとるけん、多羅の国が百済になったっちゅうことを言いたいのでっしゃろな~・・ふ~mm~ん・・クダラね~・・本当にそ~なんかの~・・。多羅が百済になったとしたら、多羅は無くなっちゃうんじゃないのかの~・・。

 百済っちゅう国はね・・扶余人(ふよじん)がつくった国と言われててね。高句麗と祖を同じくするっちゅうことになってるのねんな~。でもね・・実はこの百済については・・

「何が本当で嘘なのか、百済についてはほぼ何も判ってない!」

のねんよ・・。

History_of_Korea_(Goguryeo)_476_jp.png

 上の図を見てもね・・高句麗の北に有った「扶余国」がね・・「百済(ぺくちぇ)」になったっちゅうのんが、一般的な理解とされとるのねんが、

「それは・・嘘!」

 ま・・全くつながりは無かったとまでは言わんけんどもね・・扶余国(北扶余)が百済になったっちゅうことは無いっちゅうことでんな・・。

 そもそもね・・百済は660年・・いや、662年には完全に滅び、高句麗も668年に滅亡しとるのんでね・・半島には新羅しか残らんかったのねん。その新羅も935年には滅んでしまうのねんな~。

 百済三書(くだらさんしょ)と言ってね・・、『百済記(くだらき)』『百済新撰(くだらしんせん)』『百済本記(くだらほんき)』っちゅう百済の歴史を書き残した書が有ったのねんけんど、今は残って無いのねん・・。これもね・・白村江の戦いで百済が滅び、日本に移住した者によって書かれたらしいのねんで・・日本書紀に引用されとる部分でしか判らんのねんな~。

 あとはね・・「三国史記」って言うてね・・三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期に渡って書かれた書が有るのねんが、

「1145年に完成」

っちゅうね・・ど~もならん・・そんなに時が経ってしまえばもう忘れられてしまってたかもしれんし、情報が錯綜する中での完成やからね・・書いてあることがすべて正しいとも言えずね・・紀元前18年建国なんぞはね・・有り得んしね~・・だから、

「百済のことは何も判らん!」


のが正解なのねん。

 だから、

「何で くだら なの?」

っちゅうのんも判らんのねんな~。



「尉仇台(いきゅうだい・いきゅうたい)」

っちゅうお方が扶余国にいらしてね・・。高句麗の北の扶余でんな~。でも北扶余は西暦494年に、東扶余っちゅう国も410年頃には滅んどるのねん。でもこれは「扶余国」の話なのねんで~・・。

 一方、百済の方はね・・

 百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。

 建国時期が書かれている『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。

 通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身だと考えられているが詳細は不明である。
by WIKI


 ちゅうことでね・・紀元前から国は有った・・とされてるけんども、何か良く判らんと・・でも「扶余族」だと・・言うことなのねんが・・


「扶余国(王)と百済(王)は途中で入れ替わった?」

可能性が有るのねんよ。もしくはね・・伝わった情報が錯綜してしまい、扶余国と百済が混じってしまった・・もしくはね・・百済が扶余を仮冒した・・とかね~。

 百済の王様のね・・代々続いているはずなのねんが、ど~も途中で「ワヤ」になっとってね・・。兄弟なのにね・・兄の三代も後に王様になってたりするのねん。100年近く離れてしまえば、理解しろって言われてもね、そりゃぁ無理っちゅうことでんねんな~。

 でね・・

 唐会要百済伝には

「百濟者、本扶餘之別種、當馬韓之故地。其後有仇台者、為高麗所破、以百家濟海


(百済とは、本は扶余の別種で、馬韓の故地にあたる。 その後裔に仇台なる者がおり、高句麗に国を破られ、百家で海を渡った。因って百済と号する

とあり、百済の支配層は扶余族だったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余とつながりがあり、26代聖王が538年に泗沘に遷都した後に国号を「南扶余」としたこともそれは窺える。
by Wiki



 そ・・つまりは、「尉仇台」と「仇台」は同一人物かどうかはハッキリせんが・・「尉」は位の可能性が有るもんでね・・

「仇台( く たい )の国だから 仇(ク) 台(タイ) 羅(ラ)」


なのねんな~。


 ま、百家で海を渡ったとされてるけんども、高句麗を抜けるために半島の南部まで海を渡った・・とも言えるしね、もしくはね・・

「列島まで海を渡った!」

とも考えられなくは無いのねんよ・・。証拠は無いけんどもね~。でもね・・だからこそ、仇台のことを良く知っていたからこそ、

「百済=仇台羅」


「久太良(くたら)」と訓だのねん。古代の日本語は清音で濁らんけんね~。

 今でもね・・大阪にも奈良にも「百済」の名の付いた史跡は残ってるのねん・・。川も有れば寺も町もね・・有るのねん。白村江の戦いの後に出来た可能性も無くは無いけんどもね・・何せ天皇さんが・・いや、ま、それはまたその時に書こうと思うのねん。

 だから、少なくとも・・

「百済と日本はお互いのことを充分理解していた」

ので有り、だから百済が滅んだ時に国を再興しようと半島まで大群を送ったので有り、その結果として敗戦し、日本と言う国名に変更せざるを得なくなった・・と言えるのねんな~。


 大体ね、百家で海を渡ったところで、上陸すればね・・そこにも「君臣民」はいるのねんから、そこでひと悶着以上有ってしかるべきだしょ?

 だから、そのひと悶着が記録に残ってないか?っちゅうことが重要でんがな~・・。



 ま、もう1回くらい「百済」を説明せんといかんかな~?・・とは思うけんど、ど~しよね~・・。えらい大変なのねんが・・

で、

「㶱」

は、判ったかな~?・・

 今回はちと緩くてすまんの~・・ユルユルのダルダルでんがな~・・でもまた書くのんでね~・・お楽しみに~・・ばっはっは~い
プロフィール

NSY3

Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ブロとも一覧

aquarians

アギタの神が住む鎮守の森

山田貢司のどこに行くのか?バカボン一家
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR