麁鹿火さんって九州を手に入れたんだしょ?・・・その2






 書き忘れたことが有るもんでね・・それにしても気まぐれでんな~・・わし・・。自分ながら嫌になってくるの~・・。数か月間もブログを書かんと思えば、続けて書き込むことも有り・・良く判らんわ・・。何でこんなことをしとるのかと思い返すと元はと言えば、「山田貢司のどこにイクのか?バカボン一家」の張本人さんの無茶振りから始まっとる・・何だかな~・・でんな~。

 物部麁鹿火さんが滅ぼしたのは、実は物部の内紛で、同族同士の争い・・つまり、物部氏が「大王」だったっちゅうことやねんな・・。

 まぁ、記紀に書かれとるように・・と言うか、それをそのまま信じたとして、神武はんが饒速日はん、ナガスネヒコはんを服従させた時、互いの「印」を見せ合って同族で有ることを確かめ合った訳やからねん。素直に言っちゃえば神武はんも皇孫ながら「物部氏」、もしくは、後に物部氏と言われる氏族と同族・・っちゅうことやね~。

 で、物部麁鹿火さんと物部木蓮子(イタビ)さんが争い、木蓮子さんが滅び、後継者の「葛子」さんは追いやられた・・もしくは滅ぼされた訳なのじゃが・・

 まぁ、「イタビ + カズラ」 で「木蓮子 + 葛子」・・「洒落だ」と書いた訳。で、もっとね・・判りやすいのんが有ったのを忘れとったのよねんな~。

 イタビは昔から漢字で木蓮子と書くのねんが・・九州では「オオイタビ」のことを「イタビ」と呼んだらしいのねんな・・。ファシレのおじさんはその辺も全く詳しくないのねんで、オオイタビとイタビがどう違うのか、違わないのかが良く判らんのねん。

 でもね・・オオイタビを漢字で書くとね・・何と!

大崖石榴

 おお、がけ(ガイ)、いし、ざくろ

っちゅうことかな~。


 つまり、大きな崖や石をよじ登るようにして生える「蔓性植物のザクロ」みたいな植物・・っちゅうことかな~と。

 でねでね・・物部木蓮子大連さんが「筑紫君磐井」だったんだしょ?・・・っつ~か、記紀はそのような見立ての上になりたっとるっつ~か、そげなこつ言~とるのはファシレのおじさんだけだけんども、

「大連木蓮子」=「大崖榴」=「筑紫君井」

「オオムラジイタビ」=「オオイタビ」=「イワイ」

正式には・・っちゅうか、「井」に昔の仮名を充てると「ゐ」だから

「オオムラジイタビ」=「オオイタビ」=「イワゐ」

っちゅう図式になっとるのねん・・。


 まぁ、古代の日本語は清音で濁らんよ~だったらしいのんでね・・「イタビ」の「ビ」はど~なるのか判らんよね~。(大連 オオムラジと訓どるのんはど~なるんかいの~・・) 「ビ」も「ゐ(うぃ)」も・・・同じだしょ?「うぃ」なら「wi」なんで、「わ行」でっしゃろ?仮に、

「 I T A B I 」 が 「I T A W I 」 になるとするならね・・これ、ど~読むんかいの~・・

I T A W I  イタウィ

 これって・・

イワウィ


と、実際に発音したのを聞いたら・・同じだよねん・・。


 つまり、

木蓮子



イワイ

と読むのねん。

 もしくは、今風に言うなら

磐井

と書いて

イタビ

と読む・・。


 まぁ、物部氏の第12代から第14代の当主の順番がグッチャグチャなのんは、持統天皇さんの時代に豪族さんたちに墓誌を提出させ、焚書したことも絡んどるとは思うけんどもね・・それに、木蓮子の読みはフツーなファシレには「もくれんこ」としか読めんけんどもね~。

♪♪ 木蓮~~の~~つ~ぼみがぁ~~ ひ~らくの~を~~ 見るたびにぃ~~♪♪

・・っちゅう訳で取り合えずの言い訳・・を・・♪♪・・置き去りに・・♪♪。

 やってくれはったね~・・不比等ちゃん・・すっげ~!・・ほな、まったね~!


麁鹿火さんって九州を手に入れたんだしょ?






 お久しぶりでんな~・・世の中はやがて訪れる混乱の前のちょっとした平穏・・みたいな感じで、北と南は仮面で顔を覆いつつ、ひきつった笑顔・・。見たく無いの~・・。ま、平和なのは良いけんどもね~。

 文書を書き換えたと某新聞社のスクープで、安倍政権の屋台骨を揺るがしかねない将来も有るようだけんどもね・・庶民にゃぁ余り関係にゃぁすな~。

「・・やったんだしょ?・・xx小学校だしょ?・・名誉校長は誰?・・決まりだしょ・・いつまでやっとるん?」

ちゅうこっちゃよねんな~。

 ま、2018年の夏、7~8月は・・特に7月、かなりヤバい感じは前々からしとったけんね~・・ちと身の振り方には気を付けにゃぁあかんよ・・。夏だ、バケーションだ、なんだかんだと浮かれてる場合じゃねえ~・・・ったって気を付けよ~もどうしよ~も無いことだけんどもね~。何が起こるんかの~・・もしかしたら誰かが止めてくれるか、思い留まるかもしらんけんど、止まったら止まったでそれで済んでしまう・・起きようとしていたことすら世に出んし、その真実すらも表にならんしの・・もし起きてしまったらその上っ面な部分だけは庶民たるわしらも知ることになるんだろうけんどもね~。ただ、311の前日まで3カ月間のような物凄い胸騒ぎ、不安と焦りみたいなものはまだ無いのんが救いかの~・・。


 そうそう、「天(あま)」について、ずいぶんとほっぽりっぱなしですまんかったのねん・・。結構めんど~なのねんな~。ま、少しずつ書こうと思っとるけんね~。

 ところで時はほぼ西暦500年頃、場所は「倭」でんがな・・。継体天皇(けいたいてんのう)さんが第26代の天皇さんとして即位したと言われとるのねん。在位は507年から531年(頃)。

 「頃」と付いとるのんは、あまり定かでは無いのねん。ハッキリせんのねんな~・・高々1500年前のことだけんどもね・・。

 能力者の「見える方々」が言うにゃ、

「・・・あら・・大王(オオキミ・天皇)さんの(直系の)血筋、絶えちゃったわ・・ど~しょ~・・」

と、自分たちがやったことを思いっきり棚に上げながら青くなった大臣・大連(マエツキミ)の嘆きが有ったそうなのねんが・・。


 そんな時に出てきたのんが「継体天皇さん」でんな~・・。ま、このブログでもずいぶん前に書いとるのんで探してみてほしいのねん。前代の「武烈天皇(ぶれつてんのう)」さんは、日本書紀には、

「極悪そのもの!」

と描かれとるのねん!・・ま~・・ホントだったら酷いものなのねん・・。さっきの話しから、まったくの嘘だろ~と思うけんどもね~。


 でね・・ま、そんな嘘っぱちな極悪非道な日本書紀の書いた部分は置いとくとして、武烈天皇さんは皇太子の時、

「物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。」
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のだそうなのねん・・。覚えとってね・・物部麁鹿火(もののべのあらかい)さんの娘、影媛(かげひめ)さんね~。

 で、何故か武烈天皇さんはたったの「8年」の在位で、子供もいないまま、崩御されたそうなのねん。ま、そこでさっきの、

「・・・あら・・大王(オオキミ・天皇)さんの(直系の)血筋、絶えちゃったわ・・ど~しょ~・・」

なのねんけんどもね・・。ここは今は突っ込まんよ~。脇道に行き過ぎてしまうからね~。


 で、大臣・大連たちは北陸の方から血筋のお方を探し出してきた・・それが継体天皇さんでんな~。判るよね~。


 北陸から出ていらした継体天皇さんは継体21年に、

「磐井の乱(いわいのらん)」

に出くわすのねん・・。新羅を討とうとして近江毛野さんを九州に派遣したものの、筑紫国造の磐井さんが通さなかったと・・それで争いになったと伝わるのねんな。

で、継体天皇さんは大連(おおむらじ・・まぁ、大将軍っちゅうところだしょ・・)の物部麁鹿火(もののべのあらかい)さんに、

「筑紫以西の統治を委任。翌年11月に筑紫三井郡にて磐井を破って処刑」
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 のよ~にさせたのねんな~・・。

 そう、

「筑紫より西、つまり九州を継体天皇さんからいただいた」

のねん。ま、細かく言うともっと東・・本州の西の端も入っとったのねんけんどもね~。つまり、

「記紀は、物部麁鹿火さんの九州統治・支配を認めている」

のねん。つまり、

「九州王朝らしきものを認めている」

のねん!物部麁鹿火さんは九州王朝の大王・・っちゅうことにならんかの~・・。


 物部麁鹿火さんは継体天皇さんの次代、安閑天皇さん(在位531年3月10日?~536年1月25日?)の時も大連として安閑天皇さんを支えたことになっちょる。

 オカシイと思わん?・・その頃の九州を手に入れてね・・文化の最先端、半島や大陸の情報や物がどんどん入ってくる地を持っていて「大連のまま・・」なんてね~。・・ま、いいわ・・。そんなことにカマッテはいられんのんで。


 でねでね・・その安閑天皇さん、継体天皇さんの長子で、母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)さん。

皇后:春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ。仁賢天皇の皇女)
妃:紗手媛(さてひめ。許勢男人大臣の女)
妃:香香有媛(かかりひめ。紗手媛の妹)
妃:宅媛(やかひめ。物部木蓮子大連の女)

記紀に皇子女の記述はない。『本朝皇胤紹運録』に「豊彦王(とよひこのみこ)」を挙げるが、所拠不明である。
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で、在位はたったの4年ほど崩御され・・次代で弟の宣化天皇さんになられたのねん・・が、ここで大問題が起こるのねんよ。

 安閑天皇さんのお妃さんに物部木蓮子大連さんが居るのねんけんど、そもそも大連は九州王朝らしき大王の物部麁鹿火さんだしょ?・・まぁ、在任中に亡くなられて代わったと考えられなくも無いけんどもね。でもね~・・

物部 木蓮子(もののべ の いたび、生没年不詳)は、古墳時代の豪族。物部氏十二世。父は物部布都久留(ふつくる)。弟に小事・多波が、子に麻佐良・宅媛(やかひめ)がいる。名は伊陀寐(いたび)と読む。

『先代旧事本紀』「天孫本紀」は、宇摩志麻治命12世の孫で、仁賢天皇の時代の大連とし、石上神宮を奉斎した、とする。また、『日本書紀』では、安閑天皇の妃に物部木蓮子大連の女宅媛をあげる。なお、安閑天皇の妃には、宅媛の他に皇后の春日山田皇女と、許勢男人大臣の女紗手媛・香香有媛の姉妹がいた。
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 つまりね~・・物部氏は、

12世 木蓮子(いたび) 娘に宅媛(やかひめ 安閑天皇妃)
13世 麻佐良(まさら)
14世 麁鹿火(あらかひ)

と言う継承になっとるのんにね・・木蓮子(いたび) さんの娘の宅媛(やかひめ)さんが安閑天皇さんの妃ちゅうことになっとるのねんよ。あり得んだしょ?

「安閑天皇さんって・・どんなに年増好きなのねん?」

 ましてや、先々代の武烈天皇さんの時代

麁鹿火(あらかひ)さんの娘、影媛(かげひめ)さんを皇太子さん(武烈さん)と大臣の息子さんで取り合いし、大臣一家を滅ぼしたことになっとるのねんから・・。これって一体、ど~ゆ~ことなのねん??


 つまりね、ここんとこは

「都合が良く無いので書き換えられた」

「良く判らないので適当に書いた」

のねんで、おそらく前者、結果として脈略が無くなってぐちゃぐちゃになってしもたのねんな~。ま、思いっきりオマケして代をずらしたとしても、

「孫娘はタイムマシンにでも乗らんと数十年前に嫁ぐことは無理」

なのねんからね~。


 で、ここはど~書き換えられたか、元はど~だったかっちゅうことやね~。記紀もまるっきり嘘を書いとるのんではなさそうでね・・。安閑天皇さんは継体天皇さんの長子っちゅうことになっとるのねんけんども、そこがまず嘘。

 安閑天皇さんこそ、実は・・

「物部麁鹿火さん」

なのねん。


「あ・ん・か・ん」
「あ・ら・か・ひ」

・・似てはおるけんどもね・・。九州王朝に気を使ったのかの~・・


 で、「磐井の乱(いわいのらん)」こそ、かなりの・・

「嘘だらけ」

なのねん。

 継体天皇さんの命令で大連の物部麁鹿火さんが筑紫君磐井さんを討ったように書かれとるけんど・・

「これは単なる物部氏の内輪の争い」

なのねんよ。

 それも物部麁鹿火さんが・・

「物部木蓮子(もののべいたび)さんを滅ぼした!」

のねん。そんでもって、娘の宅媛(やかひめ)を側室にし、息子の葛子(くずこ)さんを追い出した・・と言えるのねん。で、おそらく息子さんの葛子さんは、

「物部麻佐良さん」

なのねん・・いや、ここは自信は無いけんどもね・・これって実は

「記紀特有の嫌味な洒落(しゃれ)」

なのねん。

大辞林 第三版によると、
いたび 木蓮子
1. イヌビワの別名。
2. イタビカズラの古名。

そう・・イタビの次がカズラっちゅう訳・・。ふざけとるしょ~?・・そうやって物部氏を貶めたのかもしらんね~。で、その後は物部氏も力を削がれ、物部守屋さんが蘇我氏に討たれ、石上(いそのかみ)氏と名乗りを変えて行くのねんな~。まぁ、北部九州の石人石馬・・を見れば、

石上=石神

を想像させるよねん?


 ちゅうことで・・ちょっとだけ・・書いてみたけんども・・ホント、どこから書いたら良いのか判らんの~・・。ほんじゃまた!

武内宿禰さんって、実はスサノオさんだった!?






 自公圧勝で総選挙も終わったのねん。・・予想通りっちゃ~・・そのまんまだったのねんが、人の醜さが思いきり出た、そんなもん見たかね~・・みたいな出来事かなん?・・と思ってもうた。

 確かに、筋を通した枝野さんが受けるのは判るし、キビシ~♪♪言葉をツイツイ使ってしまったがために風を止めてしまった都知事さんの落ち込みも判る・・。

 だから、総選挙をやったのねんよ・・?

 だから、今がチャンスとばかりに、某首相さんは、すべてをウヤムヤにしたいがために、時間稼ぎをしたいために、他人に責任を押し付けたいがために、追及の先鋒を葬り去るために・・そうしたのねん。

 高笑いしとるのが判るの~・・。国民は彼にとっちゃぁ「こんな人」に過ぎんのねんよ。それが判ってても、目先の利益のために自公に投じた人が多いっちゅうこっちゃねんで、闇は深いの~。

 それに、枝野さんに投じた方々も、その気持ちは高尚な精神をお持ちな方が多いと思うのねんが、戦法を間違えたのは都知事さんだけじゃないのねん。枝野さんも間違えてるのねんで・・。何しろ、バックパスに近い・・・っちゅうか、オウンゴールそのものっちゅう、民主党党首選なんぞやり始めたのがそもそも~。なんのためにやったんだろね~。某首相を引きずり降ろすと言う意味においては・・最悪なのねん。

 メディアもま~・・酷いもんで、ファッショの某首相の圧力を恐れてか、行燈付けての報道ばかり。野党は票が割れりゃアウトですよ・・と位、ハッキリと大声では言わんでね・・。いいとこ、希望は40議席~60議席の見込み、立憲民主も同様・・位にしか言わんしね。割れるように導いてるとしか思えんのねん。

 つまり、どんなに野党が頑張って連携しても、混乱は避けられないだろうから今がチャンス・・ちゅうことやね。してやられたのねん。絶対負ける要素の無い自公に絶対勝てる要素の無い野党・・あほくさ・・と思ってしまうのねん。


 「アマの影」を興味深く読んでいただけた方には、

「お~・・なるほど・・そ~ゆ~見方もあるんか~・・」

と思っていただけたかもしれんけんど、

「・・だから・・何?」

っちゅう方が大半なのかもしらんね~。確かにそんなことが分かったにせよ、意味が分からんにせよ、そんなこっちゃで飯が食える訳でも無いしねん。

 でも、アマって一体何なんだろう?・・って、誰にも判っておらんし、学者先生方もハッキリした言及をされていらっしゃる方もおらんしね。

 それに、阿麻來服の新羅本記の記事にせよ、ほとんど無視しとるもんで、「阿麻來服」でググると古田先生関係でちょこっと引っかかるだけ・・ほぼ読者がいないファシレのおじさんブログが五番目に引っかかると言う体たらくなのねんで~。

 ま~そんな小言を言っても始まらんけんど、も~少しちゃんと調べんかい!・・と言いたくなってしまうの~。


 でね・・そんな「阿麻、天(アマ)」を説明するにゃぁ・・あれを言っとかんといかん、そっちも説明せにゃいかん、これも書いとかんといかん・・ばかりになってしもうて、

「わしゃ学者か!」

っちゅうような気持ちにもなってまうが、全くそんなつもりも無く、ましてやただのその辺にただ息をしとるおじさんに過ぎんのねんで、

「・・何だかな~・・」

と虚しくもなってまうがの~・・あら、また・・


 気を取り直して、じゃぁ、例えばこんな暴露はいかがでっしゃろな~~。

「武内宿禰さんって、実はスサノオさんだった!?」


「・・・始まったよ・・。・・だからこんなロクでもね~ブログ、誰も読まね~んだよ!」

 ま~・・ファシレのおじさんも、そんなお気持ちはよ~く判るのねん。ファシレ自身、

「・・マジか~・・」

と思った位だからねん。ましてや学者さんはおろか、おそらくどこの誰もそんなはしたないことを言ったことが無いとさえ思うけんどねん・・いや、そんなことの調査はしとらんよ・・時間の無駄だし、もしファシレ以外の方が言っておったとしたら、すまんでした・・と。

 例えば、神代の日本の英雄であるスサノオさんは、こんな字で表現されとるのはご存知かと思うのねん。

スサノオ
スサノヲ
素戔男尊(日本書紀)
素戔嗚尊(日本書紀)
建速須佐之男命(古事記)
須佐乃袁尊(古事記)
神須佐能袁命(出雲国風土記)
須佐能乎命(出雲国風土記)

 ま、カタカナはそのまんまだけんど、漢字の方だすな。良く見てみると、古事記や風土記の方は、

「実際の読みを漢字で当てはめている」

ように見えるのねん。

 日本書紀の方は、一瞬、「ん?」だしょ?・・これで「スサノオのみこと」と読むのかな?と。

 でも現代の我々には、古事記や風土記で読みやすいような感じになっとるもんで、知らず知らずの間に納得させられてしまってるのねんよ。それに、古事記にも「暗号」が隠されてるしね~。

 だから、おそらくなのねんが、日本書紀の書き方が正しい、最初からのもので、古事記や風土記は、そのように読ませるのが目的・・と考えられんかの?・・もちろんだけんども、そんなことは簡単に見破られるだろうと踏んでのその逆も有るんだけんどもね。そもそも、そんなことさえ今まで見破られてないのは事実だっしょ?


 じゃぁ、行ってみよ!日本書紀の最初のやつから。

素戔男尊


中国語の上古音で 
中国語の閩南語で sò·  sù
日本語でも      ソ、


中国語の上古音で cán, jiān
日本語では     ザン、セン、サン


中国語の呉語で noe1
      中古音で  nom
      上古音:で *nˁəm {*nˁ[ə]m}
日本語で       ナン、ダン、おとこ、お、み

 だから・・?うまく拾うと

ス、サン、ノム

で、スサノオ・・っちゅうことなのねん。


 でもね・・、この、「素」はそのまんまにしておいて、「戔男」を上古音・・つまり、徐福さんが日本に来た頃の発音でんな・・これで拾うとどうなるんでっしゃろの~?

su cán *nˁəm

ス カ ネム


「スクネ!」


 スクネと言ったら?・・武内宿禰さん・・だしょ~?ちゃうか~?・・ま~、武内宿禰さんの後からは「カバネ」になってしもうたような感じだからの~。

素戔嗚尊




もね・・

 中国語だと、現代に伝わっている音は「wu」だから

「う」

 これだと「スサノウ」がちょっと厳しい感じの、

「スサンウ」

 まぁ、su san wu だから・・と何とか読めるかもしらんが・・su can wu を「スクネ」にあてるのはムズイかもしらんね。

 でも、スサノオさんの「オ」は、実際は「ヲ」で有って、これは、「ウォ」と言う発音、

乎・呼・袁・遠・鳥・鳴・怨・越・少・小・尾・麻・男・緒・雄

 の文字から安易に借字したとも考えられるのねんからね。それに、遠・怨・越 辺りの文字を借字してしまうと、バレバレだしょ~?スカンネ・スクネと読めって言ってるようなもんじゃけんね~。


 だから、上古音で読む限りは、最も正しいと思われるスサノオさんの漢字の当て字素戔男は、

「スサノオとは読めん!」

「スカンネ」

と読む・・のねんよ~~。判った~?


 大体、ずっと後、現代になってからの発音で読んじゃいかんのよ~・・。それにね・・

「古事記の暗号!」


 それは、

建速須佐之男命

でんな~。

 この「建速」だけは、他には記載されとらんしね~・・。この「建」が武内の「武」と同意・・と言うのは判るよねん?「タケ」「タケシ」だからねん。それに「建内宿祢」とも書くしねん。

 だとすると、「速」が「内」に読めるとすると・・これで・・

「決まりだしょ?」




中国語の普通語で su
      上古音:で  cuk1
広東語で       chūk、 ˈtsuk

「uk」

が有るだしょ?・・広東近郊は倭人の故郷とも言われとるけん・・上古音も含めて発音記号には「UK」が有るっちゅうことは、

「建速」=「タケシウチ・タケウチ」

と読めんことも無い・・だしょ?・・キビシイかの~・・・。


 ま~・・どうしても、

「そんなもんはトンデモ説に過ぎん!」

ちゅうお方も沢山おられるのんで、じゃぁ・・最後に決め手を、ダメ押しをしちょうか~。


 スサノオさんは、いろんな名前を持っちょるけんど、訳の判らんのんが、

「牛頭天王」

でんな~・・。


 牛の頭をした天王はんなのでっしゃろな~・・。牛頭天王は、京都祇園社(八坂神社)の祭神さんで、まぁ、スサノオさんと確定されてるのかされとらんのか・・っちゅう感じだしょ?

 これ、ちゃんとね・・読むと大変なことになっちょるのねんよ~。




中国語の各種で niú (niu2), mào (mao4), mù (mu4) 、gû
朝鮮語の各種で u、wu
日本語でも    ウシ



中国語の各種で  tóu (tou2)、 t'ou2、tau4
朝鮮語の各種   du、 tu、 twu
日本語でも     ズ、トウ

 牛は、「ウ」と読み、頭を「ツ、トゥ」と読んだら?

内天王

 ・・だしょ?


 まぁ言っちゃえば、牛頭天王なら、「うずてんのう」-->「うつてんのう」と簡単に変化するだろ~ことは感じられるよねん?


 そう・・・武内宿禰さんは記紀によって、

「スサノオさんと合体・習合されていた!」

のねん!


 だから武内宿禰さんは、宿禰なんちゅう、カバネなのか名前なのか判らんような名を付けられてたのねん。

 だから武内宿禰さんは、何代もの天皇さんに仕えて300年も生きたことになってるのねん。


 じゃぁ、神話のスサノオさんは武内宿禰さんなのか、武内宿禰さんがスサノオさんなのか・・判らんよね~・・。


 もっと言っちゃえば、「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」さんも・・実は武内宿禰さん・・なのねん。「高木神(たかぎのかみ)」とも言われるけんども、これは

「武(高)+紀(木)+神」

なのねんな~。

 めんど~なんで説明はせんよ~・・。でも、今までの説明である程度想像できたっしょ?・・まぁ、武内宿禰さんは「紀氏の祖」だしね。

 それに、スサノオさんの息子さんと言われる五十猛神さんは、

『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述から、五十猛神は林業の神として信仰されている。紀伊は古来より林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられる。
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 なのねんで、紀伊(木・紀の国)とは大いに関係しとる・・と言うか、そのものに近いっちゅうかね・・五十猛さんは、木の種を日本中に撒いたとされとるのんでね~。


 皇居の八神殿(はっしんでん)は、天皇守護の8神を祀る神殿なのねんが、第一座に、

神産日神 かみむすびのかみ

第二座に、

高御産日神 たかみむすびのかみ

が祀られとるのねん。神産日神さんは、高御産日神 さんの息子さんとされててね・・。親子で皇居に祀られとるのねん。決して皇祖神である天照大神は皇居には祀られんのねん。

 この意味が判るとね~・・っちゅうところで、疲れたもんで、今日はこの辺で・・。またね~!




だ~れかさんが・・紀を書き換えたのねん・・






 しかし、これだけ毎日、醜い争いを見せつけられると、つくづく

「歳は取りたくないものよの・・」

と感じてしまうの~。


 政争相手が不利と見れば、伝家の宝刀よろしく・・

「解散!」

と、嫌だ嫌だ、何やかやと理由を付けて逃げ回った挙句、ようやく開催した臨時国会の冒頭で議長に言わせてしまうんだからの~・・。


 大体、

「国民に信を問わなきゃならん時には解散せんで、誰がどう見ても党利党略と私利隠しが大義!」

っつ~ことは、如何にアホで盲目な国民にでも充分過ぎる位に見えるよね~。


 ま~・・「お友達に利益供与したのを突っ込まれたくない解散」っちゅうことやろうね~。


 それに憲法の第7条による衆院の解散だってね・・そもそもは首相が決めて良いことにはならんのよね~・・条文を都合よく解釈しとるだけ・・っとも言えるのねん。

天皇は内閣の助言と承認により国民のために、左(次-->下)の国事に関する行為を行ふ。
 衆議院を解散すること。

 この条文でね・・首相が解散権を行使できることになっとるのねん。


 ま~・・天皇はんは国事行為以外は何も権限を持っとらん・・っちゅう建前になっとるのねんで、そうなっとるのねんけんど、これでさえ、

「じゃぁ、天皇さんが・・嫌だと言ったらど~すんの?」

ちゅう部分はちと、あやふやなのねんな~・・。


 まー、

第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

ってことなもんだからね~・・。


 だから、

「天皇さんが国事行為を拒否、摂政になった方も拒否、挿げ替えられた次代の天皇さんも拒否すりゃぁ、解散はできん」

っちゅうことなのねんけんどもね~。


 でもま~、そ~なったらそ~なったで、何事も進まん状況になって大混乱だけんどもね~・・。そこら辺は日本国憲法のい~かげんな部分では有ると思うけんどもね~・・。天皇はんも日本のことを思うなら意を決して解散詔書に、

「×」

とでっかく墨書きしたれば良かったのねん!・・それで退位されたら偉いカッコよかったのねんけんどね~・・いや、後のことはわしゃしらん・・


 それにしても・・・ジャーナリズムも政府にオベッカで「忖度新党批判」・・この状況にしたのは誰なのかの~?ここまでの国民不在
は今まであったのかの?

「醜い!」

 醜いの~!


 天智称制はね・・紀によると、斉明天皇さんが亡くなられてから皇太子の天智さんが即位せずに政治を司ったとされるのねん。西暦に直すと、

661年8月24日 斉明天皇さんの死去

から、

668年2月20日 天智天皇さん即位

だから、足掛け7年間・・だすな~。長いの~・・長すぎる・・意味が全く判らんちん・・なのねん。



 で、「さらに可哀想な斉明さん」でも書いたけんども、

668年2月第一週立春 阿麻(アマ)さんが新羅に出頭

しとるのんで・・・斉明さんが阿麻として新羅に出頭したと言うことは確実なのねんよ。


 だけんども、だ~れもそれを言わんのんで~、しゃ~ないもんでファシレのおじさんが記事にしたって訳・・。

 だからその証明をね~・・もう少しちゃんとせにゃいかんばってん、こんな記事になっちまった訳だすな~。若干見にくいかもしらんけんども醜きゃなかろうもん?


 前の記事にはね、「天」っちゅう和風諡号の付く天皇さんを上げたのねんな~・・こんな感じ・・

第29代天皇 欽明さん 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)
第35代天皇 皇極さん 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
第36代天皇 孝徳さん 天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)-->皇極・斉明さんの弟さん
第37代天皇 斉明さん
第38代天皇 天智さん 天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)-->皇極・斉明さんの息子さん
第40代天皇 天武さん 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)-->皇極・斉明さんの息子さん
第41代天皇 持統さん 大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
          高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)-->天武さんの奥さん、天智さんの娘さん
第43代天皇 元明さん 日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと)
第45代天皇 聖武さん 天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)
第49代天皇 光仁さん 天宗高紹天皇(あまつむねたかつぎのすめらみこと)

(第42代天皇 文武さんは797年になってから天之真宗豊祖父天皇 と諡されたので・・一応パス)
(第50代天皇 桓武さん -->別称で 天國押撥御宇柏原天皇)
(第51代天皇 平城さん -->別称で 日本根子天推国高彦尊)
(第53代天皇 淳和さん -->別称で 日本根子天高譲弥遠尊)
(第54代天皇 仁明さん -->別称で 日本根子天璽豊聡慧尊)

 確かに和風諡号に「天(アマ・アメ)」が付く天皇はんは、これで全てなのねん。

 でもね・・間が抜けとるよね~?・・繋がってそうで繋がってないなんて、おかしいだしょ?・・不思議に思わん?


 じゃぁ、ここにね・・生誕年と死亡年・・と推定・確定される年月日を入れてみよ~か~?青字は、「天」が付かない天皇はんなのねんよ・・ほい、スタート!

29 欽明(509年?) - (571年5月24日?)

35 皇極(594年) - (661年8月24日)
36 孝徳(596年) - (654年11月24日)
37 斉明(594年) - (661年8月24日)
39 弘文(648年) - (672年8月21日)
39 天智(626年) - (672年1月7日)
40 天武 生年不明 - (686年10月1日)
41 持統(645年) - (703年1月13日)
42 文武(683年) - (707年7月18日)
43 元明(661年) - (721年12月29日)
44 元正(680年) - (748年5月22日)
45 聖武(701年) - (756年6月4日)
46 孝謙(718年) - (770年8月28日)
47 淳仁(733年) - (765年11月10日)
48 称徳(718年) - (770年8月28日)
49 光仁 (709年) - (782年1月11日)
50 桓武 (737年) - (806年4月9日)
51 平城 (774年) - (824年8月5日)
52 嵯峨 (786年) - (842年8月24日)
53 淳和 (786年) - (833年3月22日)
54 仁明 (810年) - (850年5月4日) 和風諡号を奉贈された最後の天皇


 一応ね・・和風諡号だけじゃなくて、別称も含んどるけんどもね・・これを若い年代から見てみると・・

 52代の嵯峨天皇さんは「天」が付かんよね?・・でも、51代平城天皇さんが774~824年、生きとるもんで、53代の淳和天皇さんの786~833年と、重なってるよねん?判るよね~?

 46、47、48代は三代続けて「天」の名乗りが無いのねん。けんども、45代の聖武天皇さんが701~756年、49代の光仁天皇さんが709~782年なもんでね~・・重なっとるだしょ?

 44代の元正天皇さんは「天」の名乗りは無いのねんが、43代の元明天皇さんは661~721年、45代の聖武天皇さんは701~756年だったから重なっとる。

 39代の弘文天皇さんは、そもそも天皇さんと認められたのが明治時代になってからなもんで、和風諡号が無いし・・でも、親とされる38代の天智天皇さんと叔父さんとされる39代の天武天皇さんに挟まれてる訳だから、ここも重なっとるよね~?


 で、

 問題は、29代の欽明天皇さんの509~571年と、35代の皇極さんの594~661年・・いや、

ここは「594年の生誕から668年以降」 で確定なのねんが・・皇極さんと斉明さんは同じお方とされているのねんでね~・・

 この29代と35代の天皇さんの間、30代、31代、32代、33代、34代の天皇さんは、ここにお名前は書いちゃいないけんども「天」の名乗りは無いのねんよ。つまり、

「天の名乗りは短く見積もっても571年から594年までの13年間、見当たらない!」

 っちゅうことになっとるのねん!

 しかも西暦594年は皇極天皇さんが生まれた年だから、

「生まれてすぐにアマを名乗る訳じゃ・・おそらく・・無い!」

のは当然なのねんから、


「皇極天皇として即位する 642年2月19日 までの間、71年間の天(アマ)が不明!」

ちゅうことだしょ?


 それにね・・皇極即位は642年2月19日、斉明さんがアマとして新羅に出頭したのが688年2月立春、天智即位は・・なんと、

「668年2月20日!」

なのねんよ~・・。46年を経て、2月19日の次の日は、2月20日なのねんな~・・。誰でも判るよね~。天智さんがここにこだわったのか、後に書き換えられたのか・・っちゅうことでんな~。・・おそらく後者だと思うけんどもね・・。皇極さんとしてじゃなくて斉明さんとしての即位日は、2月14日だからね~・・その意味は書けたら書くのねん・・。

***文が変なのでちょっと訂正加筆したのねん

 立春は冬至と春分の中間だしょ?冬至は一番、日の短い日で今の暦だと大体12月22日頃・・春分は昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなる日で、冬至から1/4年先・・・3月20日頃なのねん。立春は2月3~4日辺りでんな~。

 で、この時代はおそらく1ケ月位、日が前倒しになるもんで、立春は1月辺り・・。

八年春 阿麻來服

 っちゅうことは、立春後に「阿麻」たる斉明さんが新羅に出頭したのねん・・。そして、

遣元器與淨土入唐

 阿麻が出頭して来たあ?そりゃ~大変だ・・唐皇に知らせなきゃいかんぞ~!・・っちゅうことで元器さんと淨土さんと使いにやったのねん。だから、668年の春までは斉明さんは生きておられて出頭し、その後・・っちゅうことやね。


 紀には、こんな風に書いてあるのねん・・

天智六年(667年)二月、天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女とを、小市岡の上の陵に合わせ葬す。

 ま、娘だった間人皇女(孝徳天皇のお后、間人大后さん)と一緒に葬った・・っちゅうことなのねんけんど、斉明さんは661年に亡くなられたのならね・・6年も放っておくなんて、ありえんだしょ?斉明さんはお孫さんの建王(たけるおう・・8歳で亡くなったお孫さん)と一緒に葬ってくれと遺言してたのねんが、それも聞かれなかったっちゅうのねん。有り得んだしょ?


でもね・・さらには続日本紀によると、文武三年(699年)10月に文武天皇は「越智山陵」と「山科山陵」を新規造営したっちゅうのねんよ・・。「越智山陵」は斉明天皇さんの陵、「山科山陵」は天智天皇さんの陵とされてるのねん。

  つまり、斉明天皇さんの亡骸は、亡くなられたかなりの後になってからようやく、陵に入れられる状況になったっちゅうこと・・661年死亡説はでっち上げっちゅうことだしょ?

「斉明さんは少なくとも668年2月頃までは生きていたっちゅうこと!天智称制は嘘八百!」

「斉明さんの新羅出頭を隠す意図が働いた結果がこれ!」

っちゅうことなのねん。

 ま~・・おそらく、不比等ちゃんがやったのねん!・・・と思うだっしょ?・・違うのねんな~・・これをやったのは、

「桓武天皇さん!」


でっしゃろな~・・。


 ま~・・これを説明するのんは、ちと大変なのねんで~・・書けるかどうか判らんけんども先に延ばさせて貰うのねん。


 でもね・・まだ疑問は残っとるよね~・・?


 そう、欽明天皇さんが「天」で、皇極・斉明さんが「天」だとしても、その間の「天」が誰だか判らんだっしょ?

 しかも、その間には隋書に書かれた西暦600年の

「アメタラシヒコ」

が・・いたはず・・だしょ?


 ものの見事に・・そこが抜けとるのねんよ。古事記も日本書紀にも、どんな古書にも書いとらんのねんで~。


 そう、誰かが隠したのねん・・いや・・正直なとこ・・


「アメタリシヒコを隠したかったのではなく、紀をいじった結果、隠れてしもうた!

 それが、

「661年の天智称制」

「668年2月立春の斉明新羅出頭」

「668年2月20日の天智天皇即位」

が原因になってくのねんな~。


 これを隠したかったのが・・さっきのお方なのねん。


「 じゃぁ・・西暦600年のアメタリシヒコって誰なのねん?」

と・・誰でも思うだっしょ?・・


 話せば長~~~いもんでね~・・またそのうちね~。ほな、ばいなら。







アマの影






 お久しぶりでんな~・・・。半年以上も記事を書かないでいると、書かないことが日常になってしまう・・もんで、それに・・

「やっちまったな・・」

的な・・ね・・言っちゃあいかんことをしっかり書いちまった一連の流れからのストレスと、相反するようなある種の解放感が、記事を書くことからファシレのおじさんを遠ざけていたのかもしらんね~。

 まぁ・・天の日矛さんっちゅうお方が古代の倭から新生日本へ変貌してく中で、とても重要な立ち位置にいらしたんだっちゅうことになる訳だけんども、

「・・だからどうした?」

とか、

「・・んな訳ゃ~なかろ~もん!」

みたいにね・・人それぞれ、受け取り方も受け取れ方も、受け取るつもりもないかもしらんし、そもそもこんなブログなどの書いている内容も存在自体もね・・っちゅうような部分は有ると思うのねんけんどね~。


 まぁ、極一部の方には、とっても注目されていることでは有るけんども、歴史的、歴史学的にはほとんど無視されていることにはね、以前の記事の「さらに可哀想な斉明さん・・・」辺りでも書いたけんども、

「阿麻來服」

っちゅう新羅本記の記事でんな~。

 これはね、

「八年春 阿麻來服 遣元器與淨土入唐 淨土留不歸 元器還 有勅 此後禁獻女人」

「アマが新羅に投降してきたもんで、元高句麗高官の同じく新羅に投降して新羅官吏になった元器君と淨土君を唐に派遣した。したらば淨土君は行ったっきり。でも元器君は新羅に戻り、『女はよこすな!』・・との勅令が有った」

みたいに訳せば良いのかな~・・と。

 まぁ、前半~中間部分までね、理解されてはおるのねんが、『女はよこすな!』の部分がね・・全く問題視されとらん!・・と、ファシレのおじさんは言いたいのねんが、そんなことも問題視されとらんのねんな~。

 つまり、「アマは女人だった」っちゅうことなのねんで、だからファシレのおじさんは、

「斉明(・皇極)さんがアマ」

って・・書いたのねん。


 ただね~・・「阿麻」は「アマ」なのねんが、その説明がね・・新羅本記にゃぁ、全く記載されておらんし、

「阿麻って・・一体・・何なのねん?」

ってことにもなりかねんのねんのねん。


 そもそも記紀にもね・・「アマ」についちゃぁ、まるで無視しとるような感じでね・・。何も書かれていないような感じに見えるだしょ~?


 でも、良く良くね~・・記紀だけに留めず、その他の文献なども読んでみると、意外なことが判ってるのねんよ。

 そう・・

「アマの影」

でんな~。


 大体ね、斉明さん、重祚してるから皇極さんも同じ人物とされとるのねんが、このお方はね・・

和風諡号:豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。

とおっしゃるのねんよ。


和風諡号

 和風諡号(国風諡号)を奉る制度は、記録に残る限り、41代持統天皇以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼=殯(もがり)の一環として行われてきた。その殯の場では、先帝の血筋が正しく継承されたものであることやその正統性を称揚するとともに、併せて先帝に和風諡号を贈った。持統天皇から平安時代前期の54代仁明天皇まで追贈された(途中、当時は廃帝とされた47代淳仁天皇と唐風文化を愛した52代嵯峨天皇には和風諡号らしきものはない。46代孝謙天皇(重祚して48代称徳天皇)は、「高野姫天皇」「倭根子天皇」と呼ばれた例はあるが、いずれも和風諡号ではない)。

 初代神武天皇「神日本磐余彦」(かむやまといわれひこ)から40代天武天皇「天渟中原瀛真人」(あめのぬなはらおきのまひと)までの名も、慣例的に和風諡号と呼んでいるが、必ずしも実際に諡号だったわけではない。特に15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、22代清寧天皇を除き多くの研究者により諱(いみな=実名)と考えられている。したがって和風諡号の制度ができたのは、その後である(制度として確実なのは持統天皇が最初である)。


by WIKI

っちゅうことでんな~。

だから、実名っちゅうことかどうかは判らんけんども、少なくとも「天(あめ)」っちゅうお名前は持っておって、「阿麻(アマ)」かもしれん・・っちゅう位は納得していただけるんじゃぁないかな~・・と思うのねんな~。


 でね・・この「天」っちゅう文字がお名前に有る天皇さん・・もしくは大王(おおきみ)さんは、どのくらいいらっしゃるか、ご存知かな~?

「ん?・・んなもん、沢山居るに違いなかろ~もん!」


と思うかもしらんが~・・さに在らず。数えられる程度しかおらんのよ~。ホントよ~。

 因みに皇極斉明さんの後はね・・こんな感じ。

第35代天皇 皇極さん 豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
第36代天皇 孝徳さん 万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)-->皇極・斉明さんの弟さん
第37代天皇 斉明さん
第38代天皇 天智さん 命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)-->皇極・斉明さんの息子さん
第40代天皇 天武さん 渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)-->皇極・斉明さんの息子さん
第41代天皇 持統さん 大倭根子之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
          高原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)-->天武さんの奥さん、天智さんの娘さん
第43代天皇 元明さん 日本根子津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと)
第45代天皇 聖武さん 璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)
第49代天皇 光仁さん 宗高紹天皇(あまつむねたかつぎのすめらみこと)

(第42代天皇 文武さんは797年になってから之真宗豊祖父天皇 と諡されたので・・一応パス)
(第50代天皇 桓武さん -->別称で 國押撥御宇柏原天皇)
(第51代天皇 平城さん -->別称で 日本根子推国高彦尊)
(第53代天皇 淳和さん -->別称で 日本根子高譲弥遠尊)
(第54代天皇 仁明さん -->別称で 日本根子璽豊聡慧尊)


こんだけ・・だす・・。10名+αだっちゃ。

 ね・・斉明さんの後は、少ないだしょ?第39代の弘文さんが天皇さんと認められたのは明治になってから・・なのねんで、皇極さんからは・・

「連続して『天』の時代が続く!」

のねんな~。


 じゃぁ、皇極さんの前は?っつ~とね・・これも面白いのねんよ・・。

第29代 欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明天皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)

by WIKI

 そう・・欽明天皇さん、ただ一人・・なのねん。

 つまり、第29代天皇さん・・とされる方に「天」の名前が有り、第35代天皇さん・・とされる方から再び「天」の名前が有る・・っちゅうことでんな~・・。それ以外には意外にも、「天」の諱を持つ天皇さんは居らん!・・っちゅうことでんがな~。


 斉明さんはね・・

欽明天皇-->敏達天皇-->押坂彦人大兄皇子-->茅渟王-->斉明天皇

っつ~繋がりなのねんな~。

 お母さんは吉備姫王さんで、用明天皇さんの奥さんになる前に高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだとされてるのねん。

「再婚・・でんな~」


 でもね・・良く良く考えてみるとね・・欽明さんは「天」だしょ?・・そして、斉明さんも「天」。

 斉明さんの後は「天」の名前を持つ天皇さんが続くのねん。

 でも、斉明さんの前は?・・おらん!・・第29代の欽明さんが「天」で居るだけなのねん。


「それって・・おかしくないすか~?」


 ファシレのおじさんは、「斉明天皇さんが阿麻」と言ってるのねん。その後はちゃんと続いてるのねん。でも、斉明さんの前が不明・・・だよねん?でも、欽明さんは「阿麻」だった可能性も・・あるだしょ?

「その間の阿麻って・・誰なのねん!」

「隋書の阿毎多利思北孤と関係が有るの?」

「新羅本記の阿麻来服の阿麻との関係は~?」


 あらら・・またちっと・・めんど~なことになってしまったのねん・・。またそのうちに書くのねん・・ほな、さいなら。


 
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Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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