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同一人物?






 倭の歴史やら不思議な出来事やら・・「ごっちゃ煮」状態のファシレのおじさんブログだけんども、やってる本人も何が何だか良~くは判って無いっちゅう・・まことに申し訳ない状態っちゅうのは認識しとるのんでね~。ま、額に縦筋寄せながら・・

「・・・この人、何を言ってるんだ~!」

とお冠の方々もいらっしゃるとは思うけんど、「・・やっちまってるな~・・」と、軽~いノリで許して欲しいのねんな~。よろしくね~。


 ところでね・・天皇さんの中に「文武天皇(もんむてんのう)」とおっしゃるお方がいらしてね~。 天智天皇さん-天武天皇さん-持統天皇さん・・と来ての~・・文武天皇さんでんがな~。

 で、この文武天皇さんっちゅうのんは、どんなお方だったかっちゅうのんをWikiで拾わせていただくと~・・こんな感じでんな~。

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))
は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。

  諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。

 和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。

 草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。
Monmu.gif
By Wiki

文武天皇さん


 天智天皇さんの娘で天武天皇さんの皇后である持統天皇(女帝)の息子さんである草壁皇子さんの息子

っちゅうことでんな~・・。こうやってしまうと読み解くのは中々難しいけんども、

「天武さんが亡くなられた後を継いだ持統天皇さんは息子の草壁皇子を次ぎの天皇にしたかったけんども、早世したので孫に継がせた・・」

ちゅうことになっとるのねんな~・・。世の中一般的にはね~・・。

 683年にご誕生になられ、697年、つまり14歳で天皇さんになられ、707年に24歳で亡くなられたことになってるのねん。非常に・・若いのねん・・。

 なのにね・・「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと)ってお名前なのねんよ。「祖父」でっせ~?すっげ~じいさんみたいなお名前なのねんよね~。、ま、現代の感覚かもしらんけんどもね~。


 だけんどもね・・ちょうどこの700年ごろっちゅう年代は、唐・新羅連合軍に663年、白村江で大敗したもんで、日本も大変なことになってたのねん。ま~・・今まで散々書いてきたもんで、読んでくださってる皆さんもご存知でっしゃろとは思うのねん。


 ところがでんな。白村江で唐・新羅連合軍に負けたとされる日本だけんどもね・・・その新羅にも・・

「文武王さん」

 がいらしたのねん・・。

 これがね~・・実に微妙なタイミングでね~。実はこの頃の漢風諡号は、淡海三船さん(722年-785年)が付けたことになってるのねんけんども、何故か文武天皇さんだけは三船さんは付けてないってことが判ってるのねんよ。だから、基準っつ~か何っちゅうか判らんけんど・・

「文武天皇さんっつ~漢風諡号(名前)は後世に付けられたものでは無い」

可能性が大なのねんな~・・・。


「なんで1人だけ?」


 ま、実はもう一人いたのけんども・・・それは後に天皇さんだったと認められた弘文天皇さん。だから実質例外は文武さんだけなのねんよ~。



 でね・・新羅にも文武王(ぶんぶおう)さんっちゅう・・王がいらっしゃったのねん・・。


文武王(ぶんぶおう、生年不詳 - 681年)は、
 新羅の第30代の王(在位:661年 – 681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)の善品の娘の慈儀王后。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。

 武烈王として即位する前の父・金春秋が唐と新羅との緊密な関係(唐・新羅の同盟)を築いて帰国した後、649年の百済との局地戦の戦勝報告と、真徳女王が唐の威光を称えて作った五言太平頌を献上することとを任務として、金法敏は650年6月に唐を訪れた。高宗はこのことを大変に喜び、金法敏は太府卿の職を授かって帰国した。帰国して後に父が武烈王として即位すると、654年に波珍飡(4等官)の位で兵部令(長官)となり、次いで太子に立てられた。

 660年7月の対百済戦役では、金庾信らとともに5万の兵を率いて左武衛大将軍蘇定方の指揮する唐軍に合流して戦って大功をあげた。その後も百済の残存勢力は各地で反乱したが、10月には金法敏らの諸軍が尓礼城(忠清南道扶余郡の青馬山城[2])を陥落させて、残りの20余城の百済軍もすべて降伏し、百済旧地はいったん平定された。

by Wiki



 簡単に言っちゃえば・・文武王さんは x年 に生まれて681年に亡くなったのねんから、文武天皇さん(683年~707年)とは微妙に・・重ならないのねんよ・・。

 文武王さんの親父さんは武烈王(ぶれつおう)さんと言ってね・・602年? - 661年と言われてるのんで・・その間のお生まれっちゅうこっちゃね・・。だから、少し長生きされたのならば・・

「同一人物」

の可能性が出てくるかもしれんだっしょ?

 それにね・・・

「祖父天皇」

・・だしね~・・。怪しいよね~?ダレの祖父なのかとね~・・思っちゃうだっしょ?


 でねでね・・これは前にも書いたかな~・・書いてないか、判らんけんども・・一応書いておこうか・・


 「日本書紀」にはね・・は大化3年(647年)に

「文武王さんの親父さんの武烈王(金春秋)さんが来倭していることを書いている!」

 新羅は金春秋らを派遣、高向黒麻呂、中臣連押熊(おしくま)を送り届け春秋は人質としてとどまった・・としてるのねんよ。武烈王さんの新羅王の在位は654年~661年なもんで、即位前には日本にいたっちゅうことになるのねん・・。


「次世代の新羅王になるお方が647年から654年以前までの或る期間、日本に居た!」


っつ~ことは・・


「次々代の新羅王の文武王はその時に生まれ、そのまま日本に居た?」

っつ~ことに・・なる・・かもしれん・・だっしょ?


 仮に文武王さんは日本で647年頃にお生まれになったのなら・・文武天皇さんとして亡くなられるとするなら、60歳だからドンピシャ!

 それに新羅で生まれていたとしても全く不思議は無い歳だとも思われるしね~。

 ま、ただし武烈王さんはその後唐に出かけたっちゅう話しも有るから、日本(倭)で生まれたかどうかは微妙だけんどもね・・。


 その頃の情勢は、百済・倭が敗者で唐・新羅が勝者なのねんよ?・・・


「・・・あれれ?・・一体・・ど~ゆ~こと~~?」


 そうなのねん・・記紀の言うことをしっかり信じてしまうとね~・・本当のことが判らんのねん・・。ただし、記紀はヒントはくれていると思うのねんよ。


 でねでねでね・・・新羅本紀によるとね・・文武王さんは遺詔によって新羅初の火葬で葬られたとされてて、お墓も見つかってないのねん。日本海沿い(東海)の大石の上に置かれた・・とされてるのねんよ。


「だから・・倭に出張してたんだってば!」


っちゅう文武さんの声が聞えてこないかな~?


っちゅうところで今回は時間切れ!!本当はね~・・もっと細かく書きたいけんどもね・・こっちを説明すると、あっちも説明せんといかん・・でまたそっちの説明も・・となってしまうのねん・・。でも何とか少しずつね~!じゃ、またね~。ばいなら~・・アディオ~ス!
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 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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