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まひとはまひと、ふひとはふひと??そしてリフレイン!






 今年の5月に書いた記事、「ついに不比等ちゃんの着物の裾を捕まえたぁ~?」では、漢字の読み方について、

「何だかな~・・」

と疑問を書かせていただいたのねんが、結構大事なところだと思ってるのねん。


 そう、あの「アメタリシヒコ・・姓はアマ(アメ)、名はタリシヒコ(タリシホコ)と号す」の・・隋書の話しねん。まだ覚えてるよね~?


 高名な歴史家さんたちでも、おそらく倭人の言葉の発音を聞いた隋のお役人による聞き取り・・からの~中国語表記だと判っていながら、

「阿輩雞彌」

「おおきみ(おほきみ・あはきみ)」

と読んでしまうもんだから、同じように「阿輩」がついている・・

「阿輩臺 」

「おお??・・」
「おほ??・・」
「あは??・・」

と読むしか無くなってしまって・・


「そのような人の名は・・当てはまる人物はいないが・・」

と・・結果的に万歳、考察を放棄してしまってるのねんな。


 素直になりゃ・・「小德阿輩臺」を「ことく あべのたいふ」と読めるのにね~・・・。ま、確かに阿倍鳥臣は、608年に隋の煬帝さんから派遣された 裴 世清(はい せいせい)さんを迎えた 俀國(倭国)側はの記事じゃぁ・・阿倍鳥臣さんは九州には行っておらず、朝廷で迎えたと記載が有ってね・・。隋書の記載で、海岸で迎えたのが「小德阿輩臺」さんっちゅうことになっとるのんで、

「違う」

っちゅうことになっとるのかもしれんけんどね。


 でも少なくとも全く読みが合わずに、「阿輩」を「おほ」と読むことにしがみつくよりも、ずぅっと建設的だと~・・思うのねんがどうでっしゃろの~。「あわきみ」ならまだ判るけんどもね~。阿倍さんだって・・一人だとは限らんしね~「ひとり」じゃなくて「とり」だからね~・・・


 それにね・・隋書「倭国伝」・・・正確には「俀國伝」(・・わこくでん?・・たいこくでん?)の続きで・・

「王妻號雞彌、後宮有女六七百人、名太子爲利歌彌多弗利」

(俀國)王の妻はキミと号し、後宮に女が6~700人いて、太子をリカミタフリと名付く

「なんだ?・・リカミタフリって?」

って、誰でも思うよね~??


 ま、古代の日本、倭には「リ」から始まる言葉が無いっちゅうことで、「利」なくて「和」だということになって、

「利歌彌多弗利は和歌彌多弗利」

「ワカンドホリ=皇太子」

と言うことで大体落ち着いてるらしいのねんけんども、どうだかね~。


 博多には上塔(カミトウ)という地名が有るから「歌彌多弗(カミタフ 上塔)の利(リ)」だとする方々もおられるし・・。ま、ファシレのおじさんも九州王朝説のxxさんは陰ながら尊敬しとるのんでね・・あまり言いたくはないけんども・・

素直になれば・・

日本語的には・・
「若人 祝」 わかんど ほふり


もしくは、発音的聞き取り的には・・
「若宮 鳥」 わかみや とり

みたいになると思うのねんけんどね~。何で誰もそ~言わんのんか、不思議でんな~。

 因みに現代の中国語だとこんな感じになるらしいのねん・・

ふお               くぅ    みぃゆ  とぅ    ふぅ    り
he'/he`/huo/huo'/huo`   ge-      mi'  duo-   fu'    li`
和                哥      弥   多    弗    利

 「和 ふお」 は、「わ」に聞えんことも無いけんども「ふぉあ」と言ってるように聞えるのねんけんどね~。


 それに、「利歌彌多」は「わかんど (若人)」と読めんだっしょ?とおっしゃるかもしれんけんど、「彌」 の「み」は「ん」とも代理できるのんで・・・「朝臣」を「あそん・あそみ」と読むようにねん・・。大昔は「あそみ」と読んだようなのねんよ。「あづみ」だと大問題だし~・・・(^^ ま、「朝廷」・・つまり「朝に開かれる会議」に出席できる「臣」「おみ」っちゅうようなところから来てるのかも知らんね~。ま、天武天皇さんの頃からの話しだけんどね~。この辺はね・・「兄弟統治」から来てるとも言えるかもしらんけんど、ちと説明がめんど~なんでスルーしまひょ~。


 ところで、中臣鎌足さんは不比等ちゃんの親御さんでね・・一応ね・・祭官中臣一門のトップっちゅうことで、

生誕 推古天皇22年(614年)
死没 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)

っちゅうことになっとるのねん。つまり、56歳ほどで亡くなったっちゅうことでんな。そして、元々は「中臣鎌子(なかとみのかまこ)」っちゅう名前だったのねんけんど、「鎌足(かまたり)」と改名・・・そして臨終の際に、天智天皇さんから「藤原」の名前をいただいた・・っちゅうことになってるのねん。ま、授業でフツーに習うようなことだけんどもね。

Fujiwara-Kamatari.jpg

WIKIからお借りしました~!

 でも、名前を変えるってね・・あんた・・・いや、アンタじゃない・・あんたよ・・「子」でも「足」でも良いじゃんの~?それに、自分の家系の・・少し前には、

「鎌子」

っちゅう方もいらっしゃったのねんな。


中臣 鎌子(なかとみのかまこ、生没年不詳)は、
飛鳥時代の豪族。欽明天皇の時代の連。仏教伝来に際して、これに強く反対した。

欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。天皇は仏像を礼拝する可否を群臣に求めた。大臣の蘇我稲目は礼拝に賛成したが、大連の物部尾輿と鎌子は反対した。天皇は稲目に仏像を授けて礼拝させたが、間もなく疫病が起こった。尾輿と鎌子は蕃神を礼拝したために国神が怒ったのだとして仏像の廃棄を奏上した。天皇はこれを許して、仏像は難波の堀江に流され、寺は焼かれた。
by WIKI



 この、前代の鎌子さんの話しも有名で、蘇我大臣稲目さんが推す仏教に反対して、中臣・物部陣営は異教を国内に入れまいとしたのねんな・・。ま、こりゃぁ・・良く理解できるのねん。

 でも、これって・・欽明天皇13年(552年)の話しでっしゃろ?・・中臣家は・・


真人--鎌子--黒田--常盤--可多能祐--御食子--藤原鎌足

と繋がってるらしいのねんよ。

真人--鎌子
   --黒田--常盤--可多能祐--御食子--藤原鎌足
っつうのも有るそうで・・。

 するってぇとなんだな・・ちょっと年代的には・・早熟な家系っつ~ことでんな~・・たかだか5~60年で4~6代、繋がっちゃうってのはね~。もっとも昔は10歳過ぎると元服、結婚っちゅうことになったらしいけんどもね~。


 でねでね・・鎌足さんの息子さんっちゅうのんが不比等ちゃんなんだけんども、実は彼は次男なのねん。長男が定恵さんっちゅう僧侶でね。小さいうちに唐に修行に出たんだと~。

「まんだ小さいのに・・大変だったのねんな~!」

 何しろ生まれたのが644年、亡くなったのが665年とされてるのねん。実は665年に唐から帰ってきて、その年のうち・・半年ほどで亡くなられたっつ~ことなのねんよ!定恵さん・・可哀想なのねん・・ありゃ??


「西暦665年って・・、あの倭軍が大敗した白村江の戦いの2~3年後じゃん?」

 僧なのよ・・いや、そ~なのねん・・。大体にして、そんな時にど~やって帰ってこれたのかね~。まだ戦争の賠償も完全には済んでおらんだろに・・。665年に長男の定恵さんが帰ってきてすぐ亡くなり、669年に鎌足さんも亡くなったのねんな~。

 実は定恵さん、653年の5月に遣唐使とともに唐へ渡ってるのねん・・。653年ったらアンタ・・彼はまだ数えでも10歳。今の小学生なら2年生か3年生でっせ?

 命懸けの航海でっせ?・・実際に第二船は往路で難破してしまったそうでね・・たどり着けんで海の藻屑になってしまったようだすな~。

「でも・・9歳で唐に行って・・どうすんねん?」

「祭祀氏族の中臣氏一門の長男坊が仏教僧ってどうやの・・?」
(ご先祖さん・・100年ほど前にお寺に火を付け、焼いてますから~・・)

「あの内大臣、大紫冠の中臣鎌足の長男でっせ?」

「それに帰国して半年で亡くなるって?」


 ね?おかしいだしょ~?時の人とも言える鎌足の長男さんがね~・・9歳、10歳で命懸けの遣唐使、しかも10年以上も唐にいて、やっと帰ってきたら半年で・・・ね?

 彼の定恵さんの俗名は 真人(まひと)と言うねんて・・。次男がふひとだから・・まぁ、ふぃいっか~・・でもさっきの中臣系図を見ると・・

真人--鎌子--黒田--常盤--可多能祐--御食子--藤原鎌足

だから~・・


真人--鎌子--黒田--常盤--可多能祐--御食子--鎌子--真人
---- ----                 ---- ----

 そうなのねん・・山本山みたいに・・逆から読んでもリフレイン・・しちゃうのねんよ~・・


「なんだこりゃ~?」


 でねでねでね・・・まぁ、「真人(まひと)」っつうのんは、彼の場合は名前なんだけんどもね~・・実は、


真人(まひと)は、
 684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である。基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。

 天皇の称号が道教の天皇大帝に由来するという説とともに、この「真人」も道教由来のものとする説がある。八色の姓のなかでは道師も道教の神学用語と重なっている。

 また天武天皇の諡(おくりな)の「瀛真人」(おきのまひと)は道教の神学では「瀛州」という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。
by WIKI


 そうなのねん。真人は天皇・皇子の子孫にのみ与えられる最高位の姓になったのねん。もちろん、定恵さんが生きてるうちにはそんなんは無かった・・・のねん。でも「真人」なのねん・・。ま、後付っちゅうことは考えられん訳じゃないけんどね~。


 しかもね・・その制度を創ったのが天武天皇さんでね~。

Emperor_Temmu.jpg

WIKIからお借りしました~!



なんと、彼の諡(おくりな)は・・

天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)

本名・・は、大海人(おおあまと)皇子

なのねん!

 天(あま)と海(あま)がしっかり韻を踏んでるのねんし、自身で制定した階級の「真人(まひと)」も亡くなってから入れてもらったし~・・言うこと無いのねんな~!・・万歳~!・・はいっ~?


「あれっ?」

 なんか、今回の記事は・・変でっしゃろ~?・・「アメタリシヒコ」の「アメ」とか「天 アマ」「海 アマ」、「アベタイフ」の「アベ」・・・「マヒト」「フヒト」、海・・大海・・大海人・・遣唐使・・大海・・難破・・神官が仏僧・・小学生が遣唐使・・そしてリフレイン・・

 そうなのよ~・・まひとがまひとでふひとはふひと?・・じゃぁ・・あまとは?・・・っつ~ところで・・・残念ながら時間切れなのねん!・残念でんな~!またその内に書くからね~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!






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リカミタフリ

リカミタフリ、これ、カマタリでは ないんかなー?

Re: リカミタフリ

コダイさん

コメントをいただきまして有り難うございました~。

> リカミタフリ、これ、カマタリでは ないんかなー?

 可能性は無いとは言えないですね~。でも平たく言うと鎌足さんは614年生誕、隋書の多利思北孤の件は開皇20年(600年)と大業3年(607年)に隋に使者を送った時の話しなので、もしそうするなら、どちらかの年代に齟齬があるということでしょうね~。またコメントくださいね~。有り難うございました~。
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 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
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