さらに可哀想な斉明さん・・・






 ま、これだけ「嘘」で塗り固められてるとは言え、嘘を言ってくれてることでね・・、本当のことが推測できるのねん。60年も前倒しで都合の悪いことを書いてくれたお陰をもって、「大化」と言う年号が鍵になってね、

「そうか・・・少なくとも日本書紀の言う年に大化の改新は無かった」

ことが判る・・・これは重要なことなのねんよ。

 だから、抹消しきれなかった文書や手紙とか、外国の歴史書が、とても重要な手がかりになってると言えるのねんな。聖徳太子さんも、646年に善光寺如来さん宛てに手紙を出していなかったら、622年に愛妻とほぼ一緒に死んだことに、後世のわし等も、何の疑問も浮かばなかったはずのねん。

 ま、これについては、「勝鬘経」は女人向けだから、「斑鳩厩戸勝鬘(いかるが うまやと しょうまん)」は女性だろう・・・のような推測もあるようなのねんがね・・。

「斑鳩宮の 号を勝鬘 と申す厩戸が上する」


っつう文章だと思うのねんで、年号が重要なのねんよ。

 命長七年は九州年号の命長、西暦646年・・・、そしてね・・その後に「干支」が書いてあって、丙午(ひのえうま)と有るから、間違い無いと思われるのねん。丙午(ひのえうま)の年は、その頃は西暦586年、646年、706年だからねん。

「聖徳太子さんは646年までは生きていたのねん!」


 残念だったね~・・不比等ちゃん!



 それにね・・おじさんはもうひとつ・・見っけちゃってるのねんな・・。これも重要なのねんが・・・、前回記事の「可哀想な孝徳さん・・」の次の天皇さんとされてる斉明天皇さん・・女帝さん・・のことでんな。皇極天皇さん→孝徳天皇さん→斉明天皇さんと続いて、天智天皇さんに繋がってくのねんが・・。

Empress_Kogyoku-Saimei.jpg

 この方・・でんな。


 皇極天皇(こうぎょくてんのう、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)は、日本の第35代天皇。在位は、皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)。

 重祚して第37代 斉明天皇(さいめいてんのう、齊明天皇。在位:斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日))となる。

 推古天皇から一代おいて即位した女帝である。

 諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)、または宝皇女。この諱の表記は一般化しているが、後世の尊称ともされる。

 和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。

 敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。

 はじめ高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだ。尚、この2人の詳細は不明。

 後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。

 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御する。皇后は48歳だった。

By WIKI



 つまり、舒明天皇さんの奥方になったけんども、11年ほどで天皇さんが亡くなり、自分が即位・・・、でも目の前で大臣の蘇我入鹿さんが自分の息子である中大兄皇子(後の天智天皇)さんたちに殺されたのにビックリして退位、叔父の孝徳天皇さんが即位するけんど、これまた中大兄皇子さんが悪さをして、孝徳天皇さんを一人ぼっちにしたもんで寂しくて死んでしまったから、また寶女王さんが重祚して第37代 斉明天皇になったと・・そして、白村江の戦いの直前の斉明天皇7年、661年に68歳で亡くなったとされてるのねんな~。

 状況が悪くなると宝皇女が登場するのが・・この頃の日本書紀の書き方なのねんけんども~・・状況を悪くしてるのは一体、誰なのかな~?

 ま、良い子の皆さんはもうご存知。(書記の言うような)入鹿さんは居らんかったし、孝徳天皇さんだって寂しく死んだんじゃぁ無いってことくらいはねん・・。天智天皇さんを美化するためにね・・桃太郎侍よろしく入鹿さんを斬り、大義を述べて倭京に帰っちゃったりを正当化したのねんけんど、実は・・もっと凄いことをやっちゃってるのねんよ~。


800px-Emperor_Tenji.jpg

 この方が中大兄皇子さん、後の天智天皇さんでんな・・。



 話は大きく跳ぶけんどもね・・三国史記の新羅本紀っちゅう史書が有ってね・・その文武王八年条っつうところに、めっちゃ凄い言葉が並んでるのねん。

 文武王さんっちゅうのんは新羅の第30代の王で在位661 ~ 681年、つまり、白村江の戦いで唐軍と一緒に倭国軍をメッタメタにした新羅側の張本人なのねん。「法興 無視して 法隆寺!・・の巻き」でも書いたけんど、酷い負け方をしたことになっちゅうねん。(でも彼の親父は日本にいたこともあるのねん・・)

 で、その文言だけんどもね・・こんな感じ・・いや・・漢字。

八年春 阿麻來服 遣元器與淨土入唐 淨土留不歸 元器還 有勅 此後禁獻女人

 ・・・いややわ~・・漢字ばっかりの文なんて、苦手なのねんな~・・けんどもね・・・。おそらくこんな感じの内容かと思うのねん。

 文武王8年の春に「阿麻」が来て服した。元器さんと淨土さんを唐に使いにやった。浄土さんは帰ってこなかったが元器さんは戻った。(唐の)勅が有った。今後女人を献ずるのは禁ずる。


 「阿麻」でっせ~?・・「あま」と読めるよねん?・・そうすっと、「アメタリシヒコって、誰やのん?」の記事に書いた「阿毎」と同じなのねん。漢字がちょっとだけ違う感じなのねん・・いや、漢字なのねん・・いや・・、違う感じ・・あれっ?


 ま、とにかくね・・アメさん、アマさんが、新羅に投降してきたってこっちゃねん。「だから偉いこっちゃ~!」と、唐の大親分のところに使いをやったのねん・・と。

「あの、どこにも見つからなかったアメタリシヒコが投降?」


 ね?・・ビックリだしょ~?


 でもね・・、こんなのにビックリしてると、この文章の本質に気付かんのねん。まだおそらく誰も・・気付いてないのねん。不思議なのねん・・何でなのねん?

 めっちゃ重要なのはそんな部分だけじゃぁ無いのねん・・最後なのねんよ!

「女人を献ずるのは今後禁ず、と言う勅が有った」

 ここなのねん!何で歴史家さんたちは気付かんかな~・・


 アマが新羅に来て服した。(負けたと言って平伏した)
          ↓
 (新羅王は)臣下2人を唐に送った。
          ↓
 今後「女」は贈るな!と言われた。



 ・・・そう・・なんと「アマ」は女人だったのよねん!唐に臣下を送っただけじゃなくて、連れてった・・・連行したのねん!だから、女を連れてくるな!と言われたのねん!

 そうじゃなかったら、こんな唐突で不躾な文章は生まれんのねん。女姓を献上するな・・に繋がるのは、「アメ(アマ)」についての文章なのねんな。もちのろん、新羅は美女奴隷献上外交をやってた歴史があるのねんけんどね。ソツヒコさんの話も、随分前に書いたよねん?



「(アメを連れていって)唐から帰国した。勅が有った。今後、女は贈るべからず。」


阿麻来服・・此後禁献女人


 どうだすか?・・ビックリだしょ~?・・・だけど、もっとビックリするかもしれんのねんで~?


 斉明天皇さんがお亡くなりになったのは、先にも書いたけんども書記によると西暦661年だすな~。先帝が亡くなったので皇太子が次の天皇さんになるのねんけんど・・その中大兄皇子さんはなかなか天皇にならずに、ずっと皇太子のまんまで 称制、つまり即位せずに政務を執ることを続けたのねん。

 でねでね?・・・、即位したのが天智7年1月3日、668年2月20日なんよ。


ん?


 Q.アメ(アマ)さんが新羅に出頭したのは?

A.西暦668年春

 Q.天智天皇さんが即位されたのは?

A.西暦668年2月20日

 Q.立春は?

A.2月の第一週ごろ・・

でんな。・・・あれっ?・・おんなじだすな~!(立春は、二十四節気の第1。正月節=旧暦12月後半から1月前半。)


「げげげっ!アメ(アマ)さんは皇極天皇重祚斉明天皇?」

「斉明天皇さんは亡くなったんじゃなくて新羅・唐に出頭させられた?」



 ひっで~!・・だしょ?・・そうなのよ・・・白村江の戦いで倭国軍が唐新羅連合軍に負けたもんで・・・いんや、その前から百済が滅亡したりして、旗色が悪いのを鑑みて、中大兄皇子は即位できなかったのねん。だから、先帝である(先帝っちゅうことにした)斉明天皇さんは亡くなったことにして、自分は即位せずに称制し続け、668年に新羅に斉明天皇さんを送ったのねん。全ての責任を「阿麻」さんにおっ被せて・・・。


 ま、昔は超美人だったかもしれんけんど、結構、良いお年になられていた宝皇女さん・・・唐に連れて行かれたけんども、

「(老)女はいらん!もう二度と贈ってくるな!」

と・・怒られたのねんな~。罪人として罪をなすりつけられて唐に送られた宝皇女さんも可哀想だけんど、唐の本人・・いんや、唐の天皇さんもね・・・何だかな~・・やるせないな~・・そうそう、唐の天皇さん・・



Gaozong_of_Tang.jpg

 この方がその時の唐の・・天皇さん・・だす。皇帝さんぢゃ無いのねんよ。天皇さん・・だす。

 高宗(こうそう)さんは、唐朝の第3代皇帝。太宗の第9子。母は長孫皇后。皇帝ではなく天皇の称号を使用したことでも知られているのねん・・by WIKI 参照

 だから・・、おそらく中大兄皇子さんは宝皇女さん(皇極天皇・斉明天皇)の息子さんなどでは無いはずのねん。息子だったら・・ひっで~・・だしょ?・・だけんど、息子である可能性も捨てられはせんのねんよ。こんなこと、日本書紀は・・書けなかったのねんな。


 ま、日本で最初に天皇を名乗ったのは天智天皇さんか天武天皇さんか・・・その辺で論争があるようなのねんけんど、唐の高宗さんに倣ったのねんな~。・・・しっかし、ホントひっで~話なのねん!宝皇女だけに「宝を献上した」つもりでおったのねんかぁ?・・


 それにね・・先帝に全ての責任をなすりつけて追いやり、ようやっと即位できる環境を創った天智天皇さんなんだけんどもね・・何と・・・・・・あら!・・もう時間が無い・・すまんの~・・いつも大事なところでタイムアウト、・・・しかも全てにおいてめちゃくちゃに中途半端!阿倍ちゃん、太子の話はどうなった~??・・すまん、またそのうちに・・・・さっすがファシレのおじさん!・・ちゅうことで、今回もグッジョグッジョで終わるのねんな~!・・これもひじょ~に残念~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

NSY3

Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ブロとも一覧

aquarians

アギタの神が住む鎮守の森

山田貢司のどこに行くのか?バカボン一家
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR