阿倍比羅夫さんはスーパーマンか?水戸黄門か?






 阿倍さんと藤さんが、もしかしたら同じ根っこの方々だっちゅう・・ような、非常に曖昧だけんどもビックリしてしまうような伝承が有ってね・・。しかも、さも真実であるかのように、神社の由来とかご祭神、もしくは地域の芸能としても残ってるっちゅうことは、現代に生きるわし等ももう少し・・

「おツムを激に柔らかくして考えんと~・・」

いかんと思うのねんな~。


 ま、神社のご祭神にしても時の権力のご威光で、いか様にも変えられて来たのが現実だったのかもしれんけんど、

阿倍=藤

なんちゅうような、誰もが想像しない組み合わせを今の今まで許してきた・・っちゅうね・・その辺にカラクリの糸口が有ると思うのねんよ。何しろ、阿輩雞彌 でやんすから・・。この文字、好きなように読んでくれて構わんけんども~!


 で、姉さん・・いんや・・阿倍さんね・・。色々な阿倍さんはいらっしゃるけんど、この方も有名でんな~。

Abe_no_Hirafu.jpg


阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)

 は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。658年から3年間日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

出自
 阿倍氏は古くから越・北陸道方面の計略で活躍した氏族である。複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである。

 中央出身説は、当時の国司が中央豪族から派遣されていたことを根拠とする。

 比羅夫の父親の名は必ずしもはっきりしないが、各種系図(「阿倍家系」(『備後福山 阿倍家譜』所収)、鈴木真年『百家系図稿』巻5,阿倍)では、阿倍氏の宗族である目とするものが多い。しかし目は敏達朝の人物であり時代が合わず、さらに前述の系図は比羅夫の子孫に伝わったものと想定され、比羅夫の系統を阿倍氏の宗族に位置づけようとした意図が考えられることから、比羅夫を目の子とするのは疑問とする。また、阿倍氏の庶流にあたる阿倍浄足とする系図もある。

 一方、太田亮は越国守であることを根拠に越国造家の一族の可能性を指摘している。

 なお、『日本書紀』で比羅夫の活動を記す部分は、当時の阿倍氏宗家(阿倍御主人の布勢氏)が提出した家記によると推定されているが、「阿倍臣(名を欠く)」と人名は記されていない。歴史学者の坂本太郎は、書紀編纂時の阿倍宗家が引田氏を快く思わなかったために、敢えて名を隠して阿倍氏の活躍とだけ記した史料を提出したのではないかと推定している。

by WIKI


 比羅夫さんはね~・・記紀じゃぁ、すっごい強い将軍さんだったと書かれててね。658年には蝦夷(北海道)、粛慎(樺太)を平定したと言われてるのねんよ。・・そうそう、ちょうど白村江の戦いの前のことでんな~。そして、662~663年に白村江にも参戦した後、行方が不明になってるのねん。

 でもね・・ただの将軍さんとは思えんようなこともやっとるのねんな。江戸時代なら誠意大将軍・・・いんや、征夷大将軍様みたいなものでっしゃろかな~。何とね、エミシたちに「姓」を与えたり、「官位」を授けたりしちゃってるのねん!それにね・・・平定した土地には郡領を造っちゃったりね~。


「お~い!・・勝手に官位なんぞ、エミシたちにあげてみちゃっても・・いいかな~!?」

「いいとも~♪」

 と、天皇さんがおっしゃったかどうだか判らんけんどね。もう何でもアリの世界なのねんよ。まるで天皇さんに成り代わってね・・神武天皇さんの東征ならぬ阿倍さんの北征なのねんな~。


 でもね・・そんな超バイタリティを持つスーパーマンとも言えるような阿倍比羅夫さんについて、日本書紀は冷たいのねんよ。日本書紀が完成したのは720年やけんども、たかだか50~60年前のことなのに・・

「阿倍引田臣・・名前は・・すまん!忘れた!」

とね・・。


「お~い!・・(本当は知ってるけんども)勝手に名前削ってみちゃっても・・いいのかな~!?」



「いいとも~♪」


と、不比等ちゃんが言ったかどうだか判らんけんどもね。もう何でも「おっけ~」の世界なのねんな~・・記紀は。


「大事ない。良きに計らえ・・」



ちゅうことなのねんな、きっと~。


 で、ちょっくら年表を書いてみるとね・・

斉明天皇4年(658年)4月 - 蝦夷に遠征する。
斉明天皇5年(659年)3月 - 蝦夷国を討つ。
斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎を討つ。
斉明天皇6年(660年)5月 - 夷50人余りを献じる。
中大兄皇子称制(後の天智天皇 662年)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向う。


 っちゅうのんが、一般的なもんで、その後の足取りは無いのねん。大宰府の長までやった高官の、親もよう判らんし、消息も判らんっちゅうのねんよ?・・んな訳、有るかいな?


 つまりね・・・書けなかったっちゅう・・ことじゃね~すか?


 37代の斉明天皇さん・・女帝さんでんな・・この時代に活躍したのが、この阿倍の比羅夫さん。その後はね・・

37代 斉明天皇655-661
38代 天智天皇661-671
39代 弘文天皇671-672
40代 天武天皇673-686
41代 持統天皇686-697
42代 文武天皇697-707
43代 元明天皇707-715
44代 元正天皇715-724

と皇統は続くのねん。で、43代の元明天皇さんの時に古事記が、44代の元正天皇さんの時に目出度く日本書紀が完成したのねん。


 でねでね・・この44代の元正天皇さんっちゅうのんが、女帝さんなんだけんどもね・・若いときのお名前がなんと・・

「阿部皇女(あべのひめみこ)さん」


 ありゃりゃりゃりゃ~・・・やっちまったな~?・・Wikiを調べるとね・・

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))
は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。

天智天皇の第四皇女で、鸕野讚良皇女(持統天皇)は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である。珂瑠皇子(文武天皇)と氷高皇女(元正天皇)の母。
by WIKI



 となっててね・・血族的にはあんまり阿倍さんちとは関係無いのよねん。ま、これにはちゃんとした表向きの理由が有ってね・・皇族の幼名は乳母の家に関係した名前(土地・姓由来)が付くことが多い・・っちゅうもんでね・・、何の不思議も無いっちゅうことになってるのねん。それに、阿倍 御主人(あべ の みうし)さんっちゅう、阿倍本家ともされてる右大臣までやられた方もいらっしゃってね。右大臣家で育てられた可能性も有るのねんよ。


 そんな風になってくるとね・・阿倍=藤・・が、ただもんじゃぁ無くなってきてしまうだしょ?・・それにね・・そんなに激強い歴戦連戦連勝の阿倍の比羅夫さんが、大錦上で大宰府の長もこなした比羅夫さんが、白村江の戦いの後の消息が不明なんて・・あり得んのねん。「大敗して誰かに切られて死んだ」とも「火災を起こして沈没した船に乗っていた」とすら・・書かれてないのね。そりゃぁそうだ・・。朝鮮半島に戦いになんて行ってないのねん・・。行くはずが無い・・実は・・阿倍の比羅夫さんは・・

「別人としてすでにこのページに登場している!」

のねんよ!


 さ、そうなってくると、その別人っちゅうのんは誰か?・・っちゅう話しになってくるのねんけんども・・・あら!・・もう時間が無い・・すまんの~・・いつも大事なところでタイムアウト、・・・しかも全て大いに中途半端!・・さすがファシレのおじさん!・・ちゅうことで、今回もグッダグッダで終わるのねんな~!・・これもひじょ~に残念~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!





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