スーパー仙人&殺しのライセンス






 大臣を歴任した伝説の蘇我氏は出自不明・・・そんなだから、創世記の統一王朝が一体いつ出来たのかなんて、想像に想像を重ねるしか方法が無いのねんな。出自不明の理由は当然ながら、記紀が誇る

「武内宿禰」(たけうちのすくね・たけのうちの-・たけしうちの)

の記述でんな。

 彼はスーパーマンか仙人か、何と記紀を信じて生きた年齢を計算すると、

「少なくとも280歳、最大で360歳」

っちゅう、とんでもない長寿を誇るのねん。


 記紀はこのスーパーマンを作り出し、彼に祖を集中させることで系図を操作し、蘇我氏も隠し、万世一系を標榜したのねんよ。武内宿禰さんは紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏などの中央諸豪族の祖とされてるのねん。

 武内宿禰さんの息子さんの中にはね、これまた凄い人がいてね・・・その名は・・

by WIKI
葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ、曽都毘古・沙至比跪、 生没年不詳、4世紀後半~5世紀前半頃?)

は大和葛城地方の古代豪族葛城氏の祖として『記紀』に記されている。



 かの「そつひこ」さんは豪放なお方でね・・一体、あなたは誰なの?・・でもさすが、スーパー仙人の息子さんと思わせる実績の持ち主なのねん。

 これもWIKIから拾ってみると・・・

1.神功皇后の時代、新羅の人質、微叱旱岐(みしこち)の見張りとして襲津彦を新羅に使わされたが、対馬で逃げられ、蹈鞴津(たたらつ)から草羅城(くさわらのさし)を攻撃して捕虜を連れ帰った。

2.神功皇后の時代、新羅を討たせるために襲津彦を派遣したが、新羅の美女に骨抜きにされ、反対に加羅を滅ぼしてしまう。

3.応神天皇の時代、百済の弓月君(ゆつきのきみ)が民人を連れて帰化したいが新羅が邪魔をするので、襲津彦を派遣するが、三年間音沙汰無し。応神天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を送り、やっと襲津彦は弓月氏の民を連れて帰国した。



 どうだしょ?・・・本当に素晴らしい働きをなさった襲津彦さんなのねん。新羅の美女に鼻の下を伸ばしに伸ばして、当時、任那日本府が有った加羅を討ってしまったのねんよ?


 でもね・・なんのお咎めも無かったようでね・・それどころか、襲津彦さんの娘さんや子孫は、天皇さんの后に何人もなられていらっしゃるのねん。敵国の新羅を討ちに行って、同盟国の加羅を滅ぼしちゃうなんて、

「襲津彦さんって・・なんてワイルドなお方!」

「襲津彦さんって、殺しのライセンスをお持ちなの?!」

「さすが、お父様譲り!」


 ね?・・凄いだしょ?もう、何をやっても許されちゃうし、天皇家には娘をビシバシ嫁がせちゃうし、物凄い力をお持ちだったのねんよ。


 でもね~・・ちょっと疑問じゃない?そんなダメダメな襲津彦さんなら、本当は罪に問われてもおかしくないっしょ?確かに記紀には、

「天皇に許してもらえないと悟った襲津彦は自殺した」

のような記述もあるのねん。

 しっかし、なぜかその後復活して、また懲りずに命令で半島で活動してるのねんな~。


「そ、襲津彦さんは・・ふ、復活まで・・されるのでせうか?」


 そこだけはまるで、イエスのようなお方なのねん。ま、だから記紀のいい加減さが判るし、創作だとも言われるのねんな。


 でもね・・・。襲津彦さんの葛城氏(かつらぎし)は蘇我氏の親戚、襲津彦さんとは、蘇我石川宿禰は兄弟っちゅうことになってるのねん。イエスのような襲津彦さんの、これまたス-パー仙人の武内宿禰さんの家系とされてる・・。


 でもね、でもね・・これって意外にも、真実からそんなには遠くない記述だと言えるのねんよ。記紀は結構、ヒントをくれてたりもするのねん。古事記は滅茶苦茶一辺倒だけんども、日本書紀は筋道の立った滅茶苦茶さなのねん。それは、藤原氏系の恣意的な改変が有るからなのねんな。それに、面倒くさいのか時間が無かったのか・・素直にそのまんま書いちゃってる場合も(おそらくね・・)あるのねんな。


 でね・・蘇我氏は一体、誰なのか・・・っちゅうことを言う前に、葛城襲津彦さんの正体を暴かないといかんよね。ま、もうお判りかと思うけんど、少なくとも・・


「葛城襲津彦さんは天皇と同等の力を持った王統の王!」


 そりゃぁ、普通に考えてみりゃ当然なのねん。ヘマをしてもおっけ~、同盟国を滅ぼしてもおっけ~、仕事しないで酒池肉林・・ずっと帰国せんでも問題無し・・なのねん。

 つまり、半島には、

「征伐に出かけたのでは無く、単に国に帰っただけ」

なのねん。彼は(おそらく)加羅、任那、百済の王様、王族だったのねんよ。(もしかして・・いや、もしかしなくても新羅の王統だったかもね~。お名前を良~く分析してみると判るのねんで~。ここも今は掘らんけんど~。)加羅を滅ぼしたって言ったって、加羅はいくつもの小国の連合体なのねん。そのうちの一国くらいをきっと滅ぼしちゃったのねんな。


「自分と敵対する隣国を滅ぼしただけ。綺麗なお姉ちゃんを手に入れただけ。それで何が悪いの~?」


っちゅうのが彼の言い分。判るよね~?

 だから、列島の天皇家も同族でもあり、王でもある葛城襲津彦さんに文句ひとつ言えなかったのよ。そして、名前の通り、葛城の領主でもあったのねんな。(・・かつらぎ の地は、その頃の大和の中心地・・いや、少し南西かな・・つまり今で言うところの高級住宅地かな~。) 天皇・・大王の臣で有ったのなら、決して許されるはずがないことから、そのことは言えるのねん。


 で、ようやっと蘇我氏なんだけんども・・・ス-パー仙人の武内宿禰さんの息子が蘇我石川さんなのか、葛城襲津彦さんの息子さんが蘇我石川さんなのかは証拠が無いので判らんけんども、


「蘇我氏は葛城氏」

なのねん。襲津彦さんの孫、葛城 円(かつらぎのつぶら)大臣が、眉輪王を庇った結果、後の雄略天皇に焼き殺され滅びた・・とされてるんだけんども、少なくともその後を誰かが継いだはずなのねん。

 だって・・葛城氏は半島の一国(以上?)の主。円大臣(つぶらのおおおみ)が、如何にも葛城氏の宗家のような系図を残しているけんど、その頃はまだ加羅諸国も存在してるから、

円大臣(つぶらのおおおみ) は、葛城氏の日本担当者だった。

だけなのねん。(ここも本当は掘りたいけんども脇道にそれちゃうのんで取り合えずスル~・・)


 何しろ葛城氏は超ビッグネームで、任那が西暦562年に滅びるまで・・つまり蘇我馬子さんの時代までは、王様の氏族なのねんから・・・。記紀が隠したかったのはそこなのねんよ。300歳以上も生き、歴代の天皇に仕えたスーパー仙人、武内スクネを登場させることで、

「そつひこさんの存在を薄くした」
と言えるのねんな~。

 そして、事実上の王家を蘇我氏と呼び、武内スクネの子孫とすることで格を下げたのねん。聖徳太子も母系は親の代から蘇我氏、摂政だったっちゅうけれど、事実上の天皇さんでんな。ま、ここには大きな秘密があるようなんだけんども・・今は掘らんどこ~。


 蘇我馬子さんは葛城馬古さんだったのかな~と思うけんどもね。少なくとも葛城氏を継いだのは蘇我氏っちゅうことなのねんよ。その証拠にね・・

by WIKI

 推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。

 在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩したことがなかった。

 ずっと後のことではあるが、推古天皇32年(624年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、

「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」

と言って、この要求を拒絶したという。



 つまりね・・馬子さんは、元々持っていた葛城の土地を推古天皇に、「返してくれ」と言ったと言う訳でんな。昔取られたから返せっちゅう訳。


 じゃぁ、取られたのはいつか?っちゅうと、さっき書いた、葛城円(かつらぎのつぶら)大臣が雄略天皇に焼き殺されたとき・・でんな。葛城円さんは、娘さんと領地を雄略天皇に差し出して許しを乞うたけんども、、


「雄略天皇は娘と領地はいただいたけんども、円大臣一家と眉輪王の命はしっかり奪った」


のねん!

 ね?怖いでっしゃろ~・・。記紀はちゃんとそこを書いているのねんよ。話はちゃんと繋がってるのねん。だから蘇我氏は葛城氏なのねん。そして、ヤマト朝廷の大臣になれる家柄で半島の国主であったはずなのねん・・。


「葛城は、かつらぎ じゃなくて かつき、もしくは、くずき」


と読ませたかったとは思うけんどもね~。


 応神天皇さんの時代にね・・葛城国造荒田彦(あらたひこ)さんっちゅう方がおられるのねんが、これもちょっと面白くてね。荒田彦さんの娘の葛比売さんは、葛城襲津彦さんの母だと言われてるのねんが・・

注:文が変なので直しました~

「もう、すべてがぐちゃぐちゃ」

なのねんよ。応神天皇さんの母はあの神功皇后さんで、神功皇后を助けて新羅を討ちに行ったと言われているのは武内宿禰さん・・・その息子さんが葛城襲津彦さんでお母さんが荒田彦さんの娘さん、お腹に産み月を過ぎても頑張って出なかった応神天皇さんの時代に荒田別(あらたわけ)さんがいて・・・


 そう・ここで面白いことも記紀には書いてあるのねん。


by WIKI

荒田別(あらたわけ)は、古墳時代の人物。荒田別命、大荒田別とも。
上毛野君の祖。神功皇后・応神天皇年間に朝鮮へ派遣されたという武将である。

『日本書紀』神功皇后49年3月条によると、鹿我別とともに将軍に任じられ新羅征討に参加した。神功皇后50年2月条、帰国した旨が記される。

 同書応神天皇15年8月条では、巫別とともに百済に派遣され、翌年王仁を連れて帰っている。この条において、荒田別・巫別は「上毛野君の祖」と記載されている。

 『続日本紀』延暦9年(790年)7月の津連真道らの上表においても、上毛野氏遠祖の荒田別の百済派遣の旨がみえる。



 そうなのねん・・時代をはさむように「かつらぎ あらた ひこ」と、「あらた わけ」 が存在してるのねん。同じ人かどうかは判らんけんど、片や任那・加羅辺りの王様で葛城の領主の葛城氏、片や新羅征伐に出かけた大将軍が、同じ「荒田」と言う名前なのねんな。

 しかも「あら」が頭に来るお名前・・。「あら」と言えば・・

「あらっ?・・アラハバキの・・あら・・だ!」


 で、「あらはばき」なんだけんども・・・・


 ありゃりゃ・・もうこんな時間・・そろそろまたの続きは次回かな?・・じゃぁまた!アディオース!チャオ~!

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

邪馬台国は、マヤ大国?想像が広がり、いつも、楽しく拝見させてもらっています。

Re: No title

かつらぎ さん

コメントをいただきまして有難うございます~!

> 邪馬台国は、マヤ大国?想像が広がり、いつも、楽しく拝見させてもらっています。

 マヤ大国ですか・・!それはかなり古くてとても大きそうな国のような響きですね~。ファシレも日本列島やそれに連なる部分は、太古の昔はムー大陸の端っこだったんじゃないかと・・(^^ 夢想しています~。またコメントくださいね~。有り難うございました~。
プロフィール

NSY3

Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ブロとも一覧

aquarians

アギタの神が住む鎮守の森

山田貢司のどこに行くのか?バカボン一家
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR