え~?姫氏が倭の王だったの~?






「謎の荒覇吐族?・・倭の歴史1」の記事で、「倭の五王」について書かせてもらったのねん。何故か中国風の一文字の名前の王なのねんよ。それを偽書として非常に名高い「東日流外三郡誌」関連の和田氏文書では、

「東北アラハバキ王朝の王」

として書かれているとね~。

 因みにその倭の五王とは中国の歴史書に記述された、

讃、珍、済、興、武

であって、和田氏文書では、

讃日彦王、珍日彦王、済糠彦王、興日彦王、武波日彦王

としていたのねん。


 でも一般的な認識としては、

讃=仁徳天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇

のように、歴代天皇を比定しているようなのねん(もちろん違う比定もあるよん)。


 だからファシレのおじさんとしてはね・・少なくとも歴代天皇に比定するには、

「そんな中国人みたいな名前を天皇(大王)が名乗るかいな?」

みたいな観点から、

「和田氏文書が云う方が、まだ理解し易い!」

と云ったのねん。武(ブ)はまだ判るが、珍(チン)は無いだろうとね~。


 歴史も素人なファシレのおじさんだけんども、「倭人とはなんぞや?」を探求しだしているので、ネット情報や歴史本を頼りにしているとね、なんとなく判ってくる事もあるのねんよ。あんなようにアラハバキ関連で倭の五王を書くと、色々ツッコミが有るかなとも思ったけんど無かったのねん。さすが、読んでる人が少ないブログなのねん!・・目立たなくて正解なのねん!


 でもね、さすがにファシレのおじさんも東北アラハバキ族が倭の五王だっちゅうことを信じてる訳では無いんだな・・。今最もマイブームな倭の五王はね・・

「もと中国の王族がやってきて九州に住み付いた説」

なのねん。


 日本は本当に人種のルツボだからね~。世界各地の方々が一緒に住んでる国なんだな~。それにね・・畿内とか京都とかに有る地名は、北九州には必ずあるって云っても良いほど有るよね~。福岡県京都郡とか・・ね。これって、どんな意味があるのかね~。


 その昔・・紀元前5~6世紀頃、中国大陸に「呉(ご)」と言う国が有って、「太伯」という王がいたが、その子孫が日本に落ちてきたっちゅう話しが有るのねん。そして九州の熊本に住み付いたらしいのねんな。WIKIで「太伯」を調べるとね、しっかり書いてあるのねんよ。


『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。


 つまり、「松野」氏は、呉王の末裔であると・・しっかり書いてあるねん。その新撰姓氏録っつ~のは、

『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。by WIKI


だから、少しは信用できると思うのねん。


 しっかしね、何で呉の国の末裔が「松野」さんになってしまうのか・・全く全然まるで判らんだっしょ?あの、とても噛み々で口が・・いや、マラソンで足が早かった松野明美さんの松野さんなのねん。


 で、ついでに早々に答えを言ってしまうとね・・


「これからは松野と名乗れ。姓(かばね)は連だ!」


と朝廷に言われたからなんだな~。「かばね」が判らんかな?


姓(カバネ、可婆根)とは、古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。by WIKI

っちゅうことなのねんよ。


 じゃ、元の名前は何ていったかっちゅうのが判らんよね?・・これはどうやら・・「姫」氏なのねん。ま、ヒメと読まずにおそらくは「キ」でんな。中国には「姫氏」の国が沢山有ったのねん。列島に亡命してきて、九州の中ほどに姫の国を造ったのねん。だからかどうかは判らんが、記紀にはお姫さんのことを姫っちゅう漢字は絶対に使わんのねん・・比売と・・書くのねん。


 「東海姫氏國」っちゅう言葉があってね・・これが大陸側から見た場合の「倭人」の国だったっちゅうのがどうやら本当の話のようなのねんな。つまり、東海・・中国の東の海の中にある姫氏の国、っちゅうこと。


 例の「倭の五王」が「宋」(中国)に貢物をして、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と認められたのねんけんども、この国の中で「倭(わ)」がどこにあるか判らん・・・しかも、その王は「珍」とか「讃」とかを名乗っとる。それはやっぱり畿内の天皇家とは違う・・と考えるならば、呉の末裔である「姫氏」なのねんよね。


 もっと言ってしまえば、記紀に書かれた内容っちゅうのは、その「姫氏」もしくはその末裔が勢力を落として没落し、畿内の天皇家に吸収された後のことであって、実にその時の朝廷に都合良いように書かれたのねん。そりゃぁそうだしょ・・自分たちに都合の悪いように歴史書を書くアホはおらんからね~。つまり、

「他の国・族の歴史・名前・宝を簒奪した」
っちゅうことでんがな。それが今に伝わる正史につながっとるっちゅうことでんな。


 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)っちゅうのが7世紀に有ったのねんが、これが実に奇妙な戦いでね・・。



 大和朝廷が朝鮮半島の同盟国、百済を守るために合計3派、計4万7千人もの大軍を送り、唐13万・新羅5万の合計18万と戦ってコテンパンになって負けたと記紀に書いてあるのねん。そんなに軍人がいたのもビックリだが、一体どうやってそんなに船を集めたのかね~。有り得ない話しと思わん?


 それに、唐と新羅連合軍に負けた後、どうも大和朝廷にはほとんどお咎めが無かったどころか・・、当時の朝廷の権力者の中大兄皇子(後の天智天皇)たちは、ドンちゃん騒ぎの大はしゃぎだったんじゃないかっちゅう話しも有るくらいなのねんよ。戦争に負けたんでっせ?・・この間の太平洋戦争・大東亜戦争・第二次世界大戦の敗戦国たる日本がどうなったかは、戦争を直接知らん世代の我々でも判るはずだよねん?・・そう・・責任を取らされるのよ。そして、結果が酷い場合には、国自体が無くなったりもするし、戦犯として裁かれる者もいるわけでんな。


 その理由はね・・もう判るかと思うけんども・・


 「倭」とは大和朝廷側のことを言ってるのではなくて、「姫氏國」もしくは、その流れを引く「九州王朝」のことだったから・・なのねん。

少なくとも「大陸の国が言う倭の国は大和朝廷では無かった」のねん!


 だから、唐・新羅の全権大使は、九州に来て戦犯として「筑紫君」他を連行しているようなのねん。でも畿内の朝廷にも郭務宗らが2000人規模で来てはいるが、どうもこれが挨拶程度のようなのねん・・。「筑紫君」こそが倭の王っちゅう証拠に思えるよねん?


 この白村江の戦いをしたのは九州王朝の「倭国」であって、「大和朝廷はほとんど何もしなかった」のねん。もっと言ってしまえば、


「白村江の戦いは無かった!!」



 実際には倭国は661年~662年に百済を助けに行ってるのねん。そして、倭国に人質として預かっていた百済皇子も連れて行ってる。そしてそこで大敗を喫したのねん。それは中国の歴史書にも「倭国と戦った」と書いてあるのねんけんど、白村江の戦いの663年のことは書いてないのねん。大和朝廷がやったことは、戦後の後始末として百済に向かい、残存勢力と小競り合いをしつつ、百済の官僚・王族たちを連れ帰ったことだけなのねんな~。ね~・・ビックリだしょ~!

☆書き忘れたので加筆・・

 4万7千人と言うのはおそらくだけんども、百済・任那から連れ帰った亡命百済人・任那人の数だろうね~。そして、現地の都合の悪いものを破壊・焼却し、隠されていた財産・お宝を奪取、持ち帰ったのかな~。


 さらにね・・・もっともっと言ってしまえば、

「畿内の大和朝廷は九州倭国の属国だったかもしれん?」

っちゅう可能性もあることなのねんよ。だから、畿内の大和朝廷はそりゃもう大喜び!・・飲めや唄えの大騒ぎ!酒池肉林の世界だったかもしれん訳!煩い宗主国の王が負けて連れ去られたもんで、地理的に絶対安心な畿内の朝廷は、

「これで倭が・・・いや、我が天下!」
とばかりに喜んだのかもしれん訳でんな~。


 このころの大和朝廷は、蘇我入鹿が討たれた直後・・中大兄皇子と中臣鎌足が全権を握ったころなのねん。天皇は大臣である蘇我氏の言うがまんま・・の状態だったのねんけんども、それをこの二人が滅ぼしたのねんな。この、頭に「中」が付く二人も実に怪しいよね~!一応、時代の流れとしては、


蘇我氏宗家滅亡(645年)-->白村江の戦い(663年)


 だけんども、本当のところはどうなのかな~。疑問だな~・・。これ、ほぼ同時だったら・・怖いよね~。だって、もしかしたら蘇我氏は、九州倭国本国からお目付け役で来ていたのかもしれんしね~。蘇我氏の出自も良く判らないし、中臣氏も藤原不比等が系図をいじってるみたいだし、天智天皇と兄弟だっちゅう天武天皇・・だって、記紀は生年を示していないしね。ま、一癖も二癖もありそうな鎌足爺さんが亡くなったのが669年と言うから、

「してやったり!」
の生涯だったのかも・・しれんの~。


 でね、松野連姫氏系図と言うのが残されていて、実はしっかり、あの倭の五王の名前が残されているのねん。もちろん、系図の真贋、本当のところは誰にも判らんよ・・。都合の悪いものが出てくると朝廷はその都度、証拠隠滅してきたし、それは明治の時代になっても続けられたのねん。(今でもやっているように思うけどね~)でも、五王の一文字の名前と呉の王族の子孫が九州にいたっちゅう部分において、信憑性は比較的高いんじゃないかな・・と思うのねん。


呉王夫差-忌-順-恵弓-阿岐-布怒之-玖賀-支致古-宇閉-阿米-熊鹿文-厚鹿文-宇也鹿-?子-謄-讚-珍-済-興-武-哲-満-牛慈-長提-廣石-津萬
(一部、表せる漢字が無いのと、近い漢字で表記)


 この姫氏がそのまんま筑紫君なのかは判らんけんどね。欽明天皇期の540年に投下したっちゅう記録があるけんど、「(姫氏の)誰が誰に対して投下したのか?」をハッキリ書いて無いからね・・。で、おそらく、この「姫(キ)」氏が「松野連」になったり、あるいは「木」「紀」「鬼」「忌」になったり、関係していたりするじゃないのかな~。(「姫」は「イ」かもしれんけんどね。するってえと、「倭」も「イ」と読めるしね~。)

きっとね・・

「キ(姫)だから・・その辺にある松にするか~・・」

みたいなノリで朝廷も決めたのかもしれんしね~・・。もしくは、財産、お宝、呼称、歴史は分捕ったからそのお礼に、橘、藤と対応させて、松竹梅の一番上にしたのかもしれんけんどね~。この時代の連は決してもう高い位の姓ではないけどね~。


 因みに東日流外三郡誌関連では、

「熊襲が反朝して敗れ、関東の荒吐族を訊ね、景行天皇期に軍船を大挙して脱した。」

とあるけどね~。


 ま、今回は非常にお堅い・・硬い内容だけんど、読んでくれたかな~?・・興味無いか・・。ま、倭人が誰か判れば良いんだからね。大陸からの移住者の話だったのねん・・これもほんの一部なのねんよ!しかし歴史っつうのは奇奇怪怪でんな~。・・不比等は何を隠そうとしたのかな~・・だれも気付いていない、大どんでんがえしがまだあるんじゃないかな~!・・ではまた、ばいなら~、チャオ~、アディオ~ス!

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No title

はじめまして、

姫氏から検索して、貴殿のHPにたどり着きました。
大変興味深い内容で驚きながら拝見させて頂いたところです。


内容で、少し私の記憶と結びついたところが有るのですが、
この、「姫」についてですが・・・・


姫木城(熊襲城、比売之城、比売奴城とも呼ばれている)という山城が、南九州の霧島市あたりに存在しています。
(この城は過去に姫木氏に関係があり、女の酋長が居をかまえていたとか・・)
何か、関係があるのかなとか・・少し閃きました。 
(まったく、関係ない鴨しれません・が・・笑・・)

少し、調べてみたいと思います。


No title

もう一つ思い出しました。

姫木城というのは、現在の「霧島市国分町姫城辺りに在る山」なんですが、

それとは、別の場所に、「姫木城跡」というのがあります。

その場所は、「宮崎の都城市-姫城」。

名前も同じく姫城-姫木なのです。

そして、この都城の姫木城跡から、遥か霧島連山の頂、「韓国岳」の方角、さらに、その彼方の方角が、朝鮮半島の方角になります。

霧島市と都城のあたりは、熊襲の支配地域であり、

大陸の倭の流れをくむ地域なのかなと想像したしだいです。

Re: No title

熊襲たける さん

ファシレのおじさんです~。コメントをいただきまして有り難うございました~。お返事を書こうと思っていましたらまたコメントをいただきましたので・・再構成しました~!

>はじめまして、

>姫氏から検索して、貴殿のHPにたどり着きました。
>大変興味深い内容で驚きながら拝見させて頂いたところです。
>内容で、少し私の記憶と結びついたところが有るのですが、
>この、「姫」についてですが・・・・

>姫木城(熊襲城、比売之城、比売奴城とも呼ばれている)という山城が、南九州の霧島市あたりに存在してい>ます。
>(この城は過去に姫木氏に関係があり、女の酋長が居をかまえていたとか・・)
>何か、関係があるのかなとか・・少し閃きました。 
>(まったく、関係ない鴨しれません・が・・笑・・)
>少し、調べてみたいと思います。


 記憶と言うのは俗に言う現世のものでしょうか~(^^;;

> もう一つ思い出しました。
> 姫木城というのは、現在の「霧島市国分町姫城辺りに在る山」なんですが、
> それとは、別の場所に、「姫木城跡」というのがあります。
> その場所は、「宮崎の都城市-姫城」。
> 名前も同じく姫城-姫木なのです。
> そして、この都城の姫木城跡から、遥か霧島連山の頂、「韓国岳」の方角、さらに、その彼方の方角が、朝鮮半島の方角になります。
> 霧島市と都城のあたりは、熊襲の支配地域であり、
> 大陸の倭の流れをくむ地域なのかなと想像したしだいです。

 とても難しい問題ですよね~・・今となっては!・・ファシレのおじさんも小麦ちゃん頼みの部分が多いので・・。

 でも卑弥呼さんはやはり九州絡みで間違い無いと思いますよ・・。

 記紀には10代崇神天皇さんの時に、鹿児島南部の阿多出身と思われる吾田媛さん(あがたひめ?)と武埴安彦(たけはにやすひこ)さんの反乱鎮圧の話しが出てきますが、吾田媛さん自身かどうかは別にして、阿毎系 or アマテル系の臭いがぷんぷんしますよね~。

 阿多 を吾田、あがた と 、また、武を「たけ」、埴安彦を「はにやすひこ」と読ませていますが、「たける」「はxやxひこ」 から熊襲武、隼人 をイメージしているとも言えますし・・。

 神功皇后も土蜘蛛の女酋長を退治したと・・書いてますね・・。それに記紀は全編、熊襲を敵としていますんで、半島扶余の立場ですから、相手側が卑弥呼&アマテル系の可能性大ですし、おっしゃるように隼人も最後は朝敵で(藤原氏が)滅ぼしてますよね。ただし、ある時期京の警護をしていたのは隼人とされますんで・・



 その辺りのこともいずれ書いて行きますんで、また情報よろしくです~!有り難うございました~。

No title

こんにちは、返信有難うございます。

>記憶と言うのは俗に言う現世のものでしょうか~(^^;;

一応、現世のものです。多少アセトアルデヒドにより多少脳が損傷しておりますが、微かな記憶です。 (^^;


>ただし、ある時期京の警護をしていたのは隼人とされますんで・・
隼人を取り込む必要があったのか、隼人が、貧すれば鈍で、時の権力に阿る行動をとったのか・・・どうなのでしょう・・・


Re: No title

熊襲たける さん

いつもコメント有り難うございます~。
> 一応、現世のものです。多少アセトアルデヒドにより多少脳が損傷しておりますが、微かな記憶です。 (^^;

 あ~・・皆有る程度はそ~じゃないかな~・・大量に飲み続けなければ大丈夫ですよ~。飲まなきゃやっていらんね~・・みたいな部分もありますよね~。

> >ただし、ある時期京の警護をしていたのは隼人とされますんで・・
> 隼人を取り込む必要があったのか、隼人が、貧すれば鈍で、時の権力に阿る行動をとったのか・・・どうなのでしょう・・・

 隼人は、朝廷側に取り込まれた「肥」(日・火)辺りの人がそう呼ばれたのでしょう。当初はそんな自称はしてないと思いますよ~。そして、九州の反抗勢力を熊襲と呼んだと思いますよ~。

 単純には、山幸彦の子孫-->神武以降、海幸彦の子孫-->熊襲と記紀も書いてますからね・・・結局、根は同じっちゅうことを言ってるんですがね~・・。大枠では判ってはいるんですが細かく見てゆくと、誰が誰に比定されるべき・・と言う部分では情報が余りに無くて答え辛いですよね~。

 またコメントくださいね~。有り難うございました~。
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 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
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