邪馬台国は九州南部






 10月頃に、何か大変な出来事が起こらなければ良いけんど・・と書かせてもらったけんども、10月には取りあえず起きんで、でも11月にパリの同時多発テロっちゅう形になってしもうたたのねん。ま~・・多くの方も同じように、「何かが起きる」と思ってたはず・・被害に遭われた方には何とも云いようが無い・・ご冥福を祈るとともに、何とか癒されることを望むのねん・・。

 情報も人の行き来も即応ボーダーレスな時代になっては来たのねんけんども、結局そのことが、また新たな衝突を生んでいるっちゅうのんは、誰の中にも少なからず有るエゴが原因なのかの~・・いつまで経っても人間は、そのことに気付いているにせよ、いないにせよ・・残念なこっちゃ・・。

 そんな現代とは情報や行動のスピード自体はゆっくりだとしても、さよちゃん卑弥呼の時代よりずっと前から、ちゃんと行われていた証拠が見えるのんは・・凄いことだの~・・。さよちゃん卑弥呼も中国(魏)に使者を送っとるし、親倭倭王に西暦238年(239年)に任命もされとるのねん。

 でね・・魏志倭人伝に書いて有る

女王之所都水行十日陸行一月

については、「都」を「みやこ」と日本語的に解釈するのが間違いで、「都」は「全日程で」の意味なのねんよ~・・だから、

「女王のところへは、全日程で、水の上を行くこと10日、陸を行くこと30日掛かる」

と読むと・・前回までに何度も書かせてもらったのねん。ここまでは良いよね~・・・?。


Gishi31.png


 因みに魏志倭人伝が使っている縮尺は「里」だけんども、この単位を推測するのんは、比較的簡単・・なのねん。何故って・・

「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國」

と書いてあるから・・なのねんな~。Wikiに載ってる訳は、

「また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。」

ちゅう訳でねん・・。まぁ、一大国は一支国を写し間違いだということは簡単に判るよね~・・。ここはツッコミを入れるところでは無いのねん。細かいところが気に成ってしまう性格なお方は延々と悩まなければならなくなってしまうがの~・・。


 でね・・この壱岐の前の国・・対馬と壱岐の間が1000里だと書いてあるのねんから、現在のその距離を測れば大方の「里」の縮尺が判るのねんよ~。

 計ってみると、最も遠くて100キロメートル、短くて70キロメートルほど・・なのねん。だから、

「魏志倭人伝の1里は70~100メートル
「魏志倭人伝の100里は7~10キロメートル

っちゅうことが判るのねん。・・・だよね~・・。


 上に一枚の地図がごぜいやす・・ある程度の意図を持って・・線を引かせていただきやした・・北の最初のスタートは、唐津でござんす・・メモリの1つは10キロでござんすから・・唐津から何となく南東方向に500里を40キロメートルとしてラインを出すと、おそらくその辺が「伊都国」でござんすね~?・・

 何で唐津がスタートかっちゅうとね・・魏志倭人伝は「一大国から末廬国に1000里の渡海」と書いてあるもんで、壱岐より南に有る地点の松浦にわざわず向かうはずが無いから・・なのねん。海流があるもんで、逆らって南に向かうはずが無いから・・ね~。海流に乗って流されるがごとくに向かう方が安全なのねんよ・・。だから、「唐津」・・「加羅に船で向かう津」「加羅から船が来る津」を選んだのねん・・。ちいっと前まで唐津は東松浦郡だったのねん・・。

 で、伊都国に「到着」・・が大事ね~・「到」の字が使われてるのは、半島での旅の最後の地点の「伽耶」と、この「伊都国」だけ・・なのねん。その他は「至」が使われてるのねん・・ちゃんと使い分けてるのねんな~・・。

 半島での最後の到達点、しかも倭国連合の「伽耶」に到着したと。

で、倭の本拠で、魏のお役人が逗留する国・・そして女王の大事な連合国、「伊都国」に「到着」した・・で、そこからはおそらく実際にはお役人たちは動いちゃ~いないのねんよ。ここが最終目的地だからねん・・だから「到」なのねん。

 魏志倭人伝には、そこから「南西に100里(10キロ以下)で奴国」、「東に100里で不弥国」「南に水行20日で投馬国」に「至」と書いてあるけんど、これは伊都国と邪馬台国の説明のために書いただけなのねんな~。

 因みに「南に水行20日で投馬国」と・・「里」では書いてはいないのねん。他は全部・・いや、一応書いちゃおらんが、12000里-7000里-1000里-1000里-1000里-500里=1500里と推測できる女王国を除いて・・「里数」を書いてある・・・っちゅうことは、

「測れなかった理由が有る」

から・・なのねんな~・・。何せ船で20日も掛かる(と聞いたもんで)投馬国(殺馬国)には行ってないのねん・・そして女王国にもね~・・おそらく魏のお役人は行ってないのねんよ・・。だから、残りの里数(1500里=150キロ以下)を想像させるような形でそれを残したのねんな~。

 伽耶から対馬に渡る時はね・・・もう必死に昼夜も無く船を漕いで100キロほどを1~2日で渡るはずなのねん・・対馬から壱岐も同じ・・のんびりしてたら北に1ノット以上で流れる海流に流されて、どこに行ってしまうか判らんからね~・・

 でもね・・河川や内海となると話は違う・・夜は岸に停泊するだしょ~?・・見えんと本当に危ないからね~・・。だから、1~2日で外海を100キロは動いても、川や内海では無理なのねんよ・・・。江戸時代の早船は、川越から江戸まで新河岸川を辿って1日で着くようになったので大いに流行ったと・・されてるのねんが、その距離はたったの20キロメートル+αほど・・。だから江戸時代でも川を移動するのにはその半分の、一日10キロほどだったのかもしれんね~。

 水行20日は・・もしそのパターンで有るとすれば、200キロメートルほどしか離れてないとも想像できるだっしょ?・・だから投馬国は薩摩国・・

 伊都国から筑後川を辿り有明海に出て・・・いや、この頃は伊都国近辺も遠浅の海で移動が大変だったかもしれんが・・で、島原湾、八代海を経て、薩摩川内市の川内川、もしくは南さつま市の万之瀬川を遡り・・みたいな感じかな~・・と思うのねんな~・・ま、土地勘が無いもんで~・・エセ九州弁でえろうすんまっせん・・


 で、伊都国は吉野ヶ里よりももう少し東っちゅうか南東っちゅうか・・の辺り・・でんな。7~8キロ東南には2万戸もある奴国、もしくは東に同じだけ離れたところに1000の家族が有る不弥国が有るから・・ね~。まぁ、八女、久留米辺りが想像されるけんどもね~・・。


 でねでね・・その伊都国(吉野ヶ里近辺)から1500里(105~150キロメートル)南に離れたところが女王の所だと・・書いてないけんど言ってるも同様なもんで・・上の地図では伊都国から110キロほど直線で引っ張ってみたのねん・・するってえと何となく「人吉」辺りを指す・・のねんな~。もち、そこはもっと「真南」にライン出しをして、「水俣」でも構わんのねん・・取りあえずは縮尺がアバウトな
のねんから、方角も「ほぼ」で良いのねん・・。

 だから女王国はこの近辺に有ったはず・・遠からず外れてはいないのねん・・里の縮尺がね・・あくまでアバウトなものなもんで、人吉よりも北・・・ちゅうことも考えられるし、もっと南も・・考えられるのねんよ~・・でも薩摩よりは北っちゅうことやね~・・薩摩は「投馬国」で、伊都国から水行20日の最南の地と想像されるからね~・・。

 だから、

「邪馬台国(女王国)は九州南部にあった!」

のは間違い無いのねんな~。


 これがね・・上陸地点が唐津じゃ無くても、結局はさして変わらんのねん・・。博多に上陸したとしても・・ほんのちっと東にズレるだけ。宗像や北九州に上陸したとすると、伊都国はかなりズレるけんども、「九州南部に女王国は有った」ことは変わらず・・影響ないのねん。


 でねでねでね・・魏志倭人伝は、非常に重要なことが書いてある・・。勿論、前の記事に書いたように、

「さよちゃん卑弥呼の官は垂仁天皇さん、崇神天皇さん、中臣さん」

っちゅうことが判る・・のねんが、さらにこう・・恐ろしいことが書いてあるのねん。

南至投馬國 水行二十曰 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
by WIKI

 そう・・官の名前は彌彌(みみ)・・で王は書いてない・・。代表は「みみ」だと・・ね。

 もう、鋭いお方はお判りかと思うけん・・書かんでも良いばってんが~・・そう・・記紀が初代天皇と書く「神武天皇」さんのお子のお名前をご存知でっか~?


手研命(たぎしみみのみこと)
岐須美美命(きすみみのみこと、研命。古事記のみ)
日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井命)
神八井命(かむやいみみのみこと) - 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造等の祖
神渟名川尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河命・綏靖天皇


 そう・・・第二代天皇さんでもある綏靖天皇も含め、皆さん・・「みみ」なのねんよ・・!これって・・ど~ゆ~ふ~に理解すれば良いんじゃろかいね~?

 投馬國には「みみ」族がおって、それが女王国連合の官だった・・と言うことなのねん・・。綏靖天皇さんの兄弟そのものを指しているかどうかは判らんばってん、

女王国のさよちゃん卑弥呼・垂仁天皇・崇神天皇さん・中臣さん、その南の薩摩国の神武天皇さんの実子たちが一緒に書かれてる?」

のねん・・な~・・。


 まぁ、奴佳鞮(なかてい)を「なかつ」で中臣さん・・とはさせてもらったばってん、もう一人可能性がある人がおるのねんよ・・で、それが・・

「長脛彦(ながすねひこ)」さん

でんな~・・。「なかつ(ぬ)ひこ」なら・・中臣も長脛もそっくりだけんね~・・。ま、中臣氏はアチコチの族と婚姻をしとるのんで、結果的には同じかもしれんしね~。


 だから魏志倭人伝には、記紀に書かれている方々が勢揃い・・なのねん・・。耳族・・神武さんたちの天孫族、そしてさよちゃん卑弥呼、その官の垂仁天皇さん、その親の崇神天皇さん・・と・・ね。記紀が信用できんのんは、少なくとも魏志倭人伝との比較においてはほとんど一致を見ないことに・・有るのねん・・。

「世の中・・恐わっ!」


 ちゅうところで時間切れ・・あ~・・またボケるの忘れとったのねん・・すまん・・でもまた書くのねんよ~。じゃぁね~・・ばいなら~!アディオース!


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 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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