短編ですが~・・「斑鳩厩戸勝鬘さんの証明っす~」






 ま、ファシレのおじさんのこんな「とんでもヨタ話し」を真に受けるお方はそ~沢山はいないとは思うけんどもね~・・楽しみにしてくれてるお方もいらっしゃるようで、励みになるのねん・・・「ベリーベリーさんくす」なのねんな~。

「ん?・・真には受けんけんど阿麻には受ける?・・・上手い!・・座布団10枚~!」

       ・・・・ちと阿麻~いか?



 確かに「トンデモな」話しでは有るけんども、前々回の「阿麻臣(あまのおみ)」にしても、ちゃんと記録に残ってる話しなのねんよ。ベリーベリーなだけに・・・新鮮が必要なのねんな~・・・いんや、新撰(姓氏録)の間違い・・・だけんどね~。ついつい・・書き残しちゃいかんことをね・・書いちゃったのねん。口が滑るとか、人間にゃ~良くあることなのねんな~。でも何故か学者さんたちは、


「全く触れて無いし書いてない!」


 阿麻臣を追いかけるとね・・高石市の取石(とりいし)に辿りつくのねんが、それは「とろし」とも読むのねん・・昭和のうちにはまだ「取石池(とろしいけ)」っちゅう風光明媚な場所だったらしく、そのうち書く事になると思うけんども、聖武天皇さんの行宮(あんぐう・かりみや)も有ったそうでねん。時折かどうかしらんけんども、いらしたようなのねんよ。阿麻さんに会いに行ってたのかもよん?・・阿麻違いの海女さんかもしらんが~・・アマちゃんかも~。


 で、この高石市の辺りはこの時代、中臣氏系のテリトリーでね・・勿論だけんど取石の中臣殿木連、等乃伎神社は勿論のこと、この辺りの昔の大鳥郡も大鳥連で中臣氏と同祖・・・それに今の地形と違っててね、現在のような高石市の海岸線じゃ無くって、奥の取石辺りが海辺だったらしいのねん。だから、阿麻臣を隠したっちゅうか、匿ったっちゅうか何っちゅうか本中華ね・・それが中臣氏の一部かもよん?・・。そこに皇極ノ太子由縁のお方が和泉守で入ってくるのねんが~、ま、阿麻氏は完全に隠されてるのんで・・この辺を追うにぁムズイのねん・・ほんとなんで学者が書かんかいな~?・・でもまたファシレのおじさんも後で詳しく書こうとは思ってる部分ではあるのねん・・。


 要は、出鱈目ばかりを並べてる訳でも無いっちゅうところをね・・今回は書いておこ~かと・・・時間もあんま無いので短編で~・・っちゅうことでんな~。



 例えばね、前回の新羅の「真徳女王」さんが勝鬘さんで、ヤマトにいたんじゃないの~?っちゅう部分もね・・ホラを吹いてる訳じゃぁ無いのねんな~。ちゃんとね・・さらなる状況証拠も有るのねんな~。ま、例の善光寺への手紙自体が証拠っちゃぁ証拠なのねん・・。


「絶対に西暦646年の日付の手紙を聖徳太子さんは書いてない!」

とは言えんけんどもね~。だけんど命長七年って書いてあるのんで~・・・24年も先の元号を知ってる訳が無いしね~。

「いや~・・誰かが聖徳太子の名を語ったんだ~!」

と言うかもしらんけんど、斑鳩厩戸勝鬘っちゅうのんが聖徳太子さんの自称っちゅう方がね・・なかなか問題だと思うのねんな~。



 でね・・その状況証拠だけんどもね・・実は・・



「厩戸皇子には馬屋古女王と言う女の子がいた!」



のねんよ・・。ホントだすよ~・・ビックリだしょ~?・・ま、これはちと詳しいお方はご存知なことに違いないのねんけんどね~。


馬屋古女王

 馬屋古女王(うまやこのひめみこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。厩戸皇子(聖徳太子)と膳部菩岐々美郎女の第8子(第4王女)。『上宮記』は馬屋女王に作る。

 厩戸皇子(聖徳太子)と膳部菩岐々美郎女との婚姻は推古天皇6年(598 年)であるため、第8子であることを考えると生年はおよそ610年以降と推測できる。 by WIKI



 そ~なのねん・・・馬屋古女王、もしくは馬屋女王さんっちゅう・・記録がちゃんと有るのねん・・


「真徳」

「真 = ま」
「徳=やす」


と読めるしねん・・。「徳」は「やす」と読めるのねんよ。大丈夫・・調べたのねん~♪


「馬 = ま」
「屋= や」


 同じだっしょ?・・この時代の漢字はまだ完全に「当て字」だからねん。「読み」に近い漢字を当てたのねん。ま、記紀をご覧になれば判るよねん・・。だから・・

「読みも同じ!」

なのねんよ。・・ん?・・まだ納得せん?・・ぢゃぁ・・意味は通じんけんど違うんもやってみるけ~?


「馬 = ま 」

「屋 = おく 」

と・・・

「真 = ま 」

「徳 = とく 」


 ど~お?・・納得した~?・・馬屋古女王の漢字の当てからは誰かの悪意が感じられるよね~・・・

 もしね・・この馬屋古女王さんが真徳女王さんだったとしたら・・、610年頃に生まれて647年から654年まで新羅の王様をやられてたことになって・・何の違和感も無いのねんよ・・。年代もピッタリだしょ~?「何とか徳」さんっちゅう同じようなお名前が新羅にもヤマトにも多い理由もね・・でも実はね・・


「・・んな呑気なこと言ってる場合じゃぁない!」



 そ~なのねんよ・・。そりゃぁ・・そ~だ。もし本当にそ~だったら・・


「・・ってっ・・てぇ~へんだぁ~っ!・・おやぶ~ん~!・・平次おやぶ~んっ!」


と銭形平次さんを呼びに行かんとならん・・ま~・・平次親分を呼んだところで銭が飛ぶくらいでぇ・・ど~もならんがの・・


 つまり~・・聖徳太子さんの血筋はね~・・蘇我入鹿さんご一党さんが根絶やしにしたもんで~・・後世に残らんかったことになってるのねん!ま、だから義憤に駆られた中大兄皇子さんと中臣鎌足さんの中々コンビが入鹿さんを天皇さんの御前で斬り、蘇我宗家、親御さんの蝦夷さんを自刃に追い込んだとされてるのねんから・・・。


 皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、莵田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。

 家臣の三輪文屋君は、
「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」
(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)

 と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず
「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」
(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)
と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。

 結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。by WIKI



 もしね~・・真徳女王さんが、あの勝鬘さんだったとしたらね・・・蘇我氏のことも、聖徳太子のこと、中臣氏、中大兄皇子のことさえ・・・



「すべて嘘。存在さえ疑われる!」


っちゅう事態になっちゃうのねんよ。


「蘇我入鹿・蝦夷の横暴は無かった。もしかしたら二人は存在しなかった。」

「蘇我氏を滅ぼしたのは嘘。」

「乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は無かった。」

「大化の改新は無かった・・もしくは年代が全く違う。」

「天皇家の系図は???だらけ」

「聖徳太子は622年に亡くならなかった。・・実は・・」


とかね~・・・。



 でもね・・・こう言われてみりゃ~、誰がど~見たって・・・


「新羅女王はヤマトにいた。斑鳩厩戸(うまやこ)勝鬘と号した。新羅に戻り真徳女王になった。」


っちゅうね・・可能性が非常に高い!っちゅうことは判ってもらえると思うのねんな~。


 それにね・・厩戸の読みは「うまやと」ちゃうねん・・おそらく「うまやこ」もしくは「まやこ」でんな~。今なら「美しい子」と書いて「うまやこ」・・・っちゅう意味でね・・で結局新羅でのお名前が「真徳(まや)」なのねん。


ちょっとだけ加筆
 何せ、勝鬘夫人(しょうまんぶにん、シュリーマーラー)っちゅうのんは前回記事「新羅の影はもの凄~~~い濃いぞ~・・」に書いたように、古代インドの在家仏教徒で、シュリーマーラーとは「素晴らしい花輪」という意味だから、

「マーラー」 =「花輪」=「真徳(ま+やす)」=「馬屋(古)」=「まや」

も成り立つし、

「シュリー」=「素晴らしい」=「真徳(しん+のり or なり)」

も、とても似てるし、

語源ともなってるように、

「シュリー」=「勝」=「しょう」

「マーラー」=「鬘」=「まん」

が非常に良く理解できるよねん?「長身で美人だった」と伝わっているらしいのねんけんども、馬屋古じゃなくて可美弥子とか宇摩埜娘と当ててたのが史実に近くて正解だと思うのねんな~。


 ま~ね・・・これを崩すのは、かなりムズイと思うけんども・・ど~やろ~の~・・
加筆終了



 それにね~・・斉明天皇さんが崩御され白村江の戦いが終わって天智天皇さん(中大兄皇子)が立たれ、大友皇子が討たれ、天武天皇さんが立ち、その後、皇后だった持統天皇さんが立たれるのねんけんどもね~・・。持統天皇さんもね~・・めっちゃ凄いことが判ってるのねんな~・・ん?・・・何々・・?




「ひそひそ・・」




「・・えっ!」




 ・・・時間が・・無い・・そ~す・・ っちゅうところで時間切れ~!まだまだまだ紀が隠した新羅の影は凄いぞ~・・・でも次回に続くのねん!・・ほんまに残念でんな~!またまたその内にね~・・書くからね~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!
スポンサーサイト

新羅の影はもの凄~~~い濃いぞ~・・






 倭の歴史もだいぶ佳境に入って来たのねんが、まだまだね、説明せんと成り立たん部分が沢山あってね~・・・めっちゃ大変なのねん。

 この間の中臣鎌足(なかとみかまたり)さんだってね・・・普通じゃぁ考えられんお人なのよ・・。中臣氏っちゃぁ、神儀伯の家系・・・つまり今で言う「神道」のトップの家柄だと言いつつ・・ね、長男を出家させて唐に学ばせたり、自分は中大兄皇子と一緒に、大化の改新につながる乙巳の変で、蘇我入鹿さんを殺し、蘇我宗家を滅ぼしただけ・・・で「内臣」になったとされてるのねん。

「・・でっ?」

 ・・実は、あとは何をしたのか、よ~判らんっちゅう・・お人なのねんな~。ほとんど伝わって無いのねんよ。それがあの藤原不比等ちゃんの親父さんなのねん。亡くなる時に、先の中大兄皇子、その時は天智天皇さんに「大織冠」を授けられ、「内大臣」に位されてるのねん。

 大識冠の官位は最高位でね・・・後にも先にも鎌足さんだけしかいないっちゅう

「・・本当にあったのか~?」

と思いたくなるような出来事だしね~。


 ま、それはさておきね・・。その頃の・・つまり西暦600年から700年くらいの間だけんどもね・・百済の影があっちこちに見えるような時代なのねんけんども、新羅の姿も・・物凄~~い、見えるのねんな~・・。


 これも前にも聖徳太子さんのところで話したけんどもね・・・善光寺に斑鳩厩戸勝鬘さんからの手紙が届いて、それが現存するのねん・・・っちゅうことで、

「・・西暦622年没の聖徳太子は646年に善光寺如来に手紙を書いてた!」

みたいなノリでね・・・書いてたのねんな~。


640px-Umayado_Miko.jpg

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))

 ま、622年に亡くなられて、646年に手紙が届いた・・・っちゅうようなぁ・・えら~~~い気の長い話では無いのねんよ・・。


「♪しろやぎさんからおてがみついた~ くろやぎさんたら読まずに食べた~」


・・じゃなくってね・・



 勝鬘(しょうまん)っつ~のんはね・・聖徳太子が著した勝鬘経・・っちゅう話もあるのんけんどもね・・Fender のギターアンプにも Showman Reverb っちゅうもんもあるけんどね~・・全然関係無いけどね~・・


勝鬘夫人
勝鬘夫人(しょうまんぶにん、シュリーマーラー)は、古代インドの在家仏教徒。シリーマーラーとは「素晴らしい花輪」という意味で、勝鬘はそれを漢訳したもの。舎衛国(コーサラ国)の波斯匿王(はしのくおう)と彼の妃末利夫人(まりぶにん)の娘。阿踰闍(アヨーディヤー)国王の妃。by WIKI


から来とるもんで、女性やないかぁ?・・っちゅうことなのねんな~。


 ところがでんな・・・勝鬘さんっちゅう女性が何故か、この時代にいらっしゃるのねんよ・・・

Silla-monarch(22-30).png

真徳女王(しんとくじょおう、生年不詳 - 654年)

は、新羅の第28代の王(在位:647年 - 654年)であり、姓は金、諱は勝曼。『三国史記』新羅本紀に拠れば、父は第26代真平王の母方の叔父である国飯(国芬とも記される)葛文王、母は朴氏の月明夫人。また、『旧唐書』では先代の善徳女王の妹と記されている。647年1月に、善徳女王を廃して唐との和親を図ろうとした上大等の毗曇らの内乱の最中に女王が陣没し、善徳女王派の金庾信らによって勝曼が擁立された。長身で美人だったと言われている。by WIKI



 新羅の真徳女王さんは、生まれた年は不明だけんど、亡くなられたのは654年とされてるのねん。647年から亡くなられるまで・・新羅の王だったのねん・・。

 でね・・・さっきの、斑鳩厩戸勝鬘さんからの手紙はね・・・646年に黒木臣さんが善光寺に届けてるのねんな~。



御使 黒木臣

名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前

       斑鳩厩戸勝鬘 上



 この命長七年っていうのんは・・・九州王朝の年号って言われててね・・・大和朝廷のものじゃぁ無いのねんよ・・。で、それが646年にね~・・


「・・あれ~?・・勝鬘なんて名前を使う可能性が有るのって・・??」


 そうなのねんよ~・・・。斑鳩っちゅうのは奈良の中心地・・でんな・・・太子がお住まいになったとか・・で厩戸っちゅうのんは普通は「うまやと」と訓ずらしいけんども、太子のお名前とされてるしね~・・・でも勝鬘っちゅうのんは、勝鬘経でもあるかもしらんけんど・・時代的には誰がど~考えても「真徳女王さん」だよね~・・?


斑鳩宮(いかるがのみや)は、
 聖徳太子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿。

聖徳太子は、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだ。また、太子の手により、斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍群(法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺)が建立された。by WIKI



 しかもね~・・聖徳太子の「聖徳」に対してね・・真徳女王の「真徳」だっしゃろ~?・・因みに先代は姉にあたる「善徳女王」だっせ~?・・・さらには「善徳」っちゅう名は、あの蘇我馬子さんの長男の名前でね・・飛鳥寺(法興寺)の初代寺司っちゅう記録オンリーの方なのねんよ~。


 でもま~・・、そんなんはまだマシなのねんな・・。実は新羅にも新羅年号っちゅうのんが有ってね~・・・これが凄いのねん・・。新羅独自の年号で、しかも最後の年号を真徳女王さんが王になった時に号したのねんが・・それがなんと・・


太和(たいわ)は新羅が用いた独自の年号のうちで最後となったもの。第28代の真徳女王の元年(647年)から4年(650年)まで用いられた。by WIKI


太和

 でっせ~?・・「たいわ」ったら・・「大倭」「大和」でっしゃろ~?・・・「大」に点・・・まぁ天じゃなくてまだ良かったけんども、付けただけでっせ~?「太」っちゅう字は、点を上に付けると「天」でっせ~?・・あれ?


 ま、字はど~でもよろしおす。でも太和って年号は大和と被りゃ~せんの~?因みに大和とはね・・


大和(やまと)

は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。

ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。




 っつ~ことは?・・ど~ゆ~こと?・・大和の斑鳩にいらした新羅の「勝鬘」さんが、647年を前に国に戻られて真徳女王になったっちゅうこと~?

 で、大和にいて斑鳩厩戸勝鬘と名乗ってたもんで、女王になって「太和」と年号を変えた~?

 じゃぁ、「厩戸」は「うまやと」じゃなくて「やまと」なんじゃないの~?


 因みにこの時の天皇さんとされてるのんは・・・


孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日) -(654年11月24日)」



 さ~・・ど~しよ!・・こりゃぁ困ったぁ・・・何か・・・「~徳」ばっかで、偉いお得な気持ちになってきたけんど、ただただ・・・


「・・これって・・倭の話しか新羅の話しか・・どっち~?」



 っちゅうところで時間切れ~!まだまだ新羅の影は凄いぞ~・・百済だけじゃぁ無かったのねんよ~。中臣鎌足さんて・・一体誰なの~!!・・・っちゅう疑問を晒したまんま~・・次回に続くのねん!・・ほんまに残念でんな~!またまたその内にね~・・書くからね~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!


阿麻の臣って?






 ま~ね~・・・藤原氏は百済系で皇統を女系で乗っ取った・・なんて極フツーに言われてるからね~・・・・えっ?・・知らなかった~?・・ま~・・・そ~ゆ~ふ~に見えるからね~・・仕方無いっちゃ~無いのねん。特に西暦700年以降の天武天皇さんの血筋を消し、百済王氏さんの血筋を入れ・・・しかも初代と言われてる鎌足さんは、蘇我蝦夷・入鹿親子を後の天智天皇さんと一緒に殺し、蘇我宗家の息の根を止めてもいることになってるからねん。

 でもね・・もう西暦600年以降ともなるとね・・・

「単に倭だ、百済だ、高句麗だ、新羅だ、伽耶だっちゅう話しじゃぁ無い!」

のねんな。

 だってね・・・半島には確かに高句麗、百済(南扶余)、新羅、伽耶諸国が有ったけんども、西暦680年頃には・・

「新羅しか残らなかった」

のねんよ。しかもその新羅は唐の冊封を受け、唐が宗主国で新羅は朝貢国になったから、有る意味・・

「日本海を挟んで倭と唐だけになった」

形になったのねん。・・ま~・・余りに単純な見方と言っちゃえばそのと~りなんだけんども、こりゃぁ非常に厳しい状況に倭国は追い込まれたのねん・・。ただしもちろん、新羅もそれは同じ。強大なパワーを持つ唐に朝貢して新羅国王としての立場を認めてもらったにしても、それは唐の言うことを聞かない訳にもいかんことになるのねんからね~。しかも、唐と組んで百済と高句麗を貶めたは良いけんども、有る意味、「緩衝地帯」を失うことになったのねんから・・。

 だから、唐が・・

「お前は嫌いだ。王を辞めろ!」

と言われりゃぁ・・・

「御意!」

と言うか、楯突いて反抗するかを決めなきゃならんのよねん・・。ま、それは結局倭国も同じでね~・・倭の五王の頃は確かに中国に朝貢して「倭王」を認めてもらってたのねんけんど、それ以降は中国のゴタゴタも有って、冊封関係には無かったのねんから・・。


 それにね・・その頃になるとね・・争いそのものだけは残ってはいるのねんけんども、百済人だと言いつつ新羅や伽耶の王族の血が入っていたり、高句麗人だと言いつつも同じように新羅の骨品の血筋だったりするのねん。その新羅の王だってね・・700年にぁ、しっかり金官伽耶王の血が半分は入ってるしね~・・・最後の金官伽耶王はどう見たっても志帰嶋さんだっしゃろ~?・・倭なの?新羅なの?金官なの?高霊なの~?


・・そんなの~・・新羅な~い・・


                                   ♪たのめ~る


 ま、百済が新羅を追い詰め過ぎて、唐と新羅の同盟を強いものにしちゃったのねん。新羅は献女外交をしとったもんでね~・・・百済王に贈った王族の娘を殺されちゃった恨みが有ったのねんな~。

 つまりその頃にはすでに、

「百済、伽耶諸国、新羅、高句麗、倭は、みんな親類同士になってたのねん!」

・・あほやの~

新撰姓氏録 ちゅうのんが有ってね。西暦815年に、嵯峨天皇の命によって編纂された古代氏族名鑑なのねん。これは、

「京、畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するもの」 by WIKI

 なのねんが、現在は目録しか残ってない・・だけんどもね、貴重な記録で、誰がどんな出自でどんな名の姓が有ってどこに住んでおったのかが判るのねん・・。

 で、この新撰姓氏録の諸蕃を見るとね・・諸蕃いうのは渡来人系の方々でんねん・・・ちゅうか日本人はみんな渡来人だけんどもね~、・・・当然ながら百済人が多いかっちゅうとそ~でも無くてね、漢人系163氏、百済人系104氏、高句麗系41氏、新羅系9氏、任那系(伽耶)」9氏、それ以外117氏、掲載されてるのねん。・・ま、隠れ百済人が他の「皇別」・「神別」に紛れ込んでおるねんからそんなもんなのかもしれんけんども、漢人系が163氏と非常に多いのんが・・面白いのねんな~。

 でねでね・・・不思議でしょうも無いのねんが・・この諸蕃の百済系のところにね・・


「・・ま、まじすか!」


 ちゅうような情報が載ってるのねんよ。だけんども、こんなに著名な新撰姓氏録の情報で有りながら、学者さんの研究でもネットのいらん情報でも・・いや、すまんの~・・ファシレのおじさんの情報が一番イランの~・・・


「全く研究されて無いし載ってない!」

のねんよ・・。これって・・オフレコ?禁忌?・・下手に触っちゃぁ爆発する~?・・・んなわきゃ無いよな~・・何で誰もイワンの~?馬鹿~ん・・



 ま、書いちゃえばもうね~・・誰が見たってすぐ判るのねん・・ファシレのおじさんのブログの日付より後の情報はパクリやねんな~・・もしくは、実は知っちゃ~いたのねんけんども、某筋のお達しにより自粛、でもどこかのアホが鬼の首を取ったが如くネットにさらしちゃったもんで続いて載せちゃうか~・・みたいな感じかいなぁ?・・



                           っんなわけあるかい!

 実はね・・


「阿麻臣がいた!」


 ・・・あれ?・・ビックリせんの~?・・「あまのおみ」でっせ~!・・あの、「アメタリシヒコ」の「アメ」と同じよん?・・

 それによるとね・・

諸蕃に分類。和泉国に住む。 百済出身の取石造(とりいしのみやっこ、とろしのみやっこ) 。姓は造。

「出自百済国人阿麻意弥也」

 高石市(取石)に住む、百済国の阿麻臣より出た取石造

と書かれてるのねん。

Toriishi.jpg
左下部の薄い赤の部分が取石っす


 そ・・・だから、少なくとも唐書が言うようにね・・「アメ氏」はいたのねんな。記紀はしっかり隠したのねんけんども、西暦800年の新撰姓氏録の頃には

「・・タシリヒコ?・・姓はアメ?って・・ダリ?・・甘タリシそ~だから、ちっとだけ舐めさせてちょ~!」

と新撰姓氏録の編纂者も言っていたとかいないとか・・・いるか!


 なんと阿麻臣は百済人だったのねん!・・少なくとも阿麻の臣はそ~分類されとるのねん・・でも阿麻はまだど~だか判らんよ~。で、百済人だった阿麻臣さんは、おそらく白村江の戦い前後に倭に来て、

「取石造(とりいし・とろしのみやっこ)」

と姓を授けられ、高石市の取石の長になったと思われるのねん。


 ま~・・阿麻の「臣」やねんからね・・・「意弥」は「臣」で倭の姓だしょ?・・百済なら「佐平」だからね・・百済の臣じゃぁ無いのねんよ。そんなのは無いのねんから・・。あくまで阿麻臣は、倭の臣と理解できるのねん。

 じゃぁ・・臣の付かない阿麻さんは?・・い、ず、こ、へ?


 そのヒントはやはりね・・取石造、「とりいしのみやっこ」にあるはずなのねん・・と思って調べてみると・・ま~何も出てこんのねん。取石の近くに狭山が有ったっちゅうのんを関西人のフリしとるだけのファシレのおじさんは知らんかったけんどもね・・・これは「さやま」と読むのかなん?・・だっちゅうと、「薩夜馬」さんの読みに近いよねん・・中国語だと「薩」は「さ~」だからねん・・。


                               ・・・愛ちゃん・・「さ~っ」

 中臣臣狭山命って方もいらっしゃるしね~・・。それでもね~・・阿麻臣について何とかもっとヒントが欲しいだしょ~?・・でね~・・実はそれも見つけちゃってるのねんよ・・あちゃ~・・やっちまったな~・・ざんねん~・・あま斬り~・・あれっ?・・


等乃伎神社


 この神社はね・・高石市取石にあるのねん。主祭神は中臣氏の祖神、天児屋根命(あめのこやねのみこと・天照大神の侍神)なのねん。取石造の本拠だったのねん・・


 この「とのきじんじゃ」のホームページによるとご由緒は、

 『続日本紀』天平勝宝四年(752年)の条に「中臣殿来連竹田売」と記載されています。ここにみえる中臣氏の一族である殿来連が祖先神である天児屋根命を当神社に奉祀し、また、その年に太政大臣・藤原武智麻呂、その子の大納言・恵美押勝(藤原仲麻呂)が相次いでこの里に来られ居住されたと伝えられています。このように、当神社は常に藤原氏一族(中臣氏)と由縁がありました。

そ~なのねん・・。


 つまり、752年に中臣一族の殿来連(とのきむらじ)の武田姫が、祖神あめのこやねを祭祀したと。そしてその年に

太政大臣・藤原武智麻呂、その子の大納言・恵美押勝(藤原仲麻呂)が居住した

 飛ぶ鳥さえ落とす勢いだった藤原南家のトップが居住された神社・・なのねん。


 ま、そんなご由緒だけんども、さすがに武智麻呂さんは738年に亡くなってるのんで無理だとしても、笑いながら怒る人・・じゃなかった、絶えず笑みを浮かべつつ押し通してしまうっつ~息子の大納言恵美押勝さんが一時住んだかもしれんよね~。っちゅうか、少なくともこの等乃伎神社と藤原南家の繋がりは間違い無いかと思うのねんな~。

等乃伎=藤乃木

 藤原の殿が来たので殿来っちゅう話しも有るけんどもね~・・実のところは、藤原南家も仲麻呂さん・・つまり絶頂期の恵美押勝の乱が764年に起きて殺されたので、一族の者が神社で祀った・・ちゅうのんが事実だっしゃろねん。神社は血族の者が祀るのが筋だったのねんから、藤原の大殿が神になって縁故者のいる取石にいらっしゃった・・っちゅうことなのねんな~。


 あら・・何の話しだったかな~・・・あ、そ~・・阿麻臣を辿ってったら等乃伎神社に来ちゃったのねん・・「とろし」だったはずなのに「とのき」だったのねん・・


とろし≒とのき



 取石って取石鹿文も・・・いんや、今はこれ以上拡げんとこ~・・・うんにゃ・・気にせんで~独り言なのねん


っつ~ことはぁ・・なんだ?・・


・・・げげげっ!・・阿麻とは・・・?

っつ~ところで・・時間切れ~!もっと詳細に書きたい気持ちもあるのねんけんどもね~・・でもそれだと面白くないしね~・・学者じゃぁ無いし・・じゃ、またね~。ばいなら~・・アディオ~ス!


 
プロフィール

NSY3

Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ブロとも一覧

aquarians

アギタの神が住む鎮守の森

山田貢司のどこに行くのか?バカボン一家
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR