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阿毎氏は・・いずこへ?






 ま~・・西暦700年頃に日本っちゅう国はようやくひとつの国っぽくなった訳だけんど、戦いを常にやってるような状況でね・・それ以前もそれ以後も・・だすな。ようやっと終わったのがついこの間・・1945年っちゅうことでんな~。長~い長~い戦争の歴史だったのねん・・ま~どうもこの頃は右側に首が向いたまんま戻らん方がトップにおるもんで、だんだんきな臭くなって住み辛い世の中になってきたよ~に感じるのかもしれんね~。ただし、確実に日本人は標的になってしまった感は有るよね~。だから今までは、ちょいと外国に旅行でも・・とか、ボーダーレスで情報は得放題だからグローバルに行動しよ~とか・・・もう安易には出来ないようになってきてるのかもしらんね~。ボーダーレスで情報は得放題っちゅうことは、それを悪用したいお方にも「やり放題」で「ツツヌケ」っちゅうことなのねんからね~!


「私は日本人、だからテロ関係ね~っす!」
「国防?・・米国にお任せっす!きっと助けてくれまっす!」


 確かにどっちも「甘~い!」ことではあるのねんな~。・・日和見主義としちゃ~、かなりツライところなのねん・・。日本国も米国も結局助けてくれんのんが日本人ではあるのねんな・・・。ま、実際は助けんどころじゃないのねんけんどもね~。



 ところでね・・・そんな西暦700年頃のことを散々書いては来たけんども、あのアメタリシヒコの阿毎氏は、一体どこに行ったんだろうね~?西暦600年には、倭の王はアメタリシヒコ、オオキミと号し、妻はキミ、太子はワカミタフリと名付く・・・っちゅうのんが一般的な解釈かと思うのねんけんどもね~。



 ま、阿毎氏は「天」のアマだから、天皇さんっちゅうのんが一般的な理解だとは思うけんども、アメタリシヒコの時代は推古天皇さんで女帝とされてる訳だからね・・・ど~やっても、王がオオキミ、妻がキミから言えば、

「そりゃぁ違うっしょ!」

としか言えないのねんな~。


 だから、記紀が描いたのは「小国の日本」であって、「倭」では無いっちゅうことになるのねん。


 だけんども、記紀は、

「中国に対する言い訳の書」


なもんでね。倭国の倭王に封ぜられてたのに、百済(南扶余)を再興するためにまともに正面から戦って大敗しちゃったもんで、倭国を継ぐためには・・


「隠し事をして辻褄を合わせる必要が有った!」

ことは判るよね~・・・。



 まぁ、ファシレのおじさんとしても結論を出す前に、出来りゃ高次から情報を得たかったのねんけんど、いつまで経ってもハッキリせんのんで~・・。桓武天皇さんの頃・・・西暦780年前後からのことは、もうハッキリしとるのねんけんどもね~。辛いところなのねん。


 とりあえずじゃぁ、記紀が隠したかったことって・・何だと思うかな~?もちろんだけんど、その相手は中国(唐)・・なのねんよ。判るよね~?


 そう・・・「阿毎氏の系図」だしょ?・・そりゃぁ、唐にたてついた張本人とその子孫のことなのねん。倭王の阿毎氏を処罰せにゃ~、唐の面目が立たんのねんからね~。で、おそらく女帝の斉明天皇さんが西暦668年、白村江の戦いの6年後に、新羅に出頭してるのねん。

 その辺のことは「さらに可哀想な斉明さん・・・」に書いてるのんで、読んでみてくなんせ~。


 つまり、阿麻来服・・・阿毎(氏・国?)が新羅に出頭して来て降伏したのんで、手下を唐に行かせたと。そしたら1人は帰って来ず、1人は戻ったと。そして「もう女はいらん!連れてくるな!」と言われた・・・っちゅう話しでんな。新羅本紀にそ~書いてあるっちゅうことでんな~。

 ついでにその手下の2人っちゅうのんは、降伏した高句麗の高官だったのねんな~。ま~・・・「女」っちゅうところが味噌なのねん。


 だから、一応阿麻氏は降伏したことになってるのねん。降伏した阿麻さんのその後のことは書かれて無いのねんけんど、新羅がそのまま匿ったか、唐に連れて行かれたか・・判らんのねん。


 そんで、斉明天皇さんの息子っちゅうことになってる天智天皇さんは、都を大津に移したのねんな~。で、いつの間にかいなくなったとか、病気になって亡くなられたとかで、たった4年後にそ~なられたのねん・・。


 で、天智天皇さんの息子さんっちゅうことになってる弘文天皇さんに至っては大津でいいとこ6ケ月でね・・・壬申の乱で亡くなられて・・・これまた天智天皇さんの弟っちゅうことになってる天武天皇さんが勝って即位されたことになってるのねん。


 これが紀の書いた西暦670~680年頃のことなのねん。つまり、「阿毎氏」は何とか続いてるだけ・・・っちゅうことでんな。でもここは見せ掛けでね~・・・。唐は「阿毎氏=天皇家」じゃないことを知ってるからね~。


 旧唐書の日本国伝に、

「小国であった日本が倭国を併合した」

ってね・・ちゃんと書いてあるのねん。


 でもね・・・本当はどうなのか、阿毎氏=天皇家なのか、そうじゃないのか・・・疑問があるよねん?・・大体にして、西暦600年のアメタラシヒコは男だからね~。これは唐書に書いてあることなんでね・・記紀には書いてないのねんよ。・・っつ~ことは・・


「やっぱり阿毎氏は姿を変えて存続した?!」


っちゅう可能性があることにならんかの~?


 じゃぁ・・もしそうなら、一体誰に姿を変えたのかっちゅうことでんな・・。ちょっと検証してみよっか~?


 その時代の実力者を考えてみようっかねん・・。もちろん、天皇家さんは除外よん・・。中では誰でも知ってる「蘇我氏」はどうなったかっちゅうと、

「蘇我氏は西暦600年代前半に宗家の蝦夷・入鹿さん親子が後の天智天皇・藤原鎌足に殺され没落」
したのねんな~・・・。大臣の家系だったのに・・残念・・

 続くのはやっぱり「物部氏」でっか~?・・そりゃぁ知ってるよねん?

「物部氏は宗家の守屋さんが蘇我氏と聖徳太子に討たれて没落」
したのねんな~・・・。大連の家系だったのに・・残念・・


 他にも大連を務めた大族の大伴氏もおるけんども、こちらは西暦500年代にだいぶ力を削がれたのねんな~。だけんどしっかり残ってるけんどもね~。

 後は「阿部氏」かな~・・・。実はこちらはちゃんと残っててね~。阿倍鳥子臣さん、阿倍御主人さん、阿倍比羅夫さんが西暦600年代に活躍したのねん。以前のブログでも書いたけんども、

「阿倍鳥子はアベタリシ、アメテラス?」

 みたいなね~・・。かなりそ~見える名前なのねんな~。

 ま、そんな具合でね・・600年代は阿部氏位しか力を持ってないのねんよ。でも、阿倍比羅夫さんは白村江の戦いに参加してるからね~。


ある氏族が出てくる前に都合良く蘇我氏、物部氏っちゅう豪族が没落してる
のねんな。


 でね・・・そんな実力の有る氏が没落してく中で、ある氏が彗星のごとく現れてね・・・あっと言う間に出世して右大臣になっちゃってね~!そうそうそう・・・それが不比等ちゃんなのねんよ~。


 中臣宗家出身(とされる)の不比等ちゃんは、壬申の乱で中臣氏が近江朝側、弘文天皇さん側に付いたもんでね・・・、勝った天武天皇さんから見りゃぁ敵側なのにね~・・・何故か罰せられずね・・・天武天皇さんが亡くなられた後の天皇さん、持統天皇さん・・・天武さんの皇后さんだったお方なのねんが、大抜擢でね~。実力を認められたとかで凄い出世をしたのねん。


 おまけに父親の「鎌足さん」が天智天皇さんからいただいた「藤原姓」を独占しちゃってね~。因みに持統天皇さんから三代に渡っての宮だったのが「藤原宮」・・・一般的には「藤原京」でんな~・・・

藤原京でっせ~?


 臣下の姓の名が付いたお宮でっせ~?・・西暦690年(持統4年)に着工されたことになっとったのねんけんど、発掘調査で西暦676年(天武5年)に着工されたことが判ってるのねんよ。着工が天武5年って・・・それ以前にはもう現地調査とか設計とか材料集めとかしてるのねんで~?


「・・・天武さんと藤原さん、つまり中臣さんは敵同士だったのちゃう?


 さ~・・・どうなっちゃうのねんな~?・・実力者がどんどん殺し合いをして力を削がれてく中で、当時の天皇さんに反目したもんで遠ざけられたはずの氏がなぜか劇的な出世・・。そして、天皇家に皇后を出す氏として確立されてく藤原氏・・・

 持統天皇さんの漢風諡号(名前)は、後の時代の淡海三船さんが付けたのだろうけんど、「じとう」の「とう」って本当は・・「藤」?・・・


「えっ?それじゃぁ・・記紀が隠したかったのって・・?」


 淡海三船さんは、諡号付けで悪ノリし過ぎたのがバレて罪を得たらしいのねん・・・ だけんども、どの部分で悪ノリしたのかは明らかにはされて無いのねんよ・・・


 あ~・・・残念~・・時間切れなのねん~!・・ほんまに残念でんな~!またまたその内にね~・・書くからね~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!
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実は・・行ったり来たりしてたのねんな~!






 539年に即位したとされてる欽明天皇(きんめいてんのう)さんは別名、志帰嶋天皇(しきしまてんのう)と言われたことを前回のブログに書いたのねんが、

「島に帰ることを志した天皇さん」

っちゅう名前をお持ちだったのねんな。


 でも、

「帰るっちゅうことは一旦行かにゃならん!」

っちゅうことが言えるはずなのねん。

 日本書紀も古事記も、その辺の単純な論理は・・きっとちゃんとはしてるのねん・・・っつ~ことは、行ったこともどこかに書いてるはずだよねん?


 24代の天皇さんとされてる方に「仁賢天皇」さんがいらしてね・・Wikiから引用させてもらうと・・

仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)
は、古墳時代の第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または大為(おおす)、字は
嶋郎(しまのいらつこ)
by Wiki


 この仁賢天皇さんは23代の顕宗天皇(けんそうてんのう)さんと兄弟とされててね・・逸話もかなり芝居染みたっちゅうか、ちいっと前に見てきたようなお話しを記紀は展開してくれてるのねんけんど、そりゃぁど~でも良くってね・・。問題っちゅうのんはもりろん・・うんにゃ、勿論、「赤字」の部分の

「嶋郎(しまのいらつこ)」

だしょ~な~。

 記紀を読んでも、何で「しまのいらっこ」っちゅうお名前になったのか、全く判らんしね~。先代の弟である顕宗天皇さんは来目稚子(くめのわくご)さんっちゅって、育ての親を想像させるようなものになってるのに・・「嶋」なのねんよ。第29代の欽明さんの「志帰嶋」さんと、ちゃんと・・

「行って来い!」


 の条件を満たすようなお名前になってるっちゅうこっちゃねんな。


 でも、

「・・名前だけじゃぁね~・・せめて状況証拠でも無いとね~!」

と言われるのがオチ・・。


 ・・だけんどもね・・ちゃんと色々と調べるとね・・


「仁賢天皇さんは列島を離れて百済国に行った!」

 ・・かもしれん・・・っちゅうか、それしか考えられんようなことになってるのねんな~。


 前にも百済の武寧王さんの話しはしたと思うねんけんども・・一度書いておこうっか?


武寧王(ぶねいおう、462年 - 523年)
は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。
 『梁書』では余隆(徐隆)(余(徐)は百済王の姓)、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。
 また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。
 旧都漢城(ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王とされる。
by Wiki



 そう・・・武寧王さんも「嶋」さんなのねん。462年の生まれっちゅうのんは、実際に韓国で古墳と墓誌が発見されとるのんで、間違いないとされとるのねん。日本の島、カカラ島で誕生したもんで、百済に引き返したっちゅう話しが紀に書かれとるのねんな・・。

 まぁ、引き返したなら列島におらんことになってるのねんけんども、その辺が「紀の書き方」っちゅうか、ヒントっちゅうか、ワナっちゅうかね~・・。何しろ日本書紀じゃ、武寧王さんは混支王さんの父である蓋鹵王(がいろおう)さんの子っちゅうことになってるしね~。グチャグチャにしてあるのねん・・。


 仁賢天皇さんは449年の生まれ、498年9月10日に崩御されたことになっててね・・天皇在位は488年1月5日~498年8月8日とされてるのねん。

 だから、もし同一人物だとしたら、

「生まれ年が違う!」

っちゅうことになるのねんけんど、武寧王さんとはたったの13年早いだけなのねんな。


 でねでね・・498年に亡くなられたとされてるけんども、じゃぁ・・武寧王さんの即位は502年・・。先代の「末多王(東城王)」さんが悪い奴になってしまってね~・・臣下に刺されて死亡したことになってるのねん。


 つまり・・列島にいらした仁賢天皇さんは、488年から498年の11年間、天皇さんであって、その後半島に渡り、502年から523年まで百済王だった・・と読めるのねんよ。

 でねでねでね・・その、父親ともされる先代の東城王さんは昆支(徐昆支)の子とされててね・・そう、昆支さんは前にも出て来たよね~・・・継体大王のとこでね(・・そこも読んでおいてね)~・・、諱(いみな)をね・・

牟大(モデ)
摩牟(マモ)

と言われるのねん・・。


 じゃぁ、嶋郎の仁賢天皇さんの諱は?・・っつ~とね・・

大脚(おおし)
大為(おおす)


 つまり・・

「牟(むだい)の息子 ≒ 脚(おおし)」


っちゅうことになるのねんな~・・・。しかもね、武寧王さん・・ある説じゃ41歳に至るまで日本に住んでいたっちゅうことも言われてるしね~。ものの見事に・・論理的なのねんよ・・ね~・・判るよねん?


 記紀は、

「百済の人質のxxx王を・・」

 みたいな書き方を延々としとるのねんけんど、

「475年に百済が滅んだが雄略天皇は任那から熊津を割譲して復興させた」

kumatsu.jpg

 熊津は赤いところだんね~!


とか、上の地図の国道15号の辺り一帯がそうなのねんけんども、前回記事のように512年の百済に対する任那4県割譲も認めてるのねん。その後にももう一度ね~・・。



kumatsu01.jpg

 赤いラインのほぼ内側全部が512年以降の割譲地域だんね。

 つまり、475年に百済は一度完全に滅んだと・・・その後に任那から熊津を分けてもらって再興したっちゅうことだけんども、割譲されたのは事実だとしても、割譲してくれたのは誰なのかね~・・。


 ま、でもつまり、475年以降の百済の領地は、一時的にせよ、ほぼ任那、加羅、南倭の割譲地域プラスアルファ程度しかなかったのねんよ・・。

「人質って~・・敵国から取るんじゃぁ無いのん!?」

って思うだしょ~?



 つまりね~・・400年代~600年代に掛けての記紀の記述は、ヤマト=百済だっちゅうことなのねんな~。大和地方に住み、かつ、百済にも住んでいた人々が記紀の言う日本だっちゅうことなのねん。

 じゃぁ・・それが本当かどうかっちゅう部分が重要なのねんけんども、後世の書き換えがかなり認められるとしてもね~・・大枠では・・っちゅうか、結果的には・・っちゅうか、桓武天皇さんの頃の真実の姿を見るなら・・合ってることになるのねん。まぁ・・まだ書ききれてないことが山ほどあるけんどね~。

 大体ね~・・大和をヤマトとは・・読めんだしょ~?百済をクダラ、クタラとはどうにも読めん・・女子高生と書いて16歳と読む・・みたいなもんだしょ~?有りえん読みなのねん。

 じゃぁ~、ど~ゆ~ことかっちゅうと、大和は大倭(だいわ、たいわ、たいい)なのねんよ。倭国(わこく・いこく)の名前でんな~。白村江の戦いの後、倭国が立ち行かなくなってヤマト朝廷・日本が出来たのねんが、倭国を継承しつつ、違う国とも見せたいもんで、大和地方(やまとちほう)に都を持つ朝廷が、倭(わ・い)を「やまと」と読み、大倭を大和に変更してまた「やまと」と読ませたのねん。そして記紀もそ~ゆ~ふ~な立場で書いたのねんな~。

 百済も結局、クダラっちゅう言葉が最初から列島に有ったのねんよ・・。それは・・狗奴国(くなこく)・・でんな~。卑弥呼さんの邪馬台国と争ってた、あの狗奴国でんがな~。

 何とか「羅(ラ)」っちゅうのんは、国とか地域っちゅうことなのねん。加羅とか多羅と同じなのねん。徐氏の住む地域のことを狗奴羅(くなら)っちゅうたのねんな~。「くなら」が「奈良(ナラ)」にも「百済(クダラ)」にもなったのねん・・。奈良は狗奴羅の頭が落ちただけ、クタラ・クダラはクナラが訛っただけなのねん・・。それに新羅語だと「ナラ」は国の意味だそうなのねん。半島に百済を建国してそっちじゃ「ぺくちぇ」と読んでも、列島にゃ列島の読み方が有っただけなのねん・・読み方・呼び方が有ったもんで地名もできたのねん。川もありゃ~・・宮の名前にした・・なもんで、列島じゃ「クナ、クナラ」が「クタラ・クダラ」に、中国は当て字して「狗奴國(クナコク)」ちゅう・・ことになったんやね~。

 っつ~ところで・・時間切れ~・・。ま~・・こうやってね・・記紀のヒントで解き明かしたところで、もう答えはわかっとるのねんで・・しかも、解いたところでそこが後世の書き換えられた部分だったら意味無いもんで・・何しろ「倭の歴史」と言いつつも、それだけは後世に全く伝わってないことだけは確かなのねん・・99%隠されてしまったのねんよ。なんか、記紀の裏解説になってしまってるのが残念なのねん。だけんどもそれでも現状はさしたる影響も無い・・大体にしてファシレのおじさんもおそらくその子孫やけんな~!・・全く以って大したことが無いのは見えてるのねん!・・じゃ~またね~・・アディオ~ス!バイナラ~!
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Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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