取っ替えっこしただけじゃん・・






 実際のところ、文武天皇さんと文武王さんが同一人物だったかど~か・・は、本人に聞いてみないと判らんしね・・・まぁ・・そんなことを出来るのは、ファシレのおじさんの周りじゃぁ小麦ちゃんくらいしかおらんのだけんど、本人はほぼ歴史の知識が無いもんで、

「・・もんむ~?・・あ、ちょ~ど良かったぁ・・ファシレ~、肩揉んめ~!」

みたいな感じにしかならんと思うのねんな~。・・・残念・・


 でもね~・・ひとたび彼女に何かのスイッチが入るとね・・まぁ~こちらもビックリするような幅広い知識と、太古の本人しか知らんような知見が駄々漏れしてくるのんで~・・そんな時が来るのをただ待つしか無いのかもしれんね~。

 文武天皇さんは西暦700年頃のお方だけんど、西暦500年頃の話しは前にもしたよねん?・・・忘れちゃったかな~?

 そう・・継体大王=男大迹(をほど)さんは半島百済の昆支王の、ヤマト朝廷の人質4人の子の一人・・っちゅうことでんな。その辺については

「記紀にゃ~・・そ~書いてあるねんけんどね~・・」

を読んでね~。判り辛いかもしれんけんど、「名前の読み」がほとんど同じだからね~。因みに昆支王の息子さんの東城王さんの子孫は、ヤマトで飛鳥部(アスカベ)氏としてしっかり残ってるのねんな~。西暦662年に滅んだはずの百済(くだら)の王族は、日本にしっかり根付いてるのねん。

 だいたいね~・・百済と書いて「ひゃくさい・ひゃくせい」と何で読まんかな~?いいとこ、「ももせい」やろ~?韓国語だと「ぺくちぇ」やしね~・・。つまり「くたら」と言う土地・地域が日本に元々から有った・・もしくはどこかから移動して来た・・っちゅうことやね~。それに百済っちゅう国は西暦538年には無くなってんのねんな~。南扶余(みなみふよ)っちゅう国になったのねんけんどね~。今日はその辺の話しなのねんな~。



 でね、26代継体大王さんの後は27代の「安閑大王」さん、28代の「宣化大王」さんと繋がり、どちらも継体大王さんの息子さんだとされてるのねんな~。だから、もし息子さんで間違いなけりゃぁ・・・百済の王統を天皇さんと認定してるっちゅうことになるのねん。

 ただしね・・「倭」と、「ヤマト朝廷=日本書紀の書いている日本の王統」は・・イコールじゃ無いっちゅうことを理解せんと変てこなことになっちゃうのんで、注意せんといかんよ~。記紀が書いている世界は非常に狭い目で見た日本なのねん。一見、日本全国津々浦々を言ってるように見えるけんどもね・・日本書紀は「結果的に日本と自称するまでの、ひとつの地域から見た唐への言い訳の書」なのねんから・・。


 28代の宣化大王さんの後は、29代の欽明大王さん・・でんな。この方も百済の王統かっちゅうとね・・ちいっと違ってね・・。実は金官伽耶の最後の王とされる仇衡王さん・・なのねんな~。


仇衡王(きゅうこうおう、生没年不詳)
は、金官伽倻の第10代にして最後の王(在位:521年 - 532年)。讓王とも。廟号は世宗。父は鉗知王、母は淑である。王妃は桂花、息子に金奴宗、金武德、金武力がいる。

日本書紀によると529年4月(継体天皇23年)に、仇衡王が来日し、その月の内に帰国したと記されている。

韓国の言語学者で姜吉云(カン・ギルウン)の説によると、欽明天皇(509年 - 571年、在位:539年 - 571年)は、仇衡王が日本に移住後に「志帰嶋大王」として即位したものとしている。日本でもドイツ文学者で古代史の愛好家だった鈴木武樹が同様の主張をしていた。
by WIKI



 ま~・・研究者の方々の間でもそんな説が有るもんで、ファシレのおじさんがあ~だこ~だと言う必要も無いかもしれんけんどもね~。まぁ、姜吉云さんの本はファシレのおじさんも購入して読ませてもらったのねんが、理解できるところもあり、そりゃないわ・・っちゅうところも有り・・是々非々だけんども、少なくともこの部分は「その通り」だと思うのねんな~。


 何せ欽明さんは「志帰嶋大王」さん・・でっせ?


 島に帰ることを志した大王さん・・でっせ?・・で、「島に帰る」っちゅうところがポイントなのねんけんどね・・。島から一旦出無い限りね・・「帰る」とは言わんだしょ?


欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?))
は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明天皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。



 仇衡王さんは529年4月(継体天皇23年)に来日され、その月のうちに帰ったとされるけんども、532年に新羅に降伏してるのねんな・・。で、その子孫は何と・・

「新羅の武将・皇族になってる」

のねん!・・

 仇衡王さんのひ孫の金ユ信さんについては、結構ご存知の方も多いんじゃないかと思うけんどもね~。・・いんや、ファシレのおじさんは見とらんよ~。韓ドラっちゅうのんかな?・・なんかね~・・・合わんのんな~。

 でも、「金官国の末裔が新羅王族」っちゅうことも、その後に影響してるのねんで、重要なポイントなのねんな~。


 ま、とどのつまりは、

「金官国王は日本に来た。国替えをした。子孫は新羅に降伏して金官国=金官伽耶は滅んだ。」

っちゅうことなのねんよ。


 あ~・・そ~言えば「国替え」を説明しとらんばってん・・やっとかないかんの~。これを書くとそれを説明せんならん・・それを書くとあれを説明・・みたいにエンドレスになってまうのねんが~・・ちとめんどいの~!



大伴 金村(おおとも の かなむら、生没年不詳)は、
5世紀から6世紀にかけての豪族(大連)。

 仁賢天皇11年(498年)、仁賢天皇の崩御後に大臣平群真鳥・鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。武烈天皇8年(506年)武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。

 『日本書紀』によると
継体天皇6年(512年)に百済からの任那4県割譲要求があり、金村はこれを承認し、代わりに五経博士を渡来させた。

 継体天皇21年(527年)の磐井の乱の際には物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。しかし、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していった。

by WIKI より抜粋



 ま~ね・・任那と加羅は微妙に違う意味合いもあるのやけんども、同じだと思ってもらって良いかな~と思うのねんな。

 つまり、

507年 日本は継体大王を百済から貰った。
512年 百済は任那の割譲を要求し、成った。
532年 金官加羅国は新羅に併合された。(562年には全加羅地域が併合される。)
538年 百済聖王、遷都して国号を南扶余とする。
539年 任那を管理していた金官王は529年に日本に来ていてこの年、欽明大王になる。


っちゅうことなのねん。実際のところ、任那割譲の全責任を大伴金村さんにおっかぶせて書いてあるけんども、それはど~かね~。結局のところ、金官国王は日本の王様になったのねんで・・・しかも結果的にやけんど子孫は新羅の王族になってるのねんで~。百済(南扶余)は自国の周りの領地をいっぱい増やしたのねん。


「な~んだ・・取っ替えっこしただけじゃん。」


 そ~なのねん・・ま、勿論おびただしい血は流れてるのねんよ。筑紫君磐井さんも・・・継体大王の臣、物部アラカイさんに因縁付けられて攻め殺されてるのねん。磐井さんはもちろん・・新羅派なのねん・・だって、継体さんは百済だからね~。

 でその後、継体大王さんは、九州の統治を物部アラカイさんに任せたことになってるのねん・・・ま、九州全部じゃぁ無いのんけんどもね~。っちゅうところで時間切れ~・・。今回は後回しになってた部分をね・・ちっとばかり説明させてもらったのねんな~。簡単に言えば、日本は百済、新羅、伽耶、秦、倭などの国・地域が共存してた・・っちゅうことなのねん。勿論、まだ説明の足らん部分も多いのねんけんどもね~。じゃまたね~アディオ~ス!!
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同一人物?






 倭の歴史やら不思議な出来事やら・・「ごっちゃ煮」状態のファシレのおじさんブログだけんども、やってる本人も何が何だか良~くは判って無いっちゅう・・まことに申し訳ない状態っちゅうのは認識しとるのんでね~。ま、額に縦筋寄せながら・・

「・・・この人、何を言ってるんだ~!」

とお冠の方々もいらっしゃるとは思うけんど、「・・やっちまってるな~・・」と、軽~いノリで許して欲しいのねんな~。よろしくね~。


 ところでね・・天皇さんの中に「文武天皇(もんむてんのう)」とおっしゃるお方がいらしてね~。 天智天皇さん-天武天皇さん-持統天皇さん・・と来ての~・・文武天皇さんでんがな~。

 で、この文武天皇さんっちゅうのんは、どんなお方だったかっちゅうのんをWikiで拾わせていただくと~・・こんな感じでんな~。

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))
は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。

  諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。

 和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。

 草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。
Monmu.gif
By Wiki

文武天皇さん


 天智天皇さんの娘で天武天皇さんの皇后である持統天皇(女帝)の息子さんである草壁皇子さんの息子

っちゅうことでんな~・・。こうやってしまうと読み解くのは中々難しいけんども、

「天武さんが亡くなられた後を継いだ持統天皇さんは息子の草壁皇子を次ぎの天皇にしたかったけんども、早世したので孫に継がせた・・」

ちゅうことになっとるのねんな~・・。世の中一般的にはね~・・。

 683年にご誕生になられ、697年、つまり14歳で天皇さんになられ、707年に24歳で亡くなられたことになってるのねん。非常に・・若いのねん・・。

 なのにね・・「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと)ってお名前なのねんよ。「祖父」でっせ~?すっげ~じいさんみたいなお名前なのねんよね~。、ま、現代の感覚かもしらんけんどもね~。


 だけんどもね・・ちょうどこの700年ごろっちゅう年代は、唐・新羅連合軍に663年、白村江で大敗したもんで、日本も大変なことになってたのねん。ま~・・今まで散々書いてきたもんで、読んでくださってる皆さんもご存知でっしゃろとは思うのねん。


 ところがでんな。白村江で唐・新羅連合軍に負けたとされる日本だけんどもね・・・その新羅にも・・

「文武王さん」

 がいらしたのねん・・。

 これがね~・・実に微妙なタイミングでね~。実はこの頃の漢風諡号は、淡海三船さん(722年-785年)が付けたことになってるのねんけんども、何故か文武天皇さんだけは三船さんは付けてないってことが判ってるのねんよ。だから、基準っつ~か何っちゅうか判らんけんど・・

「文武天皇さんっつ~漢風諡号(名前)は後世に付けられたものでは無い」

可能性が大なのねんな~・・・。


「なんで1人だけ?」


 ま、実はもう一人いたのけんども・・・それは後に天皇さんだったと認められた弘文天皇さん。だから実質例外は文武さんだけなのねんよ~。



 でね・・新羅にも文武王(ぶんぶおう)さんっちゅう・・王がいらっしゃったのねん・・。


文武王(ぶんぶおう、生年不詳 - 681年)は、
 新羅の第30代の王(在位:661年 – 681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)の善品の娘の慈儀王后。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。

 武烈王として即位する前の父・金春秋が唐と新羅との緊密な関係(唐・新羅の同盟)を築いて帰国した後、649年の百済との局地戦の戦勝報告と、真徳女王が唐の威光を称えて作った五言太平頌を献上することとを任務として、金法敏は650年6月に唐を訪れた。高宗はこのことを大変に喜び、金法敏は太府卿の職を授かって帰国した。帰国して後に父が武烈王として即位すると、654年に波珍飡(4等官)の位で兵部令(長官)となり、次いで太子に立てられた。

 660年7月の対百済戦役では、金庾信らとともに5万の兵を率いて左武衛大将軍蘇定方の指揮する唐軍に合流して戦って大功をあげた。その後も百済の残存勢力は各地で反乱したが、10月には金法敏らの諸軍が尓礼城(忠清南道扶余郡の青馬山城[2])を陥落させて、残りの20余城の百済軍もすべて降伏し、百済旧地はいったん平定された。

by Wiki



 簡単に言っちゃえば・・文武王さんは x年 に生まれて681年に亡くなったのねんから、文武天皇さん(683年~707年)とは微妙に・・重ならないのねんよ・・。

 文武王さんの親父さんは武烈王(ぶれつおう)さんと言ってね・・602年? - 661年と言われてるのんで・・その間のお生まれっちゅうこっちゃね・・。だから、少し長生きされたのならば・・

「同一人物」

の可能性が出てくるかもしれんだっしょ?

 それにね・・・

「祖父天皇」

・・だしね~・・。怪しいよね~?ダレの祖父なのかとね~・・思っちゃうだっしょ?


 でねでね・・これは前にも書いたかな~・・書いてないか、判らんけんども・・一応書いておこうか・・


 「日本書紀」にはね・・は大化3年(647年)に

「文武王さんの親父さんの武烈王(金春秋)さんが来倭していることを書いている!」

 新羅は金春秋らを派遣、高向黒麻呂、中臣連押熊(おしくま)を送り届け春秋は人質としてとどまった・・としてるのねんよ。武烈王さんの新羅王の在位は654年~661年なもんで、即位前には日本にいたっちゅうことになるのねん・・。


「次世代の新羅王になるお方が647年から654年以前までの或る期間、日本に居た!」


っつ~ことは・・


「次々代の新羅王の文武王はその時に生まれ、そのまま日本に居た?」

っつ~ことに・・なる・・かもしれん・・だっしょ?


 仮に文武王さんは日本で647年頃にお生まれになったのなら・・文武天皇さんとして亡くなられるとするなら、60歳だからドンピシャ!

 それに新羅で生まれていたとしても全く不思議は無い歳だとも思われるしね~。

 ま、ただし武烈王さんはその後唐に出かけたっちゅう話しも有るから、日本(倭)で生まれたかどうかは微妙だけんどもね・・。


 その頃の情勢は、百済・倭が敗者で唐・新羅が勝者なのねんよ?・・・


「・・・あれれ?・・一体・・ど~ゆ~こと~~?」


 そうなのねん・・記紀の言うことをしっかり信じてしまうとね~・・本当のことが判らんのねん・・。ただし、記紀はヒントはくれていると思うのねんよ。


 でねでねでね・・・新羅本紀によるとね・・文武王さんは遺詔によって新羅初の火葬で葬られたとされてて、お墓も見つかってないのねん。日本海沿い(東海)の大石の上に置かれた・・とされてるのねんよ。


「だから・・倭に出張してたんだってば!」


っちゅう文武さんの声が聞えてこないかな~?


っちゅうところで今回は時間切れ!!本当はね~・・もっと細かく書きたいけんどもね・・こっちを説明すると、あっちも説明せんといかん・・でまたそっちの説明も・・となってしまうのねん・・。でも何とか少しずつね~!じゃ、またね~。ばいなら~・・アディオ~ス!
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 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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