スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

不比等ちゃんは言葉遊びがお好きなのねん!






 実際、非常に・・不思議なのねんな・・。皇大神宮(内宮)の千木(チギ)は女もの・・外宮のそれは男ものだしね・・。実際に本当かどうかは見たことが無いのんで知らんけんども、皇居内の神殿には、内宮の神さんよりも上席?にいらっしゃる神さまもいらっしゃるらしいしね~。良く判らんこっちゃね~。

 すっかり天照大御神さんは女性だと信じ込まされてるけんど、外宮の豊受大神は女性と伝わり、男ものの千木・・。ん~・・・すっかり天照さんの話しに誘導しちゃってるけんども・・何だかな・・今ひとつ、気持ちが乗らんの~。


 前回の記事で「阿毎多利思北孤はアメタリシヒコでいいのん?」と書いて、 「あ め と り す ひ こ」と読んで・・「天テル推古」とまで書いたけんども・・全く反応が無いのんで、ちょっと引かれちゃったのね~?・・と思ってるのねんが、

「余りに低いトーンの言葉で書いたもんで、良く伝わらなかったのねんか~?」

とも・・ね~。


 自分でしっかり呆けて、突っ込みも自分で・・ってことなのかな~?と思うけんど・・、ま、いいか~!

 つまりね・・


「阿毎多利思北孤はアメタリシヒコじゃなくて ア マ テ ラ ス ヒ コ 」

なのねんな・・。

 天照も天足も天帯も・・読み方が若干違うだけ・・結局は同じなのねんよ。天足・天帯よりも天照の方が佳字っちゅうことやねんな。漢字の当て方で印象は変わるけんどね・・。で、そのアマテラスヒコさんが600年頃にもいらっしゃったと・・存在したということなのねんな~。それに、テラスヒコだろ~がタラシヒコだろ~が・・どっちでも良いのねん・・。同じなのねんよ~。


 ところで、皇統が途切れずに、ず~っと続いていたことにはなってるけんども、実際はど~なのかと言うとね・・現実はかなり厳しいのかもしれんね~。もっとも日本人はそれでもず~っと続いてきたのねんから、皇統がどこかで断絶したとは・・言い切れんしね~。

 例えばね・・初代の天皇さん・・っちゅうことになってる神武天皇さんから始まって、今上天皇さんは125代・・・中国の皇帝さんも羨んだとも言われてるけんどもね・・。凄く長く続いてるのねん。

 でも、どこかでやっぱり危機は有ってね・・。「どこそこからxx天皇の5世の子孫を連れてきた」なんて記事も記紀には書かれてるのねん。取り繕ってはいるけんども、そんなことも隠そうとはしてないのねんな。

 それにね・・古代史が好きだったり、神社やお寺、スピ系の方々もそうかな?・・そんな場合はご存知だと思うけんども・・


「記紀を読んでると、日本のことを書いてあるはずなのに、いつの間にか半島人の気配がぷんぷんしてることに気付く」

っちゅうことでんな~。・・そう・・思うだっしょ?


 奈良にも大阪にもね・・「百済」と付く地名やら川やら・・沢山あるのねん。天皇さんの中には百済宮にいらした方とか、お寺さんとかね・・。そりゃぁ、どこか僻地にでもあるならね~・・例えばそのころの東国とかね・・それなら、

「あ~・・戦いに負けて列島に逃れ、入植したのねんか~?」

と思えるのねんけんども、百済王(くたらのこにきし)さんというお名前とかね・・そんなお方が不比等ちゃんの家系としっかり結びついてるしね~・・。しかも、その頃の都の近郊、もしくはそのものなのねんから・・。

 それにね・・その頃の「やまと(倭・和など)」氏とか、「あすか」が付くお名前の方々は、ほぼ全てが半島からいらした方々なのねんよ。

 一般常識じゃぁ、「やまと」とか「あすか」とかと聞けば、純粋に日本を想像してしまうと思うけんどもね~・・。これって・・ど~ゆ~ことなのかと、不思議にはならんかの~・・。


 例えばね・・継体天皇さん・・というお方がね・・いらして、どんなお方かと言うと・・


継体天皇(けいたいてんのう、正字体:繼體天皇、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。

 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおほきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおほきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。

 『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。

 『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。
<略>
 越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。



Statue of Emperor Keitai

by WIKI


 つまりね・・25代の武烈天皇さんに子供や兄弟、先代も含めて天皇にふさわしい方が誰もいなくなったので、重臣たちが協議して、

「越前にいらした応神天皇の子孫を迎えた」

っちゅうことでんな。

 確かに日本書紀には「越前」と書いてあるようだけんども、まだそのころは「越前」は無いのねんな。「高志」と書いて、「越」の意味・・で「こし」・・でんな。

 ずいぶん後になってから、ご丁寧に「高志・越」を「越前(えちぜん)」と書き換えたのでっしゃろ。その方が後世の方々に判りやすいとね~。ほんと、余計なことをしてくれるものねんな。WIKI にも、

7世紀末の689年-692年(持統3-6年)頃高志国(こしのくに)が高志道前・高志道中・高志道後の3国に分割された

と書かれてるしね・・。ちょうど、日本書紀を書いてる真っ最中でんがな~。


 でねでね・・。応神天皇さんの5世のご子孫が高志国(こしのくに)にいらしてね・・、大臣・大連たちがお迎えに上がり、何とか即位を了承してもらってね・・河内だから大阪でっか~?・・ご即位されたのねん・・目出度し目出度し~!・・いつもより余計に回しております~!・・・・・・ちゃうって!


 本当に高志にいらしたのかね~?・・っちゅうことでんがな。「こし」の国にいらしたってことを日本書紀は書いてるけんど、どうもね・・信じられんのよねん。

 どこかで、半島勢力と倭の勢力が一緒にならんとね・・その後の「あすかさん」や「やまとさん」が存在しえんし、百済宮も川も地名もね・・あり得んのねんよ。

 でねでねでね・・ちら~っと・・調べてみるとね~・・。判っちゃったのねんな~。まぁ、不比等ちゃんのオツムの回路とファシレのおじさんのは似てるのかも知らんね~!



 つまりね・・「こし」は「こし」でも「こし違い」なのねん。

 なんのこっちゃ!・・でんがな。・・百済の王様にね・・こんなお方がいらしたのねん。

東城王(とうじょうおう、生年不詳 - 501年)は百済の第24代の王(在位:479年 - 501年)である。『三国史記』によれば、諱を牟大(徐牟大)、あるいは摩牟(徐摩牟)とし、第22代の文周王の弟の昆支(徐昆支)の子とする。

『三国史記』では三斤王が479年11月に死去したので王位についたとするだけであるが、『日本書紀』雄略天皇23年(479年)4月条では、「百済文斤王(三斤王)が急死したため、当時人質として日本に献上され、滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした。」と記されている。
by WIKI



 そ~なのねん・・赤字のところを良~く見てもらうとね・・「当時人質だった」の当時は西暦で479年~480年でっしゃろ?
そしてね・・「昆支王の5人の子供」のうち、1人はね・・百済の王様になったのねん。

「じゃぁ・・残りの4人は?」


「継体大王さんの即位は507年3月3日だすねん!」

「昆支王さんは、こんきおう さんと読むけんど普通に読むと?・・こ(ん)しおう・・高志王!」

「継体大王さんのお名前は男大迹(をほど)、東城王さんは徐牟大(よむだ)?」
 



 ありゃりゃのりゃ・・こんなんなっちゃいますた・・兄弟は名前も似てるのですた・・・それにしても不比等ちゃんは言葉遊びがお好きであられるのですた~・・あ、いかん、どこかのふんどし締めた年寄りのフリしてたおっさんみたいになっちゃいますた・・(ごめん)。・・・っつ~ところで時間切れ~・・・何だかな~・・この調子で書かなくちゃならんのかな~?と思うとちと憂鬱なのねんが・・がんばります~・・さ~・・ど~やってアマテラスヒコさんとくっつけるか・・もとい、こっちの話し~!・・じゃまたね~!



スポンサーサイト

ほんまに「アメタリシヒコ」で・・ええのん?






 まぁね~・・まさか2日連続で更新があるなんて、だぁれも想像してへんと思うけんね~・・。ファシレのおじさんは天邪鬼なもんで、

「期待を裏切る!」

っつ~ことに、ちょっと何かを感じてしまっているのかもしらんね~。すまんね~!


 こんな先の見えない時代やから、取り合えず・・さっさと書いておかないといかんのかな~・・という気もするし、何もそんなに急ぐこともなかろ~に・・とも思うけんどもね。


 実はシツコクって申し訳無いのねんが、結局は~隋書の「阿毎多利思北孤・阿毎多利思比孤」の話しなのねんな~。何しろ・・記紀は全く当てにはできんのんで~。

 まぁ、誰しもが、

「姓は阿毎、名を多利思北孤と号す」

を、

「姓はアメ、名を タリシヒコ と号す」

と読むことに何の疑問も無くてね・・・

「ん?・・アメタリシヒコ・・・・天足彦に決まってんじゃん!」


と、全く信じ込んでしまってるのねんな~。・・・まぁ、別に構わんけんどね・・その方が世の中は安定するのかもしらんしね、いや、そうじゃないぞ~!と頑張ったところで、余り意味は無いとは判ってるのんで・・でもそれでも書いちゃうのんが悲しい性(サガ・・ね)なのねんな~。

 じゃぁ、隋書にはど~・・書かれてるか、もう一度見てみよっか。

開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌


 ま、こんだけ・・で、今回さらには「俀王姓阿毎 字多利思北孤」だけ・・なのねん。じゃぁ・・普通に訳してみよ~っか。

 開皇二十年 俀王 (わおう・ たいおう )の姓は 阿 毎 ( あめ ) 、 字 ( あざな ) は 多利思 ( たりし ) 北孤 ( ほこ ) 、 阿輩雞彌 ( あふきみ ・おふきみ) と号す。

 ファシレのおじさん的には阿輩雞彌は「おおきみ」では無いはずと・・何度も書いてるから、今回はもう書かんのねん・・・前の記事を読んでいただければすぐに判るのねんから・・。それに 北孤 ( ほこ ) の「北」は「比」の写し間違いの可能性が有ってね、「比孤(ひこ)」かもしれん・・っちゅうことは判るよねん?

 でね、阿 毎 は取り合えず・・「あめ」にしといて良いかもしらんけんど、現代の中国語でどんな発音になるのんか、しらべてみたのねんよ。この時代の倭で使用する漢字は当て字だし、発音したものを隋の聞き取り者が文字に起こしたと考えられるのんでね~。

a-  mei duo- li` si-  bei gu-
阿 毎 多 利 思 北 孤


 これを実際の発音に近い形で日本語で書くとね・・・


あー めい とぅお りー すー びぃ くー

 「北」を「比」に変えると・・

あー めい とぅお りー すー びー くー

と、あんまりは変わらんけんどね~。


 でねでね・・。・・これが「あめたりしひこ」と言ってるかどうか・・だよねん?

 判り易くするために、伸ばしてる部分を外して比べてみると・・


あ めい とぅおり す び く


 ・・・これって、アメタリシヒコって言ってるかぁ?


 ま、ね~・・・それでも良いんだけんどね~・・それで済ましちゃうのんは、不比等ちゃんに適わんかったと・・倭人の真実が掴めんのんじゃぁないかと、残念な気持ちになってしまうのんで~・・ファシレのおじさん的には、こんな風に言っているように思うのねんな~。

「 あ め と り す び く」


 そ~!・・あめとりすびく・・なのねんな。・・でもそれじゃぁ何のことだか。さっぱり判らんよね~。だから・・今までこのブログの記事に出てきたお方から、近い発音のお方を引っ張ってくると~!


「阿倍鳥臣」(あべのとりおみ)さん


 そう・・阿倍氏なのねん。阿倍(あべ)は「あび」「あへ」「あえ」「あめ」に通じるのんし~ね・・。

 で、彼の名前は、「阿倍鳥子」(あべのとりこ) とも 伝わってるのねん。でも・・「鳥子」を「とりこ」と・・読まなくても・・良いよんねん?

 「子」は「こ」と読みはするけんども、「す」とも読むのねん。


 だから~・・


「 あ め と り す び く」 は・・「あめとりす」+「びく」だしょ?・・「阿倍鳥子」は「あべとりす」だしょ?・・プラスの「びく」が「日子ひこ」なら・・・

「あべとりすびこ」

だしょ?

 阿倍が天、もしくはアメと読まれていたとしたら・・もしくは、後々の改変で「天を阿倍」にされていたとしたら・・・濁音を好まないこのころの清音に直したとしたら・・

「 あ め と り す び く」 = 「 あ め と り す ひ こ」

 になってしまうのねん・・な~・・残念~!


 でねでね・・このお話しは西暦600年のことなのねんよ。隋のお方を倭に迎えたのねん。で、記紀によるとね・・このときの天皇さんは・・いや、まんだ天皇さんとは言わずに大王さんだったはずだけんども、

「推古天皇さん」


 あの有名な女帝さんでんな~。女帝なだけに、この西暦600年の話しに「アメタリシヒコ」が男のはずが・・っちゅうことで、未だに大混乱しとるのねん。


推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、
 第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主である。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。『古事記』ではこの天皇までを記している。
by WIKI


 そう・・推古天皇さんがご存命の時は、「すいこてんのう」さんとは呼ばれんかったのねん。大抵・・「豊浦宮御宇」みたいに、宮の名前を書くことで・・済ませてたのねん。それが大王さんを敬うことだったのねんな~。

 ま、だから、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)さんとさえも言われもせんかったのねんで、ましてや「推古天皇さん」などとは絶対に・・言われなかったのねんよ。


 じゃぁ・・誰が「推古」さんの名前を付けたかっちゅうとね・・この人だんね。

Oumi_no_Mifune.jpg
Wikiから拝借してます~

淡海 三船(おうみ の みふね、養老6年(722年) - 延暦4年7月17日(785年8月30日))
 は、奈良時代後期の皇族・貴族・文人。はじめ御船王を名乗るが、臣籍降下し淡海真人姓となる。大友皇子の曽孫。式部卿・葛野王の孫、内匠頭・池辺王の子。官位は従四位下・刑部卿。勲等は勲三等。

 また、『釈日本紀』所引「私記」には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。
by WIKI


 っちゅうことになっとってね~・・淡海 三船さんが色々考えてね・・様々な空気を読んで~・・名前を付けさせていただいたのねんな。それで

額田部皇女さん=豊浦宮・小墾田宮=推古天皇さん

っつ~ことになったのねん。


 でねでねでね・・・「推古 すいこ」 なんて・・あんまり女帝さんらしい名前じゃぁ無いし、天皇さん・・大王さんらしくも無いよね~?

・・「古(いにしえ?)を推す(おしはかる?)」

 変だしょ~?・・


 つまりね・・「すいこ」に近い音を、600年頃の天皇さんに・・どうしても付ける必要があったのねんよ。判るよねん?・・ん・・判らん・・?そっか~?


 じゃぁ・・もう一度、さっきのを引っ張ってくるんでね・・見てみてね・・

「 あ め と り す び く」 = 「 あ め と り す ひ こ」


 判ったよね・・・そう・・最後の文字「 す ひ こ 」 ・・・を持ってきたのねん・・。でね・・阿倍鳥子日子さんの名前を 阿倍鳥 にしたのねんよ・・「子日子」の部分が・・「すひこ」なのねん。

 隋書に書かれてる西暦600年の内容を見て、

「こりゃ~まずい・・何とかせんと・・」

と、ご先祖の秘密を守りたい方々(・・・ま、誰かはもうバレバレだけんども)が、隋書をど~んな風に読んでくれても良いようにね・・・周りの環境を整えたのねん。当時の倭の大王としたのが男帝の名前なのに、女帝の名前だとしても、

「すひこ」

が入ってれば何とかなるかぁ?・・と思ったのかもしらんね~。隋書の「阿 毎 多 利 思 比 孤」の文字を見たときは皆さん・・びっくりなさったのねんな~・・きっと~!で、「思 比 孤」から「 し い こ 」 を何とかしたのねん。


 「推古」の「推」は、普通は「すい」と音読みするのかもしらんけんど

「しい」

とも読めるのねんよ。これだと全くの・・タリ「シヒコ」だんね?少なくとも・・「天テル推古」と読ませたかったのかな~と・・そりゃぁ・・そんな、何重にも罠を仕掛けてありゃ間違えるよな~ふつぅ~・・。


 でも幸いにもね・・・アメタリシヒコと読むことに、誰も疑問を持たなかったもんで~・・・っちゅうことでっか~?・・ま、阿 毎 多 利 思 北 孤 は阿 倍 鳥 推 古 っちゅうことで~!・・あ、でも・・これはファシレのおじさんの戯言(されごと)なのねんよ~。ちょっとオツムの変な人が誇大妄想しとる話しっつ~だけなのねん。何しろ推測に推測を重ねて推敲しとるだけなんで~。推古天皇さんだけに~・・。これが正史だなんて、自身でも思ってないのよ~。そこんとこは重々承知でね~。良い子は決して信じちゃいかんのよ~。判るよね~?・・・っつ~ところで・・・残念ながら時間切れなのねん!・ほんまに残念でんな~!またまたその内にね~・・書くからね~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!

まひとはまひと、ふひとはふひと??そしてリフレイン!






 今年の5月に書いた記事、「ついに不比等ちゃんの着物の裾を捕まえたぁ~?」では、漢字の読み方について、

「何だかな~・・」

と疑問を書かせていただいたのねんが、結構大事なところだと思ってるのねん。


 そう、あの「アメタリシヒコ・・姓はアマ(アメ)、名はタリシヒコ(タリシホコ)と号す」の・・隋書の話しねん。まだ覚えてるよね~?


 高名な歴史家さんたちでも、おそらく倭人の言葉の発音を聞いた隋のお役人による聞き取り・・からの~中国語表記だと判っていながら、

「阿輩雞彌」

「おおきみ(おほきみ・あはきみ)」

と読んでしまうもんだから、同じように「阿輩」がついている・・

「阿輩臺 」

「おお??・・」
「おほ??・・」
「あは??・・」

と読むしか無くなってしまって・・


「そのような人の名は・・当てはまる人物はいないが・・」

と・・結果的に万歳、考察を放棄してしまってるのねんな。


 素直になりゃ・・「小德阿輩臺」を「ことく あべのたいふ」と読めるのにね~・・・。ま、確かに阿倍鳥臣は、608年に隋の煬帝さんから派遣された 裴 世清(はい せいせい)さんを迎えた 俀國(倭国)側はの記事じゃぁ・・阿倍鳥臣さんは九州には行っておらず、朝廷で迎えたと記載が有ってね・・。隋書の記載で、海岸で迎えたのが「小德阿輩臺」さんっちゅうことになっとるのんで、

「違う」

っちゅうことになっとるのかもしれんけんどね。


 でも少なくとも全く読みが合わずに、「阿輩」を「おほ」と読むことにしがみつくよりも、ずぅっと建設的だと~・・思うのねんがどうでっしゃろの~。「あわきみ」ならまだ判るけんどもね~。阿倍さんだって・・一人だとは限らんしね~「ひとり」じゃなくて「とり」だからね~・・・


 それにね・・隋書「倭国伝」・・・正確には「俀國伝」(・・わこくでん?・・たいこくでん?)の続きで・・

「王妻號雞彌、後宮有女六七百人、名太子爲利歌彌多弗利」

(俀國)王の妻はキミと号し、後宮に女が6~700人いて、太子をリカミタフリと名付く

「なんだ?・・リカミタフリって?」

って、誰でも思うよね~??


 ま、古代の日本、倭には「リ」から始まる言葉が無いっちゅうことで、「利」なくて「和」だということになって、

「利歌彌多弗利は和歌彌多弗利」

「ワカンドホリ=皇太子」

と言うことで大体落ち着いてるらしいのねんけんども、どうだかね~。


 博多には上塔(カミトウ)という地名が有るから「歌彌多弗(カミタフ 上塔)の利(リ)」だとする方々もおられるし・・。ま、ファシレのおじさんも九州王朝説のxxさんは陰ながら尊敬しとるのんでね・・あまり言いたくはないけんども・・

素直になれば・・

日本語的には・・
「若人 祝」 わかんど ほふり


もしくは、発音的聞き取り的には・・
「若宮 鳥」 わかみや とり

みたいになると思うのねんけんどね~。何で誰もそ~言わんのんか、不思議でんな~。

 因みに現代の中国語だとこんな感じになるらしいのねん・・

ふお               くぅ    みぃゆ  とぅ    ふぅ    り
he'/he`/huo/huo'/huo`   ge-      mi'  duo-   fu'    li`
和                哥      弥   多    弗    利

 「和 ふお」 は、「わ」に聞えんことも無いけんども「ふぉあ」と言ってるように聞えるのねんけんどね~。


 それに、「利歌彌多」は「わかんど (若人)」と読めんだっしょ?とおっしゃるかもしれんけんど、「彌」 の「み」は「ん」とも代理できるのんで・・・「朝臣」を「あそん・あそみ」と読むようにねん・・。大昔は「あそみ」と読んだようなのねんよ。「あづみ」だと大問題だし~・・・(^^ ま、「朝廷」・・つまり「朝に開かれる会議」に出席できる「臣」「おみ」っちゅうようなところから来てるのかも知らんね~。ま、天武天皇さんの頃からの話しだけんどね~。この辺はね・・「兄弟統治」から来てるとも言えるかもしらんけんど、ちと説明がめんど~なんでスルーしまひょ~。


 ところで、中臣鎌足さんは不比等ちゃんの親御さんでね・・一応ね・・祭官中臣一門のトップっちゅうことで、

生誕 推古天皇22年(614年)
死没 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)

っちゅうことになっとるのねん。つまり、56歳ほどで亡くなったっちゅうことでんな。そして、元々は「中臣鎌子(なかとみのかまこ)」っちゅう名前だったのねんけんど、「鎌足(かまたり)」と改名・・・そして臨終の際に、天智天皇さんから「藤原」の名前をいただいた・・っちゅうことになってるのねん。ま、授業でフツーに習うようなことだけんどもね。

Fujiwara-Kamatari.jpg

WIKIからお借りしました~!

 でも、名前を変えるってね・・あんた・・・いや、アンタじゃない・・あんたよ・・「子」でも「足」でも良いじゃんの~?それに、自分の家系の・・少し前には、

「鎌子」

っちゅう方もいらっしゃったのねんな。


中臣 鎌子(なかとみのかまこ、生没年不詳)は、
飛鳥時代の豪族。欽明天皇の時代の連。仏教伝来に際して、これに強く反対した。

欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。天皇は仏像を礼拝する可否を群臣に求めた。大臣の蘇我稲目は礼拝に賛成したが、大連の物部尾輿と鎌子は反対した。天皇は稲目に仏像を授けて礼拝させたが、間もなく疫病が起こった。尾輿と鎌子は蕃神を礼拝したために国神が怒ったのだとして仏像の廃棄を奏上した。天皇はこれを許して、仏像は難波の堀江に流され、寺は焼かれた。
by WIKI



 この、前代の鎌子さんの話しも有名で、蘇我大臣稲目さんが推す仏教に反対して、中臣・物部陣営は異教を国内に入れまいとしたのねんな・・。ま、こりゃぁ・・良く理解できるのねん。

 でも、これって・・欽明天皇13年(552年)の話しでっしゃろ?・・中臣家は・・


真人--鎌子--黒田--常盤--可多能祐--御食子--藤原鎌足

と繋がってるらしいのねんよ。

真人--鎌子
   --黒田--常盤--可多能祐--御食子--藤原鎌足
っつうのも有るそうで・・。

 するってぇとなんだな・・ちょっと年代的には・・早熟な家系っつ~ことでんな~・・たかだか5~60年で4~6代、繋がっちゃうってのはね~。もっとも昔は10歳過ぎると元服、結婚っちゅうことになったらしいけんどもね~。


 でねでね・・鎌足さんの息子さんっちゅうのんが不比等ちゃんなんだけんども、実は彼は次男なのねん。長男が定恵さんっちゅう僧侶でね。小さいうちに唐に修行に出たんだと~。

「まんだ小さいのに・・大変だったのねんな~!」

 何しろ生まれたのが644年、亡くなったのが665年とされてるのねん。実は665年に唐から帰ってきて、その年のうち・・半年ほどで亡くなられたっつ~ことなのねんよ!定恵さん・・可哀想なのねん・・ありゃ??


「西暦665年って・・、あの倭軍が大敗した白村江の戦いの2~3年後じゃん?」

 僧なのよ・・いや、そ~なのねん・・。大体にして、そんな時にど~やって帰ってこれたのかね~。まだ戦争の賠償も完全には済んでおらんだろに・・。665年に長男の定恵さんが帰ってきてすぐ亡くなり、669年に鎌足さんも亡くなったのねんな~。

 実は定恵さん、653年の5月に遣唐使とともに唐へ渡ってるのねん・・。653年ったらアンタ・・彼はまだ数えでも10歳。今の小学生なら2年生か3年生でっせ?

 命懸けの航海でっせ?・・実際に第二船は往路で難破してしまったそうでね・・たどり着けんで海の藻屑になってしまったようだすな~。

「でも・・9歳で唐に行って・・どうすんねん?」

「祭祀氏族の中臣氏一門の長男坊が仏教僧ってどうやの・・?」
(ご先祖さん・・100年ほど前にお寺に火を付け、焼いてますから~・・)

「あの内大臣、大紫冠の中臣鎌足の長男でっせ?」

「それに帰国して半年で亡くなるって?」


 ね?おかしいだしょ~?時の人とも言える鎌足の長男さんがね~・・9歳、10歳で命懸けの遣唐使、しかも10年以上も唐にいて、やっと帰ってきたら半年で・・・ね?

 彼の定恵さんの俗名は 真人(まひと)と言うねんて・・。次男がふひとだから・・まぁ、ふぃいっか~・・でもさっきの中臣系図を見ると・・

真人--鎌子--黒田--常盤--可多能祐--御食子--藤原鎌足

だから~・・


真人--鎌子--黒田--常盤--可多能祐--御食子--鎌子--真人
---- ----                 ---- ----

 そうなのねん・・山本山みたいに・・逆から読んでもリフレイン・・しちゃうのねんよ~・・


「なんだこりゃ~?」


 でねでねでね・・・まぁ、「真人(まひと)」っつうのんは、彼の場合は名前なんだけんどもね~・・実は、


真人(まひと)は、
 684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である。基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。

 天皇の称号が道教の天皇大帝に由来するという説とともに、この「真人」も道教由来のものとする説がある。八色の姓のなかでは道師も道教の神学用語と重なっている。

 また天武天皇の諡(おくりな)の「瀛真人」(おきのまひと)は道教の神学では「瀛州」という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。
by WIKI


 そうなのねん。真人は天皇・皇子の子孫にのみ与えられる最高位の姓になったのねん。もちろん、定恵さんが生きてるうちにはそんなんは無かった・・・のねん。でも「真人」なのねん・・。ま、後付っちゅうことは考えられん訳じゃないけんどね~。


 しかもね・・その制度を創ったのが天武天皇さんでね~。

Emperor_Temmu.jpg

WIKIからお借りしました~!



なんと、彼の諡(おくりな)は・・

天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)

本名・・は、大海人(おおあまと)皇子

なのねん!

 天(あま)と海(あま)がしっかり韻を踏んでるのねんし、自身で制定した階級の「真人(まひと)」も亡くなってから入れてもらったし~・・言うこと無いのねんな~!・・万歳~!・・はいっ~?


「あれっ?」

 なんか、今回の記事は・・変でっしゃろ~?・・「アメタリシヒコ」の「アメ」とか「天 アマ」「海 アマ」、「アベタイフ」の「アベ」・・・「マヒト」「フヒト」、海・・大海・・大海人・・遣唐使・・大海・・難破・・神官が仏僧・・小学生が遣唐使・・そしてリフレイン・・

 そうなのよ~・・まひとがまひとでふひとはふひと?・・じゃぁ・・あまとは?・・・っつ~ところで・・・残念ながら時間切れなのねん!・残念でんな~!またその内に書くからね~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!






前世?






 ま~・・現日本人の大半は、何パーセントかにしても藤原氏の血を受け継いでるらしいのんで、倭人の話しなのか何なのか・・・判らんようになってしまうのねんが、例えファシレのおじさんの前世が不比等ちゃんだったとしても、そんなことは全く覚えてないし、男なんぞ結局意味が無いのんで~・・男系の血の継承がどうのこうのとわめいたところでね・・空しいだけなのねんよ。

 改めて飛鳥時代から平安時代の歴代天皇さんを見れば、この国が女帝の国だったか・・、乱れれば乱れるほど・・そして隠してもこの状態だったっちゅうことが判ると思うのねんな~。

飛鳥時代
第33代 推古天皇(592-628)
第34代 舒明天皇(629-641)
第35代 皇極天皇(642-645)
第36代 孝徳天皇(645-654)
第37代 斉明天皇(655-661)
第38代 天智天皇(661-671)
第39代 弘文天皇(671?-672?)
第40代 天武天皇(673-686)
第41代 持統天皇(686-697)
第42代 文武天皇(697-707)

奈良時代
第43代 元明天皇(707-715)
第44代 元正天皇(715-724)
第45代 聖武天皇(724-749)
第46代 孝謙天皇(749-758)
第47代 淳仁天皇(758-764)
第48代 称徳天皇(764-770)
第49代 光仁天皇(770-781)

 そして倭国・倭人を考える上で7~8世紀の最大のキーマンが不比等ちゃんなのねんが~・・中々尻尾を出してくれんのんで苦労せにゃならんのねん。難しいでんな~・・ほんまに~。


250px-Kamo-wakeikazuchi-jinja18n4272.jpg
WIKIからお借りしました~。


 美しい楼門でんな~!写真の腕も良い・・きっとカメラも後世能に違いないのねん・・。因みに前回のブログの写真とは違う神社だけんど・・とっても関係が有ると思われる神社ではあるのねん。

 この写真は京都の通称「上賀茂神社」、正式には「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」というねんで~。

by WIKI
賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代氏族の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。

 そう・・そんなもんで・・前回の記事の写真は通称「下鴨神社」、正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」の西本殿だったのねん。

1280px-Honden_of_Kamomioya_Jinsha_(43).jpg
これこれ~!
 何か、とっても異次元ぽい・・感じだよね~。

 でね・・・、この2つの神社・・いや、河合神社とかの摂社も含めるべきなのかもしらんけんども、上賀茂神社も下鴨神社も、元々はひとつの神社だったと伝えられてるのねん・・。事情が有って、時の権力によって分割されたらしいのねんな~。

 なんでこんな神社の話しをするかっつ~とね・・・、この神社はどうやら不比等ちゃんの事績の集大成として創られた可能性があるのねんな・・。

 まず・・下鴨神社なのねんが、東殿に玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母、 西殿に賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) - 玉依姫命の父 が祀られてるのねん。

 そして、上賀茂神社には当然ながら賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)でんな。

 で、この二つの神社は元は一つだったと・・なので~・・子供の賀茂別雷さんから見ると、賀茂建角身さん(祖父)と母の玉依姫さん、そして自分と、三代に渡って祀られてる神社だと言うことが判るのねん。・・ま、ダレでもそんなことは判るのねんで、

「賀茂氏(加茂氏)の神社だよね~!」

と・・ね~。


 でもね~・・、事はそんなに単純じゃぁ無いのねんよ。そりゃぁ賀茂氏の氏神を祀ってるのは間違い無いのかもしらんけんども~・・・実は・・不比等ちゃんは「賀茂氏」・・なのねん。判るよね~?・・ん?判らん~?


妻:蘇我娼子または媼子 - 蘇我連子の女
長男:藤原武智麻呂(680-737) - 南家祖
二男:藤原房前(681-737) - 北家祖
三男:藤原宇合(694-737) - 式家祖

妻:五百重娘 - 不比等の異母妹。もと天武天皇夫人
四男:藤原麻呂(695-737) - 京家祖

妻:賀茂比売 - 賀茂小黒麻呂の女
長女:藤原宮子(683?-754) - 文武天皇夫人、聖武天皇母

妻:県犬養三千代(橘三千代) - 県犬養東人の女
三女:藤原光明子(安宿媛、藤三娘)(701-760) - 聖武天皇皇后(光明皇后)、孝謙(称徳)天皇母
by Wiki



 これも前回の記事に記載したけんどもね・・・そう・・蘇我氏の娘さんも妻だけんども、賀茂氏の姫も妻なのねんよ。・・・つまり、不比等ちゃんが賀茂氏の出ではないとしても、賀茂氏に婿入りした形になってるのねん!だから・・少なくとも賀茂氏から見たら婿であることは間違い無いのねんな~。

 で、不比等ちゃんが氏神たる賀茂神社にどんな仕掛けをしたかっちゅうとね・・・あ、もう判ったよね~。そ~・・そうなのねんな~。

賀茂建角身さん = 不比等ちゃん(祖)
玉依姫さん = 藤原宮子さん (母)
賀茂別雷さん = 聖武天皇さん (子)

 ま~・・時の権力者の意向で分社されたとは言えね・・そうゆ~ことだったのねんな~・・・。


 でねでね・・これも良く知られたことなのねんが、天皇さんが即位の礼、大嘗祭をする時にはね・・必ず向かうのが、何と
賀茂建角身さんと玉依姫さんが祀られた下鴨神社なのねんな。決して伊勢皇大神宮では無いのねん・・。天皇さんはまんず伊勢には行かんのねん。下鴨に行くのねんよ。

 そして、最も重要な大嘗祭では、聖水沐浴、神人共食、御衾(寝所)秘儀を行うのねん。単純に言えば、沐浴して神とともに食し、一緒に寝るのねん・・・そうしないと・・いかんのねん・・

 ま、沐浴は宜しいにせよ、神人共食、御衾で一緒の神さんって・・どなたなのねん?・・

 単純に言えば・・そこに祀られてる賀茂建角身さんと玉依姫さん・・でんな・・?っつ~ことは・・判るよね~??


 それにね・・伊勢には斎宮、下鴨・上賀茂には斎院が有ったのねん。前にも書いたけんどね・・、どちらも処女の皇女さんが神さんのお世話をしてたのねん。伊勢は天照さん、賀茂は・・誰だっけ?

斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)
 は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。

斎院(さいいん)
 は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した斎王、または斎王の御所。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する。

 賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。

 伊勢神宮の斎王(斎宮)に倣い、歴代の斎王は内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入するが(角田文衞説では、斎院御所のあった場所は現在の京都市上京区櫟谷七野神社のあたりに相当するという)、この御所は地名により紫野斎院、あるいは単に紫野院とも呼ばれた。 斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に奉仕した。特に重要なのは四月酉の日の賀茂祭で、斎王はあらかじめ御禊の後上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行った。この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、清少納言が『枕草子』で祭見物の様子を書き留めており、また紫式部も『源氏物語』「葵」の巻で名高い車争いの舞台として描いている。

by WIKI


 ね~?・・凄いだしょ~?・・今の(もとい・・前の・・)天皇さんも下鴨神社に行かれて即位されたのねんよ~。勿論その時は斎王さんは居らんよ・・一応ね。


 でも、玉依姫さんっちゅうのんは、霊媒そのものみたいなお方で・・ま、交霊して降霊することが出来たはずなのねんな。そんな能力を秘めた名前でも有るのねん。


 斎宮、斎院の斎王さんには、そこまでの能力は無いとしてもね・・一緒に・・・おっと~、これはマズイので書いちゃいけんの~・・やめとこ・・。


 でねでねでね?・・ま、その下鴨で重要なことを儀式をして天皇さんになる訳なのねんが、一緒に食べたり寝たりする神様は・・勿論、加茂の大神・・ね。

 で、じゃぁ・・・不比等ちゃんはとりあえず脇に置いとくとして、賀茂建角身さんって、どんな方かな~?・・知ってた~?

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)
 は、日本神話に登場する神である。鴨建角身命とも。山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。

 『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。
  『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。

 賀茂建角身命には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主となる。
 建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産した。
by WIKI



 なんか、WIKI 引用ばかりですまんの~・・気が引けるけんども、文章が苦手なのねんでね~・・自分で組み立てられんのねん。

 ・・そう・・賀茂建角身さんって、凄い方だったのねん・・造化三神の一柱、神皇産霊尊(かみむすび)さんのお孫さんで、しかも「八咫烏(やたがらす)」さんだったのねん!・・(そ~ゆ~ことになってるのねん・・)

 あの初代天皇さん、神武さんを先導して長脛彦を負かした「ヤタノカラス」さんが「カモタケツヌミ」さんだったのねん!

「・・・あれっ?」

「ヤタガラスさんって、神武さんを勝たせたのよね?・・でも・・さっきの話しじゃ・・」


 そうなのねん・・。賀茂建角身さん = 不比等ちゃん(祖)、玉依姫さん = 藤原宮子さん (母)、賀茂別雷さん = 聖武天皇さん (子)・・・になってるのねん。どういうこっちゃ~?・・・いや、そうゆ~ことっしょ。不比等ちゃんが西暦700年ちょいの時にやったことは・・そうゆ~ことなのねん。この事績はまるっきり歴史から無かったことにされてるのねん・・。・・ん?気付かなきゃ~良いのよ~・・別にね・・ちっとだけ難しいから・・。はっきり書いちゃうのも気が引けるしね~・・。因みに不比等ちゃんのお墓は奈良市法蓮佐保山の鴻池古墳群の一部っちゅう話しだけんど、ど~かね~・・。


 それにね・・実は・・WIKIからの引用文には、かなり重要なことが書かれてるのねん!その後の時代に繋がってくることにね~。ある生物のことなんだけんどね~!・・・っちゅうところで時間切れ~!・・すまんの~・・いつも尻切れトンボで・・。そのまんま明かして無い部分はいつか書くからね~!じゃまた~、アディオ~ス!


プロフィール

NSY3

Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ブロとも一覧

aquarians

アギタの神が住む鎮守の森

山田貢司のどこに行くのか?バカボン一家
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。