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いにしえの女王国は健在だった?・・内親王さん、おせ~て?






 ま、どうしてもね・・・今の自分を取り巻く環境や、歴史の教科書で教わったことからの想像でしか、古代を想像するしか無いからの~・・・。結局は大きな「思い込み」をしてしまってね、大きく道を間違えてしまうのねんな~。まさに記紀の思う壺っちゅうことでんな~。

 でも、あの「アメタリシヒコ」が書記に斉明天皇さんとされる女帝さんで、ま、天智天皇さんが新羅に突き出したのか、自分で出頭したのかまでは判らんにしてもね・・

「・・・そっか~・・!アメタリシヒコは女性だったんだ~!」

っちゅうような、既成概念からとんでもなくぶっとんで離れてるような考え方をせんとね・・古代の倭人の世界は理解できんっと思うのねんな~。

阿 毎 多 利 思 北 孤
ā mĕi duō lì sī bĕi gū
阿 毎 多 利 思 比 孤
ā mĕi duō lì sī bǐ gū

ま、中国語の読みは(現代のだけんどもね)

「あ、めーい、たぉ、りー、しー、べぃ、くー」

みたいな感じなんだろうけんどもね~。漢字だけにね~・・そんな感じだよねん~。


 でね?・・アメタリシヒコは女性だったっちゅうこと(・・・もしくは女性でも有り得る?)に気付くとね・・・

「・・そう言や~・・卑弥呼さんの国は女首長の国だったっけか・・」

っちゅうことを思い出すのねんな。「さよちゃん卑弥呼」が生きた時代は西暦250年頃までで、その後は男王が立ったけんど国が治まらず、結局、さよちゃんの宗女の「トヨ」「イチヨ」が女王になって治まったと・・されてるのねんな~・・。

 あ、そうそう、さよちゃん卑弥呼が判らん方は、古い記事を読んでみてねん・・。

 でねでね・・?・・・っちゅうことはでんな・・、斉明天皇さんは女帝だったんだから・・・

「・・あれ?・・女王国の伝統は、もしかしたら・・・この西暦660年頃まで続いていた可能性もアリっすかぁ?」

っちゅうことにもなりかねんのねんな。(ま、実際は斉明天皇さんの660年まで・・どころじゃぁ無いのんねんけんどもね~)


「・・そうか・・推古、皇極、斉明天皇さんの系統って、女王国の・・さよちゃん卑弥呼の国の伝統?」


「・・そうか・・記紀は違う皇統を適当にシャッフルして挿入した可能性もアリ?」

っちゅうことにもね~・・・気付いてしまうのねん。


 ま、こんな感じに考えてみると・・宜しいかもしれんねんな。まずね・・、日本だぁ、倭国だぁ、私の系は倭人だから日本人だぁ・・・っちゅうような観念は、取り合えず捨てるべきなのねん。

 それとね・・・その頃の・・古代のね、半島とか大陸の東半分とか南洋とかに有ったと思われる国をね・・・、日本の中に置いてしまうのねんよ。・・ん?・・意味が判らんの?

 だからね・・大阪は百済、京都は新羅、奈良は秦国、筑紫は・・とかね・・。取り敢えずは適当で宜しおまんがな。

 で、例えば大阪は百済国だとするとでんな・・半島の百済と大阪の百済が同じ国なのねん・・。京都が仮に新羅だとすると、半島の新羅と京都が同じ国・・同じ王統が治めてるのねん・・。その上でね・・

「アジアに連合国家を創っていた!」

と考えれば・・そう遠くない答えだと思うのねんな~。・・ま、これは考え方ね~。理解の仕方っちゅうかね~。


 で、それを束ねるのが「大王(おおきみ)」でんな。それが、いつの間にか「天皇(てんのう、すめらみこと)」と呼ばれるようになったのねん。

 だけんども、記紀が書いてる「~天皇」は、連合国家の長たる「大王(おおきみ)」だとは限らんのねんな。あくまで、後で「日本」と名乗る小国だった国の立場と、不比等ちゃんたちが絶対~に隠したかったことを実現するために史実を捻じ曲げたり、作って語っちゃったりした部分が凄く多いと・・思うべきなのねんな~。

 だからね・・男王だとばっかり思ってたら、実は女王だったなんてのも有るだろうしね・・その逆も有るかもしらんよ~。何しろ、あの聖徳太子さん・・ま、この名前は後で祟りに怯えた不比等ちゃんの子孫たちが付けた尊称だろうけんど、彼もまた、さっさと死んでしまったことにされちゃってるしね~。ここは「可哀想な孝徳さん・・」を見てね・・。


 何しろ、この西暦600年代から700年代にかけては、一見するとね・・・たまたま女性の王様が何人か出ているように・・記紀を見てると思えるのねんな。ま、そのように見せてるのかもしらんね~。で、例えば・・

33:推古天皇592-628 在位36年
34:舒明天皇629-641 在位12年
35:皇極天皇642-645 在位3年
36:孝徳天皇645-654 在位9年
37:斉明天皇655-661 在位6年
38:天智天皇661-671 在位10年
39:弘文天皇671-672 在位1年
40:天武天皇673-686 在位13年
41:持統天皇686-697 在位11年
42:文武天皇697-707 在位10年
43:元明天皇707-715 在位8年
44:元正天皇715-724 在位9年
45:聖武天皇724-749 在位25年
46:孝謙天皇749-758 在位9年
47:淳仁天皇758-764 在位6年
48:称徳天皇764-770 在位6年
49:光仁天皇770-781 在位11年
50:桓武天皇781-806 在位25年

みたいになってるのんで・・、いや、記紀によるとだけんどもね・・・、赤い字が女帝さん、青い字が男帝さん・・なんで、18代のうち、8代が女帝さんなのねんよ。しかも重祚(ちょうそ)・・・一度退位してから返り咲くことだけんども、2人もおられるのねん。49代の光仁天皇さん、50代の桓武天皇さんを除くとね・・・なんと50パーセントの確率で女帝になってるのねんな~。

 上の表の在位期間を足すと210年、女帝さんが88年、男帝122年だけんども、例のごとく49代の光仁天皇さん、50代の桓武天皇さんを除くとね・・・男帝さんは86年になってしまってね・・なんと50パーセントを切ってしまうのねんよ・・。ま、実際に日数は数えてないけんども、88年間と86年間っちゅうのんは、在位年数を足すんじゃなくて日数の計算をしたら・・・もしかしたら・・・ピッタンコで50%かもしらんよ?・・


「・・ねぇ・・これって・・どういうこと~?」

 ね?・・びっくりだしょ?・・つまり、少なくともこの時代に限っては、記紀は50%の確率で女帝時代だったと記してるのねんよ。・・これって・・もしかしたら・・もしかした証拠なのねんかも・・・ま、今はまんだ言えんけんども・・


 そしてね・・もっとビックリしちゃうことが・・あるのねん・・。さっきの表を少し書き変えてみようっかなん?


33:推古天皇592-628 額田部皇女(ぬかたべ)
34:舒明天皇629-641 田村(たむら)
35:皇極天皇642-645 宝皇女(たから)
36:孝徳天皇645-654 軽(かる)
37:斉明天皇655-661 宝皇女(たから)
38:天智天皇661-671 葛城(かづらき)
39:弘文天皇671-672 大友(おおとも)または伊賀(いが)
40:天武天皇673-686 大海人(おおあまと)
41:持統天皇686-697 鸕野讚良(うののさらら、うののささら)
42:文武天皇697-707 珂瑠、軽(かる)
43:元明天皇707-715 阿閇皇女・阿部皇女(あへ・あべ)
44:元正天皇715-724 氷高皇女(ひたか)
45:聖武天皇724-749 首皇子(おびと)
46:孝謙天皇749-758 阿倍内親王(あべ)
47:淳仁天皇758-764 大炊(おおい)
48:称徳天皇764-770 阿倍内親王(あべ)
49:光仁天皇770-781 白壁王
50:桓武天皇781-806 山部(やまべ)

 どう?・・判る?・・そ、「あべ」さんが3代、実質2人もいらっしゃるのねんよ・・。阿倍・阿閇さん・・でんな。ま、一般には育ての親の姓や土地の名前をいただくっちゅうことなのねんから、決してなんの不思議も無いっちゃ~無いのねんけんどもね・・。でもね・・・

「阿倍内親王さんは凄いぞ~!」

 なにせね・・二度も天皇さんになっちゃってるしね~。しかも結婚してないっちゅうのねんよ?・・つまり、並み居る男の後継者をそっちのけにして処女で天皇さんになっちゃって、しかもその後に天皇さんになった男帝の淳仁天皇さんを廃帝して、また復帰しちゃうのねんから・・・すっげ~でしょ?・・阿倍内親王さん!

 だけんどもね・・・阿倍内親王さんって・・一人じゃないのよ・・

「♪♪・・一人じゃないってぇ~・・素敵なことね~・・♪♪」

 ん?・・いや・・ちっとね・・天地真理を歌ってみただけ・・「てんちしんり」ぢゃぁないのねんよ・・「あまちまり」ちゃんなのねん・・・いや、ここは天地に誓って真理なのねんけんども~・・って、どっちやねん!


孝謙天皇(こうけんてんのう、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))

は、日本の第46代天皇(在位:天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日))。父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。即位前の名は阿倍内親王。
by WIKI


 とね・・WIKIには出とるのねん。で、48代の天皇さんも同じ阿倍内親王さん・・でんな。・・でもね・・

 47代の淳仁天皇さん・・ま、阿倍内親王さん=孝謙天皇・上皇さんが、結局は貶めることになったけんども、淳仁天皇さんに娘さんがおられてね・・・山於女王(やまのうえのじょおう)さんっちゅうのんけんど、淳仁天皇さんが即位されるときに斎宮の斎王に卜定されてね・・即位とともに内親王宣下(ないしんのうせんげ)されて、彼女はなんと阿倍内親王(あべないしんのう)と呼ばれることになったのねんよ~!

 ん?ど~いうことかな~?・・

 阿倍内親王さんが「孝謙天皇」さんになって、譲位して上皇に、次の「淳仁天皇」の娘さんが内親王になるときに「阿倍」を名乗って阿倍内親王さんになって斎宮に行ったけんども、阿倍内親王だった、前の天皇さんだった上皇さんが天皇を降ろしてまた「称徳天皇」さんに戻ったっちゅうことで、阿倍内親王になってた山於女王(やまのうえのじょおう)さんはまた斎宮を辞めて戻ったっちゅうこと・・

「・・なんだそりゃ・・」

 阿倍っちゅう名前の内親王さんは、何か特別なものなのだっしゃろかいな~?と、思ってしまうよねん?

「阿倍=藤」

っちゅう話しもね・・以前に書いたしね・・・

 それに、なんちゅうても、結婚しないで天皇になった女帝さんと言えば、この阿倍内親王=孝謙天皇=称徳天皇さんしかおらんのねんよ・・。

 ん?・・いや、待てよ・・と。さよちゃん卑弥呼は結婚してなかったんじゃない?・・男がいたかどうかは知らんけんど・・孝謙天皇さんには道鏡さんっちゅう、スッゴイ人が居ったらしいけんどもね~。

 っつ~ことは、阿倍=卑弥呼の系統っちゅうことかいな?・・いや、そんなことは無い・・はず・・でも判らん・・っちゅうところで、この話しも時間切れなのねん!・・すまんの~・・いつも大事なところでタイムアウト、・・・しかも全てにおいてめちゃくちゃに中途半端!阿倍ちゃん、太子の話も今ひとつ~??・・すまん、またそのうちに・・・・さっすがファシレのおじさん!・・ちゅうことで、今回もグッジョブグッジョブ?で終わるのねんな~!・・これもひじょ~に残念~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!


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さらに可哀想な斉明さん・・・






 ま、これだけ「嘘」で塗り固められてるとは言え、嘘を言ってくれてることでね・・、本当のことが推測できるのねん。60年も前倒しで都合の悪いことを書いてくれたお陰をもって、「大化」と言う年号が鍵になってね、

「そうか・・・少なくとも日本書紀の言う年に大化の改新は無かった」

ことが判る・・・これは重要なことなのねんよ。

 だから、抹消しきれなかった文書や手紙とか、外国の歴史書が、とても重要な手がかりになってると言えるのねんな。聖徳太子さんも、646年に善光寺如来さん宛てに手紙を出していなかったら、622年に愛妻とほぼ一緒に死んだことに、後世のわし等も、何の疑問も浮かばなかったはずのねん。

 ま、これについては、「勝鬘経」は女人向けだから、「斑鳩厩戸勝鬘(いかるが うまやと しょうまん)」は女性だろう・・・のような推測もあるようなのねんがね・・。

「斑鳩宮の 号を勝鬘 と申す厩戸が上する」


っつう文章だと思うのねんで、年号が重要なのねんよ。

 命長七年は九州年号の命長、西暦646年・・・、そしてね・・その後に「干支」が書いてあって、丙午(ひのえうま)と有るから、間違い無いと思われるのねん。丙午(ひのえうま)の年は、その頃は西暦586年、646年、706年だからねん。

「聖徳太子さんは646年までは生きていたのねん!」


 残念だったね~・・不比等ちゃん!



 それにね・・おじさんはもうひとつ・・見っけちゃってるのねんな・・。これも重要なのねんが・・・、前回記事の「可哀想な孝徳さん・・」の次の天皇さんとされてる斉明天皇さん・・女帝さん・・のことでんな。皇極天皇さん→孝徳天皇さん→斉明天皇さんと続いて、天智天皇さんに繋がってくのねんが・・。

Empress_Kogyoku-Saimei.jpg

 この方・・でんな。


 皇極天皇(こうぎょくてんのう、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)は、日本の第35代天皇。在位は、皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)。

 重祚して第37代 斉明天皇(さいめいてんのう、齊明天皇。在位:斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日))となる。

 推古天皇から一代おいて即位した女帝である。

 諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)、または宝皇女。この諱の表記は一般化しているが、後世の尊称ともされる。

 和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。

 敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。

 はじめ高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだ。尚、この2人の詳細は不明。

 後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。

 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御する。皇后は48歳だった。

By WIKI



 つまり、舒明天皇さんの奥方になったけんども、11年ほどで天皇さんが亡くなり、自分が即位・・・、でも目の前で大臣の蘇我入鹿さんが自分の息子である中大兄皇子(後の天智天皇)さんたちに殺されたのにビックリして退位、叔父の孝徳天皇さんが即位するけんど、これまた中大兄皇子さんが悪さをして、孝徳天皇さんを一人ぼっちにしたもんで寂しくて死んでしまったから、また寶女王さんが重祚して第37代 斉明天皇になったと・・そして、白村江の戦いの直前の斉明天皇7年、661年に68歳で亡くなったとされてるのねんな~。

 状況が悪くなると宝皇女が登場するのが・・この頃の日本書紀の書き方なのねんけんども~・・状況を悪くしてるのは一体、誰なのかな~?

 ま、良い子の皆さんはもうご存知。(書記の言うような)入鹿さんは居らんかったし、孝徳天皇さんだって寂しく死んだんじゃぁ無いってことくらいはねん・・。天智天皇さんを美化するためにね・・桃太郎侍よろしく入鹿さんを斬り、大義を述べて倭京に帰っちゃったりを正当化したのねんけんど、実は・・もっと凄いことをやっちゃってるのねんよ~。


800px-Emperor_Tenji.jpg

 この方が中大兄皇子さん、後の天智天皇さんでんな・・。



 話は大きく跳ぶけんどもね・・三国史記の新羅本紀っちゅう史書が有ってね・・その文武王八年条っつうところに、めっちゃ凄い言葉が並んでるのねん。

 文武王さんっちゅうのんは新羅の第30代の王で在位661 ~ 681年、つまり、白村江の戦いで唐軍と一緒に倭国軍をメッタメタにした新羅側の張本人なのねん。「法興 無視して 法隆寺!・・の巻き」でも書いたけんど、酷い負け方をしたことになっちゅうねん。(でも彼の親父は日本にいたこともあるのねん・・)

 で、その文言だけんどもね・・こんな感じ・・いや・・漢字。

八年春 阿麻來服 遣元器與淨土入唐 淨土留不歸 元器還 有勅 此後禁獻女人

 ・・・いややわ~・・漢字ばっかりの文なんて、苦手なのねんな~・・けんどもね・・・。おそらくこんな感じの内容かと思うのねん。

 文武王8年の春に「阿麻」が来て服した。元器さんと淨土さんを唐に使いにやった。浄土さんは帰ってこなかったが元器さんは戻った。(唐の)勅が有った。今後女人を献ずるのは禁ずる。


 「阿麻」でっせ~?・・「あま」と読めるよねん?・・そうすっと、「アメタリシヒコって、誰やのん?」の記事に書いた「阿毎」と同じなのねん。漢字がちょっとだけ違う感じなのねん・・いや、漢字なのねん・・いや・・、違う感じ・・あれっ?


 ま、とにかくね・・アメさん、アマさんが、新羅に投降してきたってこっちゃねん。「だから偉いこっちゃ~!」と、唐の大親分のところに使いをやったのねん・・と。

「あの、どこにも見つからなかったアメタリシヒコが投降?」


 ね?・・ビックリだしょ~?


 でもね・・、こんなのにビックリしてると、この文章の本質に気付かんのねん。まだおそらく誰も・・気付いてないのねん。不思議なのねん・・何でなのねん?

 めっちゃ重要なのはそんな部分だけじゃぁ無いのねん・・最後なのねんよ!

「女人を献ずるのは今後禁ず、と言う勅が有った」

 ここなのねん!何で歴史家さんたちは気付かんかな~・・


 アマが新羅に来て服した。(負けたと言って平伏した)
          ↓
 (新羅王は)臣下2人を唐に送った。
          ↓
 今後「女」は贈るな!と言われた。



 ・・・そう・・なんと「アマ」は女人だったのよねん!唐に臣下を送っただけじゃなくて、連れてった・・・連行したのねん!だから、女を連れてくるな!と言われたのねん!

 そうじゃなかったら、こんな唐突で不躾な文章は生まれんのねん。女姓を献上するな・・に繋がるのは、「アメ(アマ)」についての文章なのねんな。もちのろん、新羅は美女奴隷献上外交をやってた歴史があるのねんけんどね。ソツヒコさんの話も、随分前に書いたよねん?



「(アメを連れていって)唐から帰国した。勅が有った。今後、女は贈るべからず。」


阿麻来服・・此後禁献女人


 どうだすか?・・ビックリだしょ~?・・・だけど、もっとビックリするかもしれんのねんで~?


 斉明天皇さんがお亡くなりになったのは、先にも書いたけんども書記によると西暦661年だすな~。先帝が亡くなったので皇太子が次の天皇さんになるのねんけんど・・その中大兄皇子さんはなかなか天皇にならずに、ずっと皇太子のまんまで 称制、つまり即位せずに政務を執ることを続けたのねん。

 でねでね?・・・、即位したのが天智7年1月3日、668年2月20日なんよ。


ん?


 Q.アメ(アマ)さんが新羅に出頭したのは?

A.西暦668年春

 Q.天智天皇さんが即位されたのは?

A.西暦668年2月20日

 Q.立春は?

A.2月の第一週ごろ・・

でんな。・・・あれっ?・・おんなじだすな~!(立春は、二十四節気の第1。正月節=旧暦12月後半から1月前半。)


「げげげっ!アメ(アマ)さんは皇極天皇重祚斉明天皇?」

「斉明天皇さんは亡くなったんじゃなくて新羅・唐に出頭させられた?」



 ひっで~!・・だしょ?・・そうなのよ・・・白村江の戦いで倭国軍が唐新羅連合軍に負けたもんで・・・いんや、その前から百済が滅亡したりして、旗色が悪いのを鑑みて、中大兄皇子は即位できなかったのねん。だから、先帝である(先帝っちゅうことにした)斉明天皇さんは亡くなったことにして、自分は即位せずに称制し続け、668年に新羅に斉明天皇さんを送ったのねん。全ての責任を「阿麻」さんにおっ被せて・・・。


 ま、昔は超美人だったかもしれんけんど、結構、良いお年になられていた宝皇女さん・・・唐に連れて行かれたけんども、

「(老)女はいらん!もう二度と贈ってくるな!」

と・・怒られたのねんな~。罪人として罪をなすりつけられて唐に送られた宝皇女さんも可哀想だけんど、唐の本人・・いんや、唐の天皇さんもね・・・何だかな~・・やるせないな~・・そうそう、唐の天皇さん・・



Gaozong_of_Tang.jpg

 この方がその時の唐の・・天皇さん・・だす。皇帝さんぢゃ無いのねんよ。天皇さん・・だす。

 高宗(こうそう)さんは、唐朝の第3代皇帝。太宗の第9子。母は長孫皇后。皇帝ではなく天皇の称号を使用したことでも知られているのねん・・by WIKI 参照

 だから・・、おそらく中大兄皇子さんは宝皇女さん(皇極天皇・斉明天皇)の息子さんなどでは無いはずのねん。息子だったら・・ひっで~・・だしょ?・・だけんど、息子である可能性も捨てられはせんのねんよ。こんなこと、日本書紀は・・書けなかったのねんな。


 ま、日本で最初に天皇を名乗ったのは天智天皇さんか天武天皇さんか・・・その辺で論争があるようなのねんけんど、唐の高宗さんに倣ったのねんな~。・・・しっかし、ホントひっで~話なのねん!宝皇女だけに「宝を献上した」つもりでおったのねんかぁ?・・


 それにね・・先帝に全ての責任をなすりつけて追いやり、ようやっと即位できる環境を創った天智天皇さんなんだけんどもね・・何と・・・・・・あら!・・もう時間が無い・・すまんの~・・いつも大事なところでタイムアウト、・・・しかも全てにおいてめちゃくちゃに中途半端!阿倍ちゃん、太子の話はどうなった~??・・すまん、またそのうちに・・・・さっすがファシレのおじさん!・・ちゅうことで、今回もグッジョグッジョで終わるのねんな~!・・これもひじょ~に残念~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!
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NSY3

Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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