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可哀想な孝徳さん・・






 西暦700年の前後100年・・・、つまり西暦600年~800年の日本は、物凄いことになっていてね・・。ま、群雄割拠と言うか、小国が沢山存在してて、その連合でようやっとひとつの国になってたのを、やっと一歩進んで「天皇」っちゅう・・、今で言えば大統領を置けるようになった時期・・なのねんな。

 それを、さも今まで(700年ごろまで)ずっとひとつの国で有ったし、万世一系で有ったようなテイを取って書いたのが「記紀」・・・っちゅうことなのねん。大陸の大国に飲み込まれないために、自分たちを守るために、そうしなきゃならん部分は有ったにせよ・・。

 だから、「記紀」の言うことを丸呑みしとりゃ・・・真実は何も見えて来んのねんな~。判るよねん?・・ある意味、状況は今もちっとも変わってないのねんよ。少し前までは車さえまともに存在せず、自転車だらけの大都会・・・道路を車も人も自転車も無秩序に走り回り、大昔に道徳の国と尊敬された国はどこにあるのかと思わずにはいられん共産国・・。金儲けのために本国を捨てて生産拠点をそっちに移した西側がそこで利益をむさぼれば・・ね・・、当然ながら潤った共産国は節操無く強い態度に出てくるのは、ちと考えりゃ~誰にでも判るこっちゃねん。あほやの~。


 ところで、孝徳天皇さんっちゅうお方がおられたのねん。・・ん・・唐突ですまんの~・・いつも!・・そう、蘇我入鹿さんが皇極天皇さんの目の前で殺されたとされる「乙巳の変」(いっしのへん・おっしのへん)の翌日・・だったか、即位したのねんな。ま、事実だったかどうだかはね・・後で書くけんどね。


孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))は、
 日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。

by WIKI



 でもファシレのおじさんは、蘇我入鹿さんは存在せんのよ~・・と、どこかのページで書いとるけんね。だから・・

皇極天皇4年(645年) 6月12日 中大兄皇子等による蘇我入鹿暗殺
   ↓
皇極天皇4年(645年) 6月14日 皇極天皇(女帝)譲位
   ↓
同日 孝徳天皇即位

 っちゅうような順番は、あり得んのねんな~。居るか居ないか判らん人が蘇我入鹿さんなのねんから、皇極さんは天皇さんを辞める理由も何も無いのねん。孝徳さんが天皇さんになる理由もソコには無いのねん。


 とりあえず、ま、記紀の言うところに従えばねん、孝徳天皇さんは大化元年(645年) 6月19日 - 史上初めて元号を立て、大化元年とした・・っちゅうことなのねんけんど、大化と言う年号は九州年号でね、本当は大化元年は西暦695年が正解なのねん。だから60年も前にズラしてあるのねん・・。だからわし等が知っとる大化の改新は無かったのねんよ。記紀がそうしたのねん・・でも・・何で~かねん?


 孝徳天皇さんは、西暦645年から654年までの10年間、天皇さんだったのねんけんど、記紀によるとね・・、あの蘇我入鹿さんを皇極天皇さんの目の前で暗殺した中大兄皇子、つまり後の天智天皇さんに虐められてね・・死んでしまったとされてるのねんよ。そのクダリをWikiから引いてみると~・・


 孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。

by Wiki



 皇太子っちゅうのんは中大兄皇子(後の天智天皇さん)で、皇祖母尊っちゅうのんは前の女帝の皇極さん、皇后さんっちゅうのんは間人皇女(はしひとのひめみこ、父は舒明天皇、母は皇極天皇)さんだすな。

 ちなみに孝徳天皇さんは皇極天皇の弟・・とされてるのねんけんど・・うそ臭いでっしゃろ~?・・どんだけ血が濃いのねん!・・ってツッコミ入れたくもなるのねんよ。・・・いんや、ツッコミ入れるところはソコでは無いのねん!アソコなのねん・・ん?・・いや・・エロでは無いのねん・・ありゃ・・なんじゃ?


 つまりね・・皇太子である中大兄皇子さんは、孝徳天皇さんの母とカミサンと腹違いの弟を連れて、倭京に帰ってしまったと・・・孝徳天皇さんを一人ぼっちにしたと・・書いてあるのねんよ。で、孝徳天皇さんは寂しくて死んでしまったと・・・。

「・・・んな訳、有るかい!!」


 ね~・・アホでっしゃろ~?小学生でも判るウソを平気で白々しく書いとるのねんな・・。・・いや、良い子の小学生たちにも失礼だし、幼稚園児的な争いなのねんよ。

 本当に万世一系、日本を支配している天皇さんなら、

「廃太子」

でもすりゃ~え~のねんよ。もしくは、誰かに命じて取り返すか、皇太子を召し取れば良いのねんな・・。・・ま、まじめに考える方がアホらしいけんどもね~。


 つまりでんな・・・、記紀に書いてあることが事実を多く含んでいるとするなら・・、

「中大兄皇子さんの謀反」

なのねんな。つまり皇祖母尊さんと皇后さん等は人質にされたっちゅうこっちゃねん。そんでね・・難波に居った孝徳天皇さんを・・

「中大兄皇子さんが攻め殺した」

のねん。


 ・・「記紀」は、これを書きたく無かったから・・、存在しない「蘇我入鹿」さんを「乙巳の変」で殺したことにしたのねん・・。大化っちゅう年号を60年も前に遡らせて、さも大化の改新を孝徳天皇さんがやって、それを皇極天皇さんが重祚(ちょうそ)して斉明天皇さんになって、その後を天智天皇(中大兄皇子)さんが引き継ぐ・・っちゅう、綺麗な形にしたかったのねんな~・・・。それに、本当に孝徳さんの前の皇極天皇さんは即位してたのかどうかさえも・・怪しいのねんよ。


「善光寺文書」

         御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
    命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上



 これは善光寺に伝わる手紙でね・・斑鳩厩戸勝鬘っちゅうお方が、

「自分の健康はどうにもならん・・何とかしてくんろ」
と、黒木臣さんを使いに出したっちゅう・・内容でんな。

 で、何が問題かっちゅうとね・・この日付でんな。

 命長七年・・っちゅうのんは九州年号でね・・、実は西暦646年なんよ。孝徳天皇さんが即位した645年を記紀の言うのが正しいとすりゃ・・・その前年っちゅうこっちゃねん。

 それにね・・斑鳩厩戸勝鬘(いかるが うまやと しょうまん)・・でっせ?・・・えっ?・・「誰って言う?」

 斑鳩宮を創ったとされるのは・・聖徳太子さんでんな。厩戸皇子さんっちゅうのんは・・聖徳太子さんでんな。勝鬘(しょうまん)経を書いたとされてるのは・・・聖徳太子さん・・でんな・・。


「えっ?・・聖徳太子さんは622年に亡くなられたことになっちゅうのに~?」


 ・・・そうなんよ・・。聖徳太子さんが亡くなられたんは西暦622年では無い・・と思われるのねん。この手紙を出した後、646年中に亡くなられたと・・その後の九州年号から・・推るのねん・・。記紀は聖徳太子さんも、さっさと亡くなられたことにして、蘇我入鹿さんを皇極天皇さんの前で暗殺したことにしたのねん。


「・・・ひっで~・・・!」

・・だしょ?

640px-Umayado_Miko.jpg
聖徳太子さん


 ま、だから、聖徳太子さんはさっさと亡くなったことにしなくちゃぁ話が繋がらないのんで・・・推古天皇さんを即位させて、聖徳太子さんはその摂政っちゅう立場にしたのねんな。その後を舒明天皇さん、皇極天皇さんと繋げて乙巳の変・・でんな。で、苛めて死んじゃった孝徳さんの後を皇極天皇さんが重祚(ちょうそ)して斉明天皇さんになったっちゅうことにしたのねん。

 で、中大兄皇子さんが存在しない入鹿さんを殺し、世の中を綺麗にしたんだよ~・・・などと書いたのねん。正義の味方だったのねんよ~・・と・・ね。

 でもね・・違ったのねん。それに聖徳太子さんはね・・・・・あら!・・もう時間が無い・・すまんの~・・いつも大事なところでタイムアウト、・・・しかも全てにおいて大いに中途半端!阿倍ちゃんの話はどうなった~?・・すまん、またそのうちに・・・・さっすがファシレのおじさん!・・ちゅうことで、今回もグジョグジョで終わるのねんな~!・・これもひじょ~に残念~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!









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阿倍比羅夫さんはスーパーマンか?水戸黄門か?






 阿倍さんと藤さんが、もしかしたら同じ根っこの方々だっちゅう・・ような、非常に曖昧だけんどもビックリしてしまうような伝承が有ってね・・。しかも、さも真実であるかのように、神社の由来とかご祭神、もしくは地域の芸能としても残ってるっちゅうことは、現代に生きるわし等ももう少し・・

「おツムを激に柔らかくして考えんと~・・」

いかんと思うのねんな~。


 ま、神社のご祭神にしても時の権力のご威光で、いか様にも変えられて来たのが現実だったのかもしれんけんど、

阿倍=藤

なんちゅうような、誰もが想像しない組み合わせを今の今まで許してきた・・っちゅうね・・その辺にカラクリの糸口が有ると思うのねんよ。何しろ、阿輩雞彌 でやんすから・・。この文字、好きなように読んでくれて構わんけんども~!


 で、姉さん・・いんや・・阿倍さんね・・。色々な阿倍さんはいらっしゃるけんど、この方も有名でんな~。

Abe_no_Hirafu.jpg


阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)

 は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。658年から3年間日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

出自
 阿倍氏は古くから越・北陸道方面の計略で活躍した氏族である。複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである。

 中央出身説は、当時の国司が中央豪族から派遣されていたことを根拠とする。

 比羅夫の父親の名は必ずしもはっきりしないが、各種系図(「阿倍家系」(『備後福山 阿倍家譜』所収)、鈴木真年『百家系図稿』巻5,阿倍)では、阿倍氏の宗族である目とするものが多い。しかし目は敏達朝の人物であり時代が合わず、さらに前述の系図は比羅夫の子孫に伝わったものと想定され、比羅夫の系統を阿倍氏の宗族に位置づけようとした意図が考えられることから、比羅夫を目の子とするのは疑問とする。また、阿倍氏の庶流にあたる阿倍浄足とする系図もある。

 一方、太田亮は越国守であることを根拠に越国造家の一族の可能性を指摘している。

 なお、『日本書紀』で比羅夫の活動を記す部分は、当時の阿倍氏宗家(阿倍御主人の布勢氏)が提出した家記によると推定されているが、「阿倍臣(名を欠く)」と人名は記されていない。歴史学者の坂本太郎は、書紀編纂時の阿倍宗家が引田氏を快く思わなかったために、敢えて名を隠して阿倍氏の活躍とだけ記した史料を提出したのではないかと推定している。

by WIKI


 比羅夫さんはね~・・記紀じゃぁ、すっごい強い将軍さんだったと書かれててね。658年には蝦夷(北海道)、粛慎(樺太)を平定したと言われてるのねんよ。・・そうそう、ちょうど白村江の戦いの前のことでんな~。そして、662~663年に白村江にも参戦した後、行方が不明になってるのねん。

 でもね・・ただの将軍さんとは思えんようなこともやっとるのねんな。江戸時代なら誠意大将軍・・・いんや、征夷大将軍様みたいなものでっしゃろかな~。何とね、エミシたちに「姓」を与えたり、「官位」を授けたりしちゃってるのねん!それにね・・・平定した土地には郡領を造っちゃったりね~。


「お~い!・・勝手に官位なんぞ、エミシたちにあげてみちゃっても・・いいかな~!?」

「いいとも~♪」

 と、天皇さんがおっしゃったかどうだか判らんけんどね。もう何でもアリの世界なのねんよ。まるで天皇さんに成り代わってね・・神武天皇さんの東征ならぬ阿倍さんの北征なのねんな~。


 でもね・・そんな超バイタリティを持つスーパーマンとも言えるような阿倍比羅夫さんについて、日本書紀は冷たいのねんよ。日本書紀が完成したのは720年やけんども、たかだか50~60年前のことなのに・・

「阿倍引田臣・・名前は・・すまん!忘れた!」

とね・・。


「お~い!・・(本当は知ってるけんども)勝手に名前削ってみちゃっても・・いいのかな~!?」



「いいとも~♪」


と、不比等ちゃんが言ったかどうだか判らんけんどもね。もう何でも「おっけ~」の世界なのねんな~・・記紀は。


「大事ない。良きに計らえ・・」



ちゅうことなのねんな、きっと~。


 で、ちょっくら年表を書いてみるとね・・

斉明天皇4年(658年)4月 - 蝦夷に遠征する。
斉明天皇5年(659年)3月 - 蝦夷国を討つ。
斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎を討つ。
斉明天皇6年(660年)5月 - 夷50人余りを献じる。
中大兄皇子称制(後の天智天皇 662年)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向う。


 っちゅうのんが、一般的なもんで、その後の足取りは無いのねん。大宰府の長までやった高官の、親もよう判らんし、消息も判らんっちゅうのねんよ?・・んな訳、有るかいな?


 つまりね・・・書けなかったっちゅう・・ことじゃね~すか?


 37代の斉明天皇さん・・女帝さんでんな・・この時代に活躍したのが、この阿倍の比羅夫さん。その後はね・・

37代 斉明天皇655-661
38代 天智天皇661-671
39代 弘文天皇671-672
40代 天武天皇673-686
41代 持統天皇686-697
42代 文武天皇697-707
43代 元明天皇707-715
44代 元正天皇715-724

と皇統は続くのねん。で、43代の元明天皇さんの時に古事記が、44代の元正天皇さんの時に目出度く日本書紀が完成したのねん。


 でねでね・・この44代の元正天皇さんっちゅうのんが、女帝さんなんだけんどもね・・若いときのお名前がなんと・・

「阿部皇女(あべのひめみこ)さん」


 ありゃりゃりゃりゃ~・・・やっちまったな~?・・Wikiを調べるとね・・

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))
は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。

天智天皇の第四皇女で、鸕野讚良皇女(持統天皇)は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である。珂瑠皇子(文武天皇)と氷高皇女(元正天皇)の母。
by WIKI



 となっててね・・血族的にはあんまり阿倍さんちとは関係無いのよねん。ま、これにはちゃんとした表向きの理由が有ってね・・皇族の幼名は乳母の家に関係した名前(土地・姓由来)が付くことが多い・・っちゅうもんでね・・、何の不思議も無いっちゅうことになってるのねん。それに、阿倍 御主人(あべ の みうし)さんっちゅう、阿倍本家ともされてる右大臣までやられた方もいらっしゃってね。右大臣家で育てられた可能性も有るのねんよ。


 そんな風になってくるとね・・阿倍=藤・・が、ただもんじゃぁ無くなってきてしまうだしょ?・・それにね・・そんなに激強い歴戦連戦連勝の阿倍の比羅夫さんが、大錦上で大宰府の長もこなした比羅夫さんが、白村江の戦いの後の消息が不明なんて・・あり得んのねん。「大敗して誰かに切られて死んだ」とも「火災を起こして沈没した船に乗っていた」とすら・・書かれてないのね。そりゃぁそうだ・・。朝鮮半島に戦いになんて行ってないのねん・・。行くはずが無い・・実は・・阿倍の比羅夫さんは・・

「別人としてすでにこのページに登場している!」

のねんよ!


 さ、そうなってくると、その別人っちゅうのんは誰か?・・っちゅう話しになってくるのねんけんども・・・あら!・・もう時間が無い・・すまんの~・・いつも大事なところでタイムアウト、・・・しかも全て大いに中途半端!・・さすがファシレのおじさん!・・ちゅうことで、今回もグッダグッダで終わるのねんな~!・・これもひじょ~に残念~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!





塵輪 って・・何~?






 倭人探求の旅も佳境に入ってきた感じではあるけんども、肝心要な部分がどうもね~・・。ただ、少なくともね・・・日本っちゅう国は単一民族の和族・・っちゅうようなんは、無学なわし等が無慈悲なお上から押し付けられてきた上での、結果としての幻想に過ぎんのねんな。

 ま、今のところ判っている部分においては、最果ての地に流れ込んできた民族の集合体が「日本人」っちゅうことであって、決して単一民族ではあり得んし、皇統も万世一系とは言いづらい・・っちゅうこっちゃね。

 ただし、これは日本に民が大挙して流入してきた時期の、人類の歴史から言えばほんの短い期間の話しでね・・ま、短いったって3千年位だけんどね・・・その前のことは判らんよ。まんだそれ以前の考察にはファシレのおじさんは全然たどり着いてへんのね~。

 本ブログの本線ブログ、バカボン一家の山田さんはかなり昔の時代の記憶で、大陸を駆け抜けて(たぶん)日本でジタバタしてたときの記憶があるそうなんで、しっかり思い出して貰えるのなら、ファシレのおじさんもこんなに苦労はせんでも良いんだけんどね~・・辛いのぉ~。


 前回のブログでは、「藤原部(ふじわらべ)」っちゅう部民が允恭天皇(いんぎょうてんのう)さんの時代にすでに有って、衣通郎姫(そとおりのいらつめ)さんの話しをしたと思うのねんが、実はこのお姫さんは、

藤原琴節郎女(ふじわらのことふしのいらつめ)

と同じ方と言われてるのねんな。


 ま、そうは言ってもね、あの不比等ちゃんとそのご一党さんが絡んどることなもんでね、記紀や風土記、社記を操作して有ること無いこと差し込んだ・・・っちゅうことも考えられるけんども、実際に700年代には、藤原部は葛原部(クズハラベ)に強制で姓を変えられとるし、実際に関東で藤原部さんたちの記録が発見されとるのんで、まんずそこは嘘とは言えんのかな~と思うのねんよ。ま、なんでもクズっちゅう名前にしてしまうのねんよ・・お得意なのねん。彼らにとっては大国主さんも・・きっと大xxなのねん。

 だから、「藤原」の名前も、中臣の鎌足さんの時に、いきなり生まれたんでは無いと・・取り合えず思っていただけると良いかな~と思うのねん。


 ところでね前回だか前々回・・・阿輩臺 は「あべたいふ 」と読み、阿輩雞彌 は 「あべきみ」と読むと書いたけんどもね・・・。もし 阿輩雞彌 を 「あふきみ」「おおきみ」「おふきみ」と読むなら、それはそれで構わんけんども、じゃぁその場合に 阿輩臺は何と読むのか教えて欲しいのねんな。たぶん意味が通じなくなるはずだし、矛盾につながるはずなのねんよ。でも・・なんでそんなことになっちゃうのかね~。

 それは、記紀が都合の悪いことは全て書いてないから・・なのねん。あくまで、倭国の代表・・っちゅう立場は取ってるけんども、結局素性は近畿の小国に過ぎんのねんでね。天皇さんとして神武さんから持統さんまで贈名で書き連ねていてもね、倭連合国王たる本当の倭王のことは、関連することまでをほぼ書いて無いのねん。知ってることも書いてない・・都合が悪いからね。

 でも、書かないとどうも都合が悪くてね、書かざるを得なかった天皇さん・倭王さん、もしくはそれに通じるお方を、記紀は書いてるのねんよ。それが・・・

開化天皇さん

と呼ばれるお方でんな。



開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、
 『古事記』『日本書紀』に記される第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおびびのみこと)・若倭根子日子大毘々命(古事記)。

 「ヤマトネコ」という称号は7代孝霊・8代孝元・9代開化、少し離れて22代清寧の諸天皇(『古事記』)にみえ、『記・紀』の編纂が最終段階に入った7世紀末から8世紀初めに存在した持統・文武・元明・元正の諸天皇(『日本書紀』・『続日本紀』)の称号にもみえる。このことは、7,8,9代の天皇の称号を、後世の『記・紀』編纂最終段階に存在した天皇の称号に似せて造作したのではないかという疑義が提出されている。

いわゆる欠史八代の一人で実在しなかったとされる天皇であるが、実在説もある。

by WIKI



 一般的に「欠史八代」と言われる天皇さんたちには、まぁ・・ここぞとばかりにいい加減なことばかり書いて、わし等を混乱させてくれる記紀だけんども、そんないい加減な部分にこそね・・ヒントが隠されてるのねんよ。

800px-Miyajidake_shrine_2009_A.jpgクリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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 いや~・・・すんばらしい・・立派な神社でんな~。行ったことは無いけんど・・是非一度!・・この神社は宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)と言ってね。福岡県福津市にあるのねん。神功皇后が主祭神で、勝村大神・勝頼大神を配祀するらしいのねん。

< 因みに、神社のあの注連縄みたいなのんは、「あらはばき」っちゅう名前で呼ぶ土地もあるのんねんで~。>


 神功皇后さんはご存知かな~?あの応神天皇さんをお腹に宿したまんま、新羅に行って喧嘩してきた女帝さんなのねん。そして、勝村大神さんと勝頼大神さんは、彼女の優秀な部下・・っちゅうことになっとるのねんよ。

「はぁ?・・どこが開化天皇さん、関係あるのねん?」

「開化さんは9代、応神さんは15代で・・つなげるのは無理じゃね?」

 と思うかもしれんけんどもね。大丈夫なのねん。安心してちょ~。


 実はね、この宮地嶽神社のご祭神は、今は神功皇后さんっちゅうことになっとるけんどもね。昭和の初期までは、なんとね・・

阿倍丞相(あべのじょうしょう)

とされていたのねんよ。ネットを探すとまだその写真が見つかるのねん。阿倍亟相 になっとるかもしれんけんどもね。きっと、「阿倍丞相じゃ駄目」と上の方から重いものを持たされたのねんな~。・・まだやってるのねん・・。コリン星書くでんな~・・・ありゃ、懲りん政客・・いや、懲りん性格・・何でも宜し!


「あれ?・・あべさんだ~!」

そうなのねんよ。この方も「あべきみ」なのねん。ありゃりゃ~のりゃ~♪なのねんな。


 で、色々と調べてくとね・・・どうやら阿倍丞相と言われたお方は、開化さんらしいのねんな。でもこの辺りは極秘事項らしくてね・・掘り切れはせんのねんけんど、開化天皇さん、神功皇后さん、応神天皇さん、の絡みはもう詮索しないのねん。だけんど、それ以外の部分が、かなり面白いのねんよ~。


 阿倍君が出てきたところで、かの宮地嶽神社の両脇で主祭神を守るように配祀されてる勝村大神・勝頼大神なんだけんどもね・・。これがまた凄いのねん。

 じつは、勝村大神 の本名とされるのが「藤高麿(ふじのたかまろ)」さん、勝頼大神が藤助麿(ふじのすけまろ)さんなのねんよ。・・・そう、藤氏(とうし)と同じなのねん。不比等ちゃんと同じ「藤」なのねん!

 こうなって来るとね・・阿倍さんと藤さんはただならぬ仲だっつうことになってしまうのねんが、ま、一応、こんな話しも伝わってるっちゅうことを書いておかんといかんかな~?

800px-Iminomiya_Shrine_in_Shimonoseki.jpg


 こちらは山口県下関市にある忌宮神社(いみのみやじんじゃ)。仲哀天皇(神功皇后の夫)が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡とされてるのねんが、この地方には不思議な言い伝えがあるのねんよ。それが、

塵輪(じんりん)

伝説・・でんな~。


Iwamikagura2.jpg


 以下のサイトに石見神楽(いわみかぐら)のサイトがあるのんで、ペースト・コピーで読んでみて頂戴なのねん。なかなか・・凄いでんな~!お神楽にまでなって残ってるのねん・・いや、残したのねん・・ん?・・残っちゃった?・・もう、何でも宜し!(・・でもこんな所にも実は全然別件のヒントがあるのねんけんど・・つまり、仲哀天皇さんのお宮ね~・・わざわざ畿内から出て来たと書いてるけんどもね~・・)

http://iwamikagura.jp/modules/iwamikagura_db/content0017.html


 要約するとね、塵輪(じんりん)っちゅう新羅の空飛ぶ巨大な化け物が熊襲(くまそ)を煽動して豊浦宮に攻めて来たんだと。そして、仲哀天皇さんが何とか矢で射て勝ったのねんが、宮を守ってた阿部高麿さんと弟助麿さんが塵輪に殺されてしもうたのだと・・。


「・・・あれっ?」


 そうなのねん・・・またまた阿倍さんの出番だったのねん・・・。でも、今度は藤高麿さんじゃぁないのねん。阿部高麿さん・・なのねん、阿部助麿さんなのねん・・

「あれあれ?」

でっしゃろ?


村大神(かつむらたいじん) = 高麿(ふじのたかまろ) = 阿部高麿 (あべのたかまろ)
頼大神(かつよりたいじん) = 助麿(ふじのすけまろ) = 阿倍助麿)あべのすけまろ)

でっか~?・・・じゃぁ、阿倍丞相(あべのじょうしょう)さんとのつながりはどうなっちゃうのかな~?

 で、丞相をWIKIで調べるとね・・

 丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代、秦王朝、漢王朝において、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。

 古代中国では、丞相が2名置かれることがしばしばあった。この場合「右丞相」「左丞相」と呼ばれ、王朝によってその上下関係に違いがある(王朝によって、右を尊ぶか左を尊ぶかが異なる)ものの、一方が正丞相、残る一方が副丞相となった。なお、宦官がこの官職に就く場合は、中人(宦官)の丞相ということで「中丞相」と呼ばれた。



 ま、丞相っつうのんは、漢の時代の総理大臣、もしくは太政大臣っちゅうことでんな。だから王じゃないのかも・・しれんね~。諸王では有っても大王では無い・・・のかもしれん。で、その大王が「倭王」・・阿倍丞相は総理大臣だから倭王ではない?・・・


 そう、だから丞相が開化天皇さんだとしても「倭王」では無い可能性が高いのねんよ。つまり、

「倭王の情報は日本には一切残ってないのねん!」

 そう・・不比等ちゃんたちが全て消し去ったのねん!残念でんな~!・・せっかく 阿倍=藤 まで来てね~・・その先までは堀り切れんとは・・。ま、でも日本に情報がなければ海外から得れば良いのさ~!・・・大丈夫~!・・かもしんない~!・あら!・・もう時間が無い・・すまんの~・・いつも大事なところでタイムアウト、・・・しかも全て大いに中途半端!・・さすがファシレのおじさん!・・ちゅうことで、今回もグダグダに終わるのねんよ~!・・これもひじょ~に残念~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!




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NSY3

Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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