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ついに不比等ちゃんの着物の裾を捕まえたぁ~?






 いきなりね~・・アメのタリシヒコさんが「阿部」さんだなんて言われたってね~・・・そんなもん、

「・・・は~?」

みたいな反応しか無いのは判っちゃいるのねんな。

 ま、ただね・・・、ファシレのおじさんの気持ち的にはね・・、

「阿輩雞彌」=「おおきみ」

を、そのまんま信じるわけにゃ~、いかんのねんな。


 ま、「雞彌」は「きみ」で良いのねんけんども、「阿輩」は、「あへ」「アペ」「あべ」「あべい」でしか無いと思うのねんな。相手は日本人じゃ無いんだからね~。「音(おん)」で当てはめるんだからね~。


 それにね・・これが書かれた隋書は636年に完成したものだけんど、実はこんなのもあるのよ~。


俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎
(倭王は小德の阿輩臺を遣わして従者数百人儀仗を設け・・・)

 (ま、倭王か俀王かは・・とりあえず放っておいて・・と)


 この中の「小德阿輩臺」を「大河内直糠手・難波吉士雄成

としている岩波文庫が現状、正解・・とされてるようなんだすな~。


 小德(ことく)っちゅうのんは冠位十二階の階級・・でんな。これ以上には「大德」しかおらんのんで、かなりの大物っちゅうこと。


 冠位十二階は604年ごろに制定されたことになっちゅうけんども・・なんだかな~。ま、それは良いにしてもね・・阿輩臺さんを大河内直糠手(おおしこうちのあたいあらて)さんたちに比定するなんてね~!何かな~・・ちょっと作為を感じてしまうのねんな~。言いたいけんど言えない・・言えなかったっちゅうことなのかな~?


阿輩臺 = 大河内直糠手 ??


 ありえんだしょ?そんなん・・。どの文字、発音も合ってない。これはおそらくだけんど、あちらのお方たちは・・


「あべたい」

と書いたはずなのねんよ!

「臺」=「台」

 邪馬臺国の「たい」やんけ~?違うかな~?


 おそらくなのねんが、「阿部大夫(あべたいふ)」・・と名乗ったんだしょな~。最後の「ふ」が聞き取れなかったんだと思うよ~。


 大夫(たいふ)は、「公式令」の規定では太政官においては三位以上、寮においては四位以上・・とされてるのねん。しかもね・・このことは日本書紀にもちゃんと書いてあってね・・

 難波吉士雄成、中臣宮地連鳥摩呂、大河内直糠手、船史王平、額田部連比羅夫、阿倍鳥臣、物部依網連抱 さんたちが出迎えたと・・つまり、


阿輩臺 (あべたいふ) = 阿倍鳥臣(あべのとりおみ) = 阿部大夫(あべのたいふ)

なのねん!

 だから・・


「阿輩雞彌」



「阿部王」「阿拝君」「阿閉王」「安比王」「安日王」・・etc.


 となるのだよ・・どうだね!明智君!わはははは・・


・・なんのこっちゃ・・


 ま、阿部さんか安日彦さんか・・判らんけんどね~。その頃の倭王さんはとりあえず「あべ」さん・・っちゅうことで。安日彦さんだと、またまた面倒なことになっちゃうのんでね~!!



 因みに話しは大きく跳ぶけんども、不比等ちゃんのお着物の裾、何とか捕まえた感じなのねんよ・・。ただし、まだね・・確証が無いっちゅうか、いや、「まだ・・」もクソも無いけんどね。


 それは19代の天皇さん、允恭天皇さんに絡んだ部分なのねんな。


允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)
は、第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。
by Wiki


 ま、年代は中々比定するのが難しいけんども、「26代の継体天皇さんよりは前のこと(西暦500~530年以前でんな)になるかな?」っちゅうことでんねんな。


 この允恭天皇さんの皇后さんやお后さんが中々に興味深いことになってて、

 皇后さんは「忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)さん、お妃さんが「弟姫(おとひめ)」もしくは「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」さんなのねんが、この二人はなんと姉妹なのねんよ!姉妹で嫁いだことになってるのねん。弟姫さんって、あの竜宮城の乙姫さんかもよ~!


 でもね・・やっぱ、女の嫉妬っちゅうもんは怖いもんでね・・。妹が超美人だったらしくて、姉の皇后さんが怒り狂ったらしいのねん。


「・・・あんた!・・あたしの妹んとこばっか行ってて、ちっとも世継ぎが出来ないじゃないのよ~!キーッ!!」


 みたいなもんでっしゃろか・・。


 いんや、実際は子供が出来たもんで、その隙を見計らって~・・セコセコと妹のお后さんの衣通郎姫さんのところに通ったらしいのねんけんど、それがバレてね・・産屋に火を付けた!・・なんちゅう話しも伝わってるのねん・・。

お~・・怖っ!


 でね、天皇さんもさすがに怖くなってね・・衣通郎姫さんのために大和の村に新しい家を建てて囲ったのねんな。(藤原宮ね・・いや、藤原京じゃ無いす。別もんなのね~。)で、彼女の為にあちこちの国造たちに命じて御名代(みなしろ)を創ったのねん。彼女のための部民・・でんな。この部民っちゅうのんは、彼女の為に食料とか着るものとかを供出させるっちゅうか、お世話をする連中なのねんよ。それが部民・・。

 でね、その名前が何と・・・

藤原部(ふじわらべ)」

ちゅうねんで~!


 ま、藤原っちゅう名(うじな)が西暦500年よりずっと前にすでに有ったっちゅうこと・・そして、それが天皇さんと絡んでたっちゅうことでね・・・しかもね~・・かなりの・・あら!・・もう時間が無い・・すまんの~・・いつも大事なところでタイムアウト、・・・しかも全て中途半端!・・さすがファシレのおじさん!・・ちゅうことで、今回もグズグズに終わるのねんよ~!・・残念~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!

P.S.良くもまぁ、こんな文字ばっかりのブログ、読んでくれてありがとさんね~!
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アメタリシヒコって、誰やのん?






 ま、こんなことを書いてよいのか・・ファシレのおじさんにはちっとも判断つかんけんども、判断つかんから書かないっちゅうよりは、色々と感じたことを書いた上でね~、

「ありゃりゃ・・違ったかいな・・そりゃ~すまん!」

と、軽~く水に流して貰おうと・・。


 そうじゃないとね・・結局思ったことも言えない状況・・「推測に過ぎんだろ!」とか「証拠を出せ!」とか「風評被害だ!」とかね・・。近くの大国の民衆の方々と、結局何も変わらんじゃないかと・・言えると思うのねんな~。

 政府が悪いと思っていても口に出してはとても言えない・・と、利害関係に影響することについては言えない・・は、結局同じじゃないかと思うけんどね~。そんなこと考えてたら何も言えん社会になってしまうがな~。


 で、アメタリシヒコの話しって、知っとるかな~?中国に対しての、聖徳太子の別名だとか、名乗りだとか、はたまたは、蘇我馬子が実は天皇でとか、いやいや、推古天皇が女性だから別の大臣クラスが代理で名乗ったとかね・・まぁ、色々な説が有って、しかもダレのことなのかまるで解決してないっちゅう・・問題でんな~。

 Wikiによると、こんな風でんがな~。

 多利思北孤は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「俀」と記述している。

「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。


 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」・・


 例えばね・・ 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」は、

「日いづる所の天子、日没する所の天子に書す。つつがなきや?」

と・・倭王から隋皇帝の煬帝に宛てて届けられたのねん。遣隋使・・でんな。第二回の607年のことと言われとるのねん。

 小国の倭の、王とは言えども、大国の天子に同格の天子として物を言ったもんでね~・・あちらの天子さんも、

「・・ざけんなよ!」

と、怒ったらしいのねんよ。


 遣隋使の小野妹子(おののいもこ)さんもさすがに困り果て、返書を無くしたことにして何とか言い訳をしたらしい~・・。ま、しょうがないよね~・・大国相手だからね~。


 じゃぁ、こんな文章を書いたのは誰だ?っちゅう話しになる訳で~・・それがかの「聖徳太子」だっちゅうことで、一応は収まってるのが現状なのかな~と。

 しかしね~・・、聖徳太子さんって言えば、推古朝の「皇太子」もしくは「摂政」として、政治を司ったとされとるのは・・知ってるよねん?

 本名は厩戸(うまやど・うまやと)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。また、母が実母である蘇我小姉君の実家、つまり叔父・蘇我馬子の家で出産したため、馬子屋敷が転じて厩戸と付けられたとする説や、生誕地の近辺にある厩戸という地名から名付けられたとする説もある。

 別名として豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には上宮太子聖徳皇、『古事記』(和銅5年、712年)では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』(養老4年、720年)では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されている。

by Wiki

 ま、そんなもんなんでね~。聖徳太子が「アメタリシヒコ(アメタリシホコ)」っちゅうことになってるのねんよ。

 でもね・・・推古朝の摂政ったってね、その頃は摂関制度なんぞは無かったのねんな。だから少なくとも摂政っつうのは・・無い。皇太子として、大王の代わりに政治をしたかもしれんけんどね。

 でもでもね・・・本当に推古朝の皇太子だったのか・・ま、つまり、大和朝廷の皇太子だったのかな~?と・・ファシレのおじさんは思うのねんよ。王では有っても大王や天皇では無いし、ましてや、大和朝廷の皇太子だったかどうかも・・ね。

 日いづる所の天子、日没する所の天子に書す。つつがなきや?

 これは、日の出る国にいる「天子」が、日の沈む国の「天子」に対して言った言葉なのねんよ。「天子」なのねん。

 隋の天子は・・判るよねん?・・そう、遣隋使の1回目、600年には高祖文帝であり、2回目の607年は煬帝に宛てたもの。それは誰でも調べりゃ~判るのねん。

 じゃ、日の出る国にいる「天子」って・・誰なのねんな?



 えっ?・・判らんかいな?・・「天子」なのねんよ。「天皇」でもなけりゃ「大王」でも無い・・、ましてや「太子」でも無いし「聖徳太子」でもないのねん。

 「天子」と自分で言えるのは「中国の皇帝」でんがな。もしくは、「中国の昔の皇孫」でんがな~。倭人は間違っても自分のことを「天子」なんて言わんでっしゃろ~?

 倭国にはね~・・・中国から逃げてきた昔の皇帝の血族が沢山いたのよねん。前回も書いたよね~。周やら呉、斉、楚・・そして秦・・・。大体は見当がついとるけんども、そんなに大事なところじゃ無いのんで、どこの皇孫が書いたのは言わんけんね。でもね・・

倭王(と、その頃、されていたのは)は正真正銘の天子(中国の皇孫)だった!

のねん!

 だから、倭王は聖徳太子でも推古天皇でも蘇我馬子でも無いのねんな~。


 あ、あとね~・・遊んでたら妙なことになっちゃってね~・・困ってるのねんよ。こんなことになっちゃって良いのかな~?とは思うのねんけど・・。

開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌

開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。

 これは一般的に 倭王の姓は「アメ」、あざなは「タリシヒコ」、号は「オオキミ」 とされてる文なのねんが、ファシレのおじさんにはどうしても、阿輩雞彌 が 「オホキミ」 には読めんでね~。中国語の発音のページが有ったもんでね・・ちょっと当てはめてみたのねんよ。そしたら、大変なことになってしまってね。ま、今と昔では発音が違うし、中国は地方によってまるっきり違うっちゅうものあるけんど、これは無い・・と・・ね。

(とりあえず中国語の発音の四声は無視)

阿 --> ā --> 「あ~」

輩 --> bèi -->「べぃ」

雞 --> jī --> 「ぢ~」

彌 --> mí -->「みぃゅ」


 つまり、倭王は「あべ  ぢみぃゅ」 と号す・・ちゅうのよねん?・・あれ?あべしゅしょう?・・いや、そりゃ無い・・(^^ で、調べてみるとね~、ありゃ大変!


阿倍 内麻呂(あべ の うちまろ 生年不詳 - 大化5年3月17日(649年5月3日))は、飛鳥時代の政治家。『日本書紀』で阿倍麻呂[要出典]、阿倍倉梯麻呂と記される人物と同一と考えられる。姓は臣。阿倍鳥子の子。大化の改新で左大臣に任じられた。

生涯

推古天皇32年(624年)、大臣の蘇我馬子が推古天皇に葛城県の譲渡を要求し、内麻呂と阿曇連が遣され天皇へ奏上している。推古天皇はこの要求を拒否した。

推古天皇36年(628年)、推古天皇が崩御すると田村皇子と山背大兄王が有力な皇位継承候補となった。大臣の蘇我蝦夷は内麻呂と議して自邸で群臣と皇位継承について諮った。群臣の間で意見が分かれたが内麻呂は田村皇子こそが推古天皇の意中であったと主張した。蝦夷の望みも田村皇子であり、結局、田村皇子が即位した(舒明天皇)。

皇極天皇4年・大化元年(645年)、中大兄皇子と中臣鎌子により蘇我入鹿が暗殺され、父の蝦夷は自殺して蘇我本宗家は滅亡した(乙巳の変)。皇極天皇は譲位し、孝徳天皇が即位して新政権が発足した。左大臣には内麻呂が、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられ、各々金策を賜与されている。内麻呂は豪族を代表する重鎮として、また娘の小足媛を孝徳天皇の妃とし、有間皇子を儲けていることから新政権の中枢に加えられたと考えられる。

大化4年(648年)、内麻呂は四天王寺で仏像4体を迎えて法要をとり行った。

大化5年(649年)、死去。孝徳天皇が朱雀門まで来て哀悼し、皇極前天皇・皇太子をはじめ群臣が哀哭した。なお、その直後に、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂は謀反の密告があり、自殺に追い込まれた。

by Wiki


 どうでっしゃろ?・・内麿の発音は、かなり近いとは言え・・同じだとは言い切れんかもしらん。でも、「阿輩」の発音は日本語的な「オホ(オオ)」ではあり得んで、「アベィ」。つまり「阿部」。

 っちゅうことは、そのころの倭王は「阿部氏」っちゅうこと?・・じゃぁ、記紀が書いてることって一体なんなのねん?・・っちゅうところで今回は終わるのねん!・・残念~!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!またね~!

P.S.ファシレが遊んでた中国語の発音サイトはここね・・コピーペーストでやってみてちょ~♪
http://www.frelax.com/sc/service/pinyin/

熊も姫も船に乗って九州に来たのねん!






 とにかく記録が残ってないのねんな~。残念なことにね・・。有力な豪族達に系図を提出させ、各氏族に墓記を出させ、古文書などを焼いたのねん。なしとげたのは第41代天皇さんになった、持統天皇さん・・でんな。

 彼女は・・って女帝だからね・・、夫の天武天皇さんが亡くなった後、天皇になられたのねん。でも彼女も中々にしたたかな女性だったと思われるのねんよ。何せ、親は第38代の天智天皇さん・・・「乙巳の変」で、中臣鎌足さんといっしょに、あの稀代の天才と言われた蘇我入鹿さんを騙まし討ちにして蘇我宗家を滅ぼした、中大兄皇子の・・・娘さんなのねんよ。

 ま、この辺りは書かない訳にはいかんのんで、いずれ題材にするのねんけんど、今のところはね。でも、覚えておいて欲しいのんは、

「天智天皇系と天武天皇系の争い」

だったことと、

「父親である天智天皇と夫である天武天皇の狭間の持統天皇」

であって、

「(入鹿殺害の)共犯である中臣鎌足と中大兄皇子(天智天皇)」

の構図が、

「中臣鎌足の息子である藤原不比等と持統天皇(天智・天武)」

のように、後世でもそのようになった・・と伝えられることなのねんな~。いや、伝えられるっちゅうより、当の本人がそう書いとるだけだけんど。真実はどうかね~。ね・・・不比等ちゃん!?



 ま、日本書紀は不比等ちゃん監修だけんど、結構・・史実は忠実に記載されてると思うのねん。実際に、半島で出てきた古墳からの墓誌で、日本書紀の記載と年代に間違いが無いことが証明されたりしとるけんね~。

 でも、さも、たった今、目の前で見てきたように書いてる記事はね~・・・どうもね・・信用できんのねんな~。あと、「誰々の子である」っちゅう部分ね。天智天皇さんと天武天皇さんは兄弟ということになっとるのねんけんどね・・有り得ないと、歴史に興味のある方々は、まんずそのように思ってるはずなのねん。


 記紀の・・特に日本書紀については、前回の記事でその立場を説明したのんで、それなりにお判りいただけたと思ってるのね。なので、今回からは・・・

「起源前~紀元後の九州の話し」

をチラッとしてみようかと思うのねん。

 記紀の話しが中心だと、どうも偏った話しにしかならんのねんでね。


 例えばね・・皆さんも歴史で習った「ヤマトタケルの尊」さんね。彼は第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父の小碓命(おうすのみこと)さんなのねん。彼は九州に・・

「熊襲(くまそ)退治」

に行って成功したと言われてるのねん。女性に化けてクマソタケルさんを殺した時、その名の「タケル」をいただいたと・・されとるけんね。でもま~・・一般的な熊襲のイメージは良くないよねん?そのように日本人はイメージ付けられて来たのねんよ。


 でも、「熊襲」って・・何か判るかな~?・・判らんでしょ?

「熊っぽい・・毛むくじゃらの力が強い野蛮人」

みたいなイメージが先行し、常識のようになっちゃってるのねん。・・遭ってもいない大先輩に・・偉い失礼なのねん。


 昔ね・・中国に「楚(そ)」っちゅう国が有ったのねん。・・・そ~なのねん・・春秋時代・・でんな。で、どうやらその「楚の国」の王族が九州に逃れてきたらしいのねんよ。彼らは「熊(くま)」をトーテムとする族で、名前も「熊」が付くので、「熊氏(くまし)」と呼ばれたらしいのねん。


 で、熊氏の国なもんで~・・「熊氏の楚国」から・・「熊楚(くまそ)」->「熊襲」になったっぽいのねんな。


 ね・・・?本当っぽいだしょ~?まだあるよん・・。


 以前の記事に「東海姫氏国(とうかいきしこく)」のことを書いたけんど、これは時の中国の史書に書かれてることで、東海(とうかい)に倭人の「姫氏(きし)」の国があると・・ね。

 東海っちゅうのんは、東シナ海(東支那海)の中国における名称でね、ま、日本海っちゅうことでんな。昨今は中国が勝手に日本の領海ギリギリでガス田をおっぱじめて問題になっちょるけんね、ご存知かもしれんね。

 で、その姫氏も春秋時代の大国、「呉(ご)」の王様だったのねん。でも戦いに敗れてね・・王族は九州に逃れたのねんよ。おそらく、大陸から今の長崎辺りに上陸し、「火の国」で国を創ったのねんな。

 この「火の国」は活火山の阿蘇山があるからね・・そのように言われたのねん。火の国は「肥の国」と・・言われたのねんで、さっきのように・・・

肥の呉の国(ひのごのくに)」->「肥呉の国(ひごのくに」

となって・・・

肥後の国(ひごのくに)」

と・・なったのねんな~。


 一般的にはね・・「肥の国」をふたつに分割して「肥後国」と「肥前国」になったと言われてるけんど、ま、違うだろねんな~。


 ま、結局駄洒落みたいな~・・言葉遊びみたな~・・だけんども、世の中は大抵、そんなもんだしょ?そして、時代が強制的に名前を変更してしまう・・氏族の名前も、土地の名前もね~。だから、北九州には京都や奈良の地名と同じものが山ほど残ってるのねん。九州の名前を持って行ったのか、奪われたのかはもう・・判らんけんどね。


 因みに呉国の姫氏が滅びたのが紀元前473年・・・、楚国の熊氏が滅びたのが紀元前206年なんで、日本到着は姫氏が先輩なのねんな。


 それに加え、同じ春秋時代の「斉(せい)」の国も滅んで、おそらく日本に来てるのねんな・・・滅んだのは紀元前386年で・・っと・・


 えっ?・・もう時間が無い?・・・こりゃまたすんずれいいたしますた。中国ネタで終わっちまったい~・・なんだよ~!呆ける暇がなかったじゃないか~!この話しは、まだまだ序の口なのねんで~・・当分は「とてもまじめなお話」になるかもしらん・・すまんの~!ファシレが真面目じゃちぃっとも面白くないけんね~。ま、「ぼけ」はまたそのうち、連荘するのんで、許してくなんしょ!ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!


「記紀」と掛けて「カード」と解く・・・そのココロは??






 ま、前にも書いたと思うけんども、日本の正史が古事記と日本書紀の二本立てになってて、お互いに補完しあうようなことになってて、「一書に曰く・・」とか何とかかんとか・・それに加えて当てた漢字も違うし、音読みするにしても、

「本当にこれでいいのじゃろ~か~?」

と思ってしまうような読みを、如何にも正解としてしてしまう・・・そんなんだから、わが国の歴史はたかだか千数百年前のことすら、ハッキリしないのねんな~。

 ハッキリしないことを元にして正史にしちゃってるもんだから、自分のことすら、何が正しくて、何が間違ってるのかも判らんようになってしまってるのねん。


 その割には、新たな情報源が見つかったりしても、

「偽書」


と決め付けてしまってね~。何一つハッキリしないのに、新たに発見された古文書類をなんで「偽書」と言えるのかも中々に理解不能なのねんけんどね~。


 ところでね・・日本書紀って言うのは、あの不比等ちゃんが監修して創られた本なんだすが~、本当は一体、何が書かれているのかご存知かな~?


 ま、ファシレのおじさんが偉そうに言えることじゃ~無いのだけんども、やっぱり一度、有る程度ハッキリさせておく必要があるかと思うのねんよ・・・これから書くことにも影響するしね。なので、ファシレのおじさん的な見方ではあるけんども、こういうことかと思うのねんよ。


「日本書紀は、大和の国を中心とする狭い地域の集団が、起源から日本と名乗るまでのことをある角度から書いたもの」

なのねん。


 日本書紀とか日本紀とか言われるもんで、

「あ~・・、日本の国のことを書いた本なのね~!」

などと勘違いしやすいのねんけんど、これはあくまで・・


「狭い地域のことで、ひとつ、もしくはいくつかの行政単位か連合のこと。現在の日本全国のことを書いているわけでは無い」


のねんな。各地に残ってる「なんとか風土記」と本当は同レベル・・なのねん。もっともその風土記は改変され、少なくとも辻褄が合うようにはされてるしね・・


 あくまで「日本と名乗るまでのそこの歴史」であってね、「今の日本の国全体とは違う」っちゅう目で見ないといかんと思うのねんよ。大和の国を中心として、その周りのことを書いてるのねん。だから・・・


「他の国のこと・・(大和以外の)国のことは基本、無視」


しちゃうのねんな。


 例えばね・・「なんとか国造」とか書いてると、


「お~・・こくぞう・・くにのみやっこか。すると宗主である大和の国が派遣した知事か・・」


と読んでしまうのねんが、そりゃぁどうかね~。下手をするとその国造さんは、敵国の片隅に潜り込んでるスパイに過ぎないとか、はたまたは、


「ごめんね~・・かみさん、今妊娠中だから、うちには攻めて来ないでね~・・」

「・・ま、いっか。判った・・こっちも南方の前線が手一杯で忙しいから~・・」


位のやり取りしかしてない間柄に過ぎない相手をこっそり「国造」に任命しちゃってたり・・てなことも考えられるのねん。


 そこまで酷いかどうかは別にしてもね、まるっきり無視しちゃってる存在も有るのねん。その無視しちゃった相手のうち大事なのは、九州に有ったはずの・・

「倭国」


でんな。


 こりゃあもう、まるっきり無視。まるで何も無かったかのように自分たち主体のみで書いてるのねんよ。おそらくなのねんが、倭国が宗主であって、後の日本を名乗る大和は同盟国だったのねん。結局のところは倭国が滅んだので、「日本っちゅう国の本」だから書く必要が無いっちゅうわけだすな。倭国を自分たちに見せかけるようにしてね・・つまりおいしいところをそれとなくいただいて、美味しくない、都合の悪いところはバッサリ捨てたのねん。


 そうかと思えば、国のことは書いて無いけんども、そこの人のことはバンバン書いちゃってることもあるよね。その内で大事な相手の国って言えば・・

「秦王国」

でんな。


 秦さんのことは結構それなりに書いてあるけんども、その国については全く触れてないのねんよ。「国造」とか「県主」とかで誤魔化しきったのねんな~。全く凄いのねんな~・・不比等ちゃんは~。


 ま、敢えて書かざるを得ない場合にはね~・・「熊襲」とか書いちゃってるんだけんどもね~。でもそれって・・酷くね?



 ま、そもそもね、何で日本書紀を残そうと思ったのかっちゅうとね・・一応、時の天皇さんの天武天皇さんが、川島皇子さんらに「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされてるのねん。

 天武天皇さんは、稗田阿礼(ひだのあれい)が「誦習」していた「帝皇日継」(天皇の系譜)と「先代旧辞」(古い伝承)を太安万侶が書き記した、「古事記」の編纂もさせてるのねんよ。

 つまり、天武天皇さんの命令で日本の正史が二つとも書かれたのねん。これって、どういうことかっちゅうと・・実はとても大事なのんが~・・


「紙」

でんな。そう・・我々も日々消費している「紙」が日本に入ってきて、それまでの「もの」に取って変わっていったのねん。


「はぁ~?・・そこを言うかぁ~?・・違うだろ~!」



 すまんの~・・ファシレのおじさんは天邪鬼なもんで・・。未だに紙、使ってます・・いや、トイレの話じゃないのねんよ。


 つまりでんな、それまでの本っちゅうもんは、まんず分厚い本なんちゅうのは無かったのねん。大事な言い伝えは、正に

「言い伝え」
「口伝」


だったし、何かに書かなきゃならんもんは、確かに何かに書いたのねんけんども・・それが、


「木簡(もっかん)」

みたいなものなのねんな。ま、輸入の高級な「~経」みたいな巻物風なのはほんの少々有ったかもしれんけんど、ほとんどは、板とか木片に書かれてたのねん。もしくは建物や仏像とかに直接ね。それを紙を使えるようになった後世の方々が写した・・それが写本なのねんよ。



 だからね・・日本書紀を創るときは大変だったと思うのよ。何せ、紙は使えるようになったが、何と言っても「高級品」なのねんから・・それに、紙が輸入で入ってくるまでは安い木の板で作る「木簡」に書くしかなかった・・。だけど安いけんどもね・・これが


「非常にかさばるし重い!」

のねんな~。


 そんなもんで、あるときこんなことが有ったのねん・・・いや、有ったと思われるのねん。



 重要な資料と思しき大量の木簡は、それぞれの巻を穴に通して留めて、判りやすいようになってたのねんな~。

 それを下級役人さんたちが、大八車に乗せて運んでおったんだと。


「よぉ・・はっつぁんよ~・・。その先を右に曲がると近道できるぜ。お約束の道じゃぁね~が、こんな重いもん、もうこれ以上は勘弁だぜ~・・」

「おっ、くま公、そりゃぁ助かるぜ。おれもそろそろ足にでけた豆がつぶれそうになってたんだ。じゃそっち行くかぁ!」


 その頃、大事な公文書(木簡だけんど)を運ぶ道は決められていたのですが、ついつい、はっつぁん、くまさん、止せば良いのに魔が指してしまったのですね~。

 で、その曲がった先で道の石につまづいてしまって、大八車をひっくり返してしまったのねん!・・


「ありゃりゃ・・!・・あっ、不味いぞ!紐が切れてもうたぁ~!」

「ん?問題ない問題ない・・切れた紐はつなげれば良いのよ~!」

「・・そうは言ってもさぁ。順番もグチャグチャだぜ~?」

「・・そうかぁ?・・でも、何が書いてあるのか、俺達にゃ全く判らん文字だしな・・。ま、適当に混ぜちゃうかぁ!」

「そ、そうだな。誰が見たってこんなもん、読める訳無いしな~。」

「ん、ま、いちお~、似たような文字らしきもんが書かれたものを適当にまとめるか?」

「・・そ、そうしよ・・。お、おい、早くしないと親方に怒られるぞ!」

「お~。・・じゃ、この辺とこの辺を一緒にして~。それとこれが一緒だろ・・?・・ありゃりゃ。これは割れてるから・・捨てちゃうか~・・」



 ・・・みたいな。



 そんなもんでね・・哀れ、大事な木簡は下級役人の手によってシャッフルされ、ジョーカーは藪へと捨てられてしまっやのねん・・。まるでトランプみたいなもんでんな~。いや、トランプは日本語か・・英語では「カード」でんな。


 その木簡は、実は「古事記」の元になった、帝皇日継(天皇の系譜)だったのねんよ。そんなもんで、古事記も日本書紀も、天皇さんの系譜が入れ替えられてしもうたのねん。


 さらにはね・・その系譜を変だと思った太安万侶(おおのやすまろ)さんが、自分の理解を元にシャッフルしちゃったのねんな~。


 さらにさらにはね・・日本書紀も編纂時に古事記を参考にしたもんで・・不比等ちゃんも・・


「・・ありゃりゃ?・こりゃぁ幾らなんでもおかしい・・理屈が通らないぞ・・?」

と、古事記とは違う記述に変更しちゃったのねん。それでもさすがの不比等ちゃんでも、そんな昔のことは判らんのんで~・・

「・・ま、いっかぁ~!」


 さらのさらの・・さらにはね、その日本書紀の系図もね・・結局は失われてしまったのねんよ。ま、敢えて隠したっちゅうこともあるかもしれんけんどもね、現存しないのねん。


「残念!」


 紙っちゅう、非常に便利なものが出来たもんでね、後世に残すために、いろんな記録を作ろうとしたのねんけんど、たまたま「道」にね・・少し大きめの石が有って、たまたまそこに車輪が乗り上げてしまったが為に、わが国の正史は大きく変わることになってしまったのねんな~。


 そう・・、あの下級役人があの角を曲がってしまったが為に・・あの「カド」を曲がってしまったがためにね・・・


 そうそう・・帝の話しだけに「カド」なのかもねん。今回も駄洒落オチで・・すまんの~!でもね~・・・そんなことが無かったとしてもね、一本の線でつなげられた歴代天皇さんの系図も、実は、


「横の系(複線)」


をちゃんと書いてあったのかもしれんのね~。つまり、平行して存在したかもしれない系図・・を、ついうっかりして1本にしてしまったかもしれんのよねんな~!ま、ちょっと大げさ過ぎるし証明なんぞ出来ん辛い話しではあるけんどね~。ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!







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 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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