法興 無視して 法隆寺!・・の巻き






 いやいや・・・余りに長いこと、ブログを放っておいたので、皆さんのご心配の声が「ちらりほらり」と聞こえてきてのぉ・・・。こりゃぁ、何とかせんといかんがや~?・・と思いつつも、余りの忙しさに、文章を考えてる時間もキーを押す暇も無いと言う状況が何とか好転しないか?・・いやいやいや・・とにかく「一文字」でも書いておけば・・

「お?・・ファシレのおじさん、まだ生きてたんだ~」

と、ご心配をされてる方々に思っていただけるかと・・いや、すみませんでした~!ほんと、長いこと留守をしました・・。


 さりとて、書きたいことは沢山あれど、時間がたっぷり有るわけじゃ~無いのでね~。ほんと、消費税率アップ絡みやらなんやらで四苦八苦しとるのでね~。すまんの~!ま、長考吟味して書くタイプじゃないっつ~か、そんなん出来けんのやけん、時間さえありゃ書けるのよ~。

 そうは言いつつもね・・だいぶ色んなことが判っては来たのねんよ。今は・・そう・・、倭人探しの旅に出てる途中なのねんけんどね~。

 だからまんず、大体の大枠を書いておこうかな~。ま、みんな、うすうす感付いてるか、もしくは判っちゃいることではあるんだけんどもね~。色んな意味で、認めたくない人もいるかもしれんけんど、元々国境なんて無かったんだからね~。ボーダーレスの時代からボーダーの時代になって、みんな・・権利を主張したのねんな。今もそれは変わらん・・。

「・・お宅の植え込みの樹の枝がボーダーを越えてて、うちの芝生の上に葉っぱを落とすんだよね~・・。」

なんてのは普通なのかな~?・・ま、日照権なんてのもある位だからね~。ま、当事者になると辛いかもしれんけんども~。


 紀元後の倭はどうなってたかっちゅうとね、結局は近々に大陸や半島から流れ込んできた民族と、その前に到着してて列島から逃げ出さなかった民族が、バラバラか、ある程度のまとまりを持ってコミュニティをつくって暮らしてたのねんな。そのうちには、争いもあり~の、和解もあり~ので、少しずつ大きなコミューンになり、コミューン同士が手を繋いだり離したりしてたのは、誰でも想像つくのねん。

 でね、大陸から逃げてきた王族も幾つかいたし、半島から渡ってきた連中と、古くから列島に住んでおった連中がいたのねん。それぞれ違う族なのねんよ。

 今現在は、九州王朝説が結構良い感じになっとるけんね、それに加えて大和王権も有った・・その二大王朝が、700年頃ひとつになった・・と考えられるのねんな~。

 一般的には、ヤマト朝廷だけ・・つまり神武天皇さんが東征して王権を築き、それが今の今まで続いてきたっちゅうことなのかもしれんけんどもね~。


 でもね・・本当にそうかな~?・・違うんじゃないのかな~?・・っちゅう部分が出てきちゃったのねんよ。詳細については追々書いてくけんども、時間が経つと新しい事実や推測が出てきてまた変わるかもしれんし、難しいものよの~。



 大枠としてはね・・九州王朝が有って、大和にも王権があった・・これには反論はせんのねんよ。でもね・・九州にあった大きな王朝・王統はどうやら

「ひとつじゃなかった!」

のねんな~。


 そう・・その対象の時期によって変わってしまうけんど、今言ってるのは西暦500年頃・・のことでんな。以前ブログでも書いたけんども、継体天皇さんが筑紫君いわいさんを討ったころのこと・・。その頃の王朝は九州に少なくとも二王朝あったのねん。

 勿論だけんどもね・・他の地域にも王朝・王統・王権らしきものは有ったのねんよ。それも否定はせんけんど、かなりの部分は大和や九州とは主従関係になっていたりしたのねん・・。主従関係にならなかった王朝とは連合体のようになってたのねん。

 で、大きかったのが九州王朝。大和王朝とは連合体のようなものだったけんども本家は九州王朝なのねん。ま、分家みたいなものなのねんな・・。

 でも九州王朝はひとつじゃないのんでね・・。少なくとも「ふたっつ」、下手すりゃ「みっつ」ほど有って、どれもが「イコール条件」・・・つまり同列だったらしいのねんよ。

 つまり、

九州王朝第一 ≧ 大和王権、九州王朝第二 ≧ 大和王権


 みたいな感じやろかな~。あ、みっつ位ありそうだけんど面倒なのでふたつだけ・・書いたのねんよ。


 で、こんな風に考えると、色んな謎が解けてくるのねんな~。


 例えばね、この間書いた記事で、「法隆寺」の話しが有ったでしょ?・・元々は聖徳太子さんが建立したとされてるけんども、どうやら元は九州の「法興寺」(ほうこうじ)を移築したものらしいって記事でんな。法隆寺の釈迦三尊像の光背銘には「法興元」っちゅう九州年号が書かれてるのは結構有名な話しなのねん。法興寺が完成したのは、倭国が唐と新羅連合軍にメッタメタに負けたので有名な「白村江の戦い」の前だから、660年前頃まで・・法興元=618年のことなのねんよ。

 そして、さかのぼればね・・532年の任那加羅(金官加羅)滅亡、562年の大加羅の滅亡が有り、660年の百済滅亡が有っての「白村江の戦い」なのねん。その全てが「新羅」によるものなのねんな。

 ところがね~・・実に面白いことが判るのねん。新羅の王様ちゅうのがいらっしゃってね~・・元をたどるとどうやら倭人なのねんけんども、


「新羅の第23代の王は法興王」


 法興王(ほうこうおう、生年不詳 - 540年)さんは在位 514年 ~ 540年 なのねん。つまりは540年に法興王は新羅で亡くなられた・・・そして、何故か倭国では618年に法興寺を建立し、白村江で負けたもんで、唐に持ってかれたら困ると思ったのか・・、大和にバラバラにして持ってった訳でんな~。

 ・・普通に考えたらおかしいだしょ?どうも倭国は任那・加羅っちゅう姉妹国か宗主国かはわからんけんども、同族が居り~の、百済っちゅう少なくとも同盟国以上に思える国が有って・・、しかもその国を滅ぼした当事者でっせ?・・法興王っちゅうのは・・。憎いはずの王と同じ名前を付けた寺をどうして倭国が建立するのねん??


「・・そりゃ~、大和が親百済・加羅で、九州が親新羅だったからでしょ~?」

とおっしゃるかもしれんけんど~・・、白村江の戦いで 記紀では九州の豪族とされる筑紫君薩夜麻が捕らえられて、8年間も捕虜になってるのねんよ。九州王朝説では薩夜麻(さちやま)さんは倭王とされてるのねん。親新羅の王朝なり王がいたとしたら、それは別の王朝だってことにならんかの~?



 ま、あくまで推論なんじゃけんどもね・・実はこの間、聖徳太子絡みについて、小麦ちゃんが降ろした部分が有ってね~。降ろしたっちゅうのも変か~?誰かが憑いた~?のかもしれんが、それを検証して行くと、九州王朝はひとつじゃない・・もしくは九州王統は二つ以上あった!・・ことにしないと、その後の話しがメタメタになってしまうのねんよ~。


 いずれね・・説明を交えつつ、書いていこうと思うのねんで・・よろぴくお願いするのねん。あくまでファシレのおじさんの戯れなのでね~。テストのの答案には書かんでね~。今回は「オチ無し」で・・すまんの~。ではバイナラ~!アディオ~ス~!チャオ!
 

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 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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