これも証拠のひとつなのねん・・






 どうやら今の日本じゃ、お役人が公文書を書き換えても罪にはならんのでんな~。書き換え自由な公文書・・いいの~・・自由で・・。わしらは車庫証明でも、ちっと書き損じてちょこっと直しただけでもの~・・

「・・お上、ど~かこれで許してたもれ・・」

「残念~、やり直し~!・・もう一度駐車場の持ち主さんにハンコもらって書き直して来~い!」

ってなもんでんがな。生活してく上でも何かせんとならん時は、申請書、変更届、を出して許可書、免許証、証明書をいただかなくちゃ

「法律違反」

で罪になるのねん。

 あっち行って、そっちにも行って、こっちにも行かねばならん。お役所は土日祝しかやっとらんばってん、下手すりゃ一日休みを取った挙句、書類不足だ記載不十分だ間違いだと・・

「・・ざんねんでした!・・またどうぞ~!」


「紙様、お願い!」

ってなもんや・・いや、言わんぞ~・・絶対その先は~♪♪・・婿殿?!



 でもそんな文書でさえ、お上は捨てても隠しても書き直してもおっけ~なのねんな・・。やっぱり日本じゃ東大出ないと、まともに自由な空気さえ吸わせてもらえんのかの・・。


 倭の歴史もね・・ようやくでんがな。ようやくここまで来たのねんで、一発バシッととね。決めんといかんの~。

 半島の弁韓の南に有った伽耶諸国なのねんが、

「金官伽耶、西暦532年滅亡!」

ちゅうのんは覚えとるかな~?・・随分前のテキストに出したはずなのんで、探してみんかい~われ~! (*`皿´*)ノ ・・てね・・って、どこかの大学の常務理事かっ!・・って、パワハラを隠そうともせん上司や役員と、教え子の間に挟まれた方々も、これまた悲哀だの・・。あのコーチも被害者だったんじゃろ・・まだ若いのにの・・。でも白日の下にさらされた以上、大人なのねんから手前のケツはてめえで拭かにゃいかんしの・・。そんな世界はまるで政界も全く同じだの・・。驕り居直り居座る権力者とそれに司直まで加担してるように見えるしの・・。東大出ても詰め腹切らされるか、どこかに埋められたら叶わんから、やっぱり庶民の方がパワハラに耐えりゃ良いっちゅうだけ、マシなのかもしれんの~・・。それに、何も見えんはずのわしら庶民たちだっての・・実は報道を通して色々と見えとるのねん。しっかりと、彼らの放つオーラをねん・・ま、まるで見えん人も沢山いらっしゃるけんどもの~・・。欲に目がくらむと見えんよ~になるのねんな~。・・それにしてもほぼ誰も見とらんの・・このブログ・・。ま、気まぐれで書いたり休んだりが激しいのもその原因かの~・・それに思いきし暴露し過ぎかの~・・これもパワハラか~?・・単なるおじさんだからパワーはまったく無いがの~・・んじゃファシレのおじさんも責任取って辞任しよ~かしらん・・・ん?・・反省しとらんよ~だから解任するって?・・それも良かかもしれん。そ~してくなんしょ。


 ま、新羅が金官伽耶を攻めちゃってね。国王は宝物を持って、家族ともども降伏したのねんよ。

 そしたらね・・

優しい新羅国王はんは、礼を持って迎えてくれ、食封(じきふ)として元の国の分をくれた

んだと!・・太っ腹でんな~!食い扶持としてそっくりそのまんまだっせ?さすが、長く続く国は違うよの~。

 しかもその百数十年ちょっと後には、子孫が新羅国王にもなってしまうのだからの~・・。これ、ホントの話しでんがな。興味があったら調べてみると良いだす。


 でねでね・・。

「任那の調(みまなのいつき)」

って・・知っとるかの。

 倭は任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求しており、従来日本(倭)に対し調を納めていた事実が書かれている。
by WIKI


 っちゅう訳でね・・新羅は日本にもお裾分けしてくれたのねんよ~。

「実に新羅は・・太っ腹だしょ~?」





「・・な訳有るかい!!」(*・`ω´・)ゞ

 なんも無いのにお宝を毎年のように送ってくれる人はおるかいな。

 新羅は任那(みまな)の税金分の収めとして、倭に届けていた・・っちゅうのんが、一般的な見方なのねんな~。

「じゃぁ・・任那(みまな)って何なん?」

となってくるのねんけんど、これまたこれを説明せんとならんことになると、堂々巡りの始まりになるのんで、ここはせんのよ。すまんの~。判らん人は調べてくれ・・このブログのどこかにも書いとるけんね。


 でもね・・新羅による任那の調は、本当に「任那の調」なのかの?

 任那の調の内訳はね・・こうなっとるのねんよ。敏達天皇の時代なのねんが、紀にはこんな風に書いてあるのねん。

(西暦575年6月)、新羅遣使進調。多益常例。并進多々羅、須奈羅、和陀、發鬼、四邑之調。

 粗いけんども訳すとね。

 西暦575年6月、新羅は調(いつき)の使者を派遣してきた。いつもより多い。たたら、すなら、わだ、はっきの四村の調である。

 これ、この村の名前じゃぁ、なんのこっちゃ?・・だからの、この少し前に新羅が滅ぼした村のことを紀の継体天皇の条に書いてある部分を抜粋して掲載するとね。

 廿三年、上臣抄掠四村 金官、背伐、安多、委陀、是爲四村 一本云 多々羅、須那羅、和多、費智 爲四村也

 継体天皇23年、西暦529年?、新羅の上臣が四村を攻め奪った。それは、金官、背伐、安多、委陀の四村だ。またある本はこう言っている。それらの四村は、多々羅、須那羅、和多、費智である。

 めんど~なもんで、とりあえず単純に順番通りで良か!と解釈しちまってぇ~書いてしまうとねん・・

 多々羅=金官、須奈羅・須那羅=背伐、安多=和陀、發鬼・委陀=費智 っつ~ことでんがな。

 ちっと脱線してまうけんど、これも・・面白いでっしゃろ? 安多=和陀 でっせ?・・どう読む?あだ=わだ?

 和陀って・・陀は耶とか羅の意味だから、和を倭にすりゃぁ・・倭羅・・

 委陀って人偏が無いだけなのんで倭羅・・

 あれ~?・・ど~なっとるんかの~・・

・・東出雲郷って、「あだかえ」って読むのでっせ?・・「あらかや」の訛りだって話しが近かったのよねん?・・費智 は比自㶱でヒジホ・・でっしゃろ~?日之㶱で日之本だったよねん?・・あれ~?


 つまりね、532年に新羅に投降した金官国王は、529年に金官を・・つまり国そのものを奪われとるのねん。ま・・他にも村が有ったかもしれんのんで、隠れておったのかの?・・ま、ここは後で書くから・・。

 で、金官国王は許されてね、新羅から食封(じきふ)をもらうことになった・・

「・・はぁ?」


 おっ、気付いたようだの~?・・・


 そうなのねん・・よ・・。

「元金官国王が受けるべき食封が何故か倭の調になっとるのねん!」



 あ~あ・・やっちまったな~・・でんな~。金官国そっくり分の食封(じきふ)は、元金官国王のものなのねんよ?・・もし、元金官国王分と日本の天皇(大王)の分をダブって納税せにゃならんこつになったら、そこの農民は生きては行けんわの~。ただでさえ戦乱の世の中、作物を育てるのでさえ大変なのねんから・・。

 つまりはの、任那の調として天皇(大王)から奪った任那の税金をわざわざお届けに来てた訳じゃぁ無いのねん。新羅王は降伏した元金官国王に食封を約束したもんで、それをただ届けに来たのねん。だって・・、

「元金官伽耶国王が倭(列島)にいるから・・」

 それを記紀はね、単に長年続いた代理納税に過ぎない・・と解釈させてたのねんな~。でも、そんなことは絶対ないのねんよ。

 任那の調の始まりは、金官伽耶滅亡後(正確には562年の伽耶全滅後)に始まり、646年頃まで続いたのねんな・・。ま、この辺もまた色々有るのねんけんどもね~。


「 って・・そんな悠長なことを言っとる場合か~?」

って思った方は、結構歴史をご存じなのねんな~。さすがでんがな~・・。

 きっとその頃の列島人は、いきなりやってきた元金官国王ご一行様に拝謁した時・・こんなふうに声が出てしまったに違いないのねん・・

「・・あ、あなた様は、もしかして・・あ・・ま・・?」

 っつ~ところで今日のファシレのおじさん劇場は終幕だす。もう何を言いたいか、判ったよねん?・・ほな、ばいなら~。









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取り合えずのおまとめ






 ま~・・危険水域と言うかなんちゅうか・・観念的なものではあるけんども、今年の7~8月はいやな臭いがする・・と言ってた訳だけんども、さりとて最近は何も見えない状況に陥ってしもうて、何が何だか良く判らんが、一応、気を付けて欲しいのねんな~・・ってったって、気を付けたからど~なのねん!・・対処でけるのか?・・っちゅうね。何か判ったら書くけんど判らんかったらすまんの。何も起きんのが一番じゃけんね・・。

 もういい加減、倭の歴史も状況が判ってきたと思うのねんな・・。東南アジア・・っちゅうか、ま、ムーとかレムーリア(Lemuria?・・Les Mourias?)とかの子孫が日本に居ったのねん。その大陸は沈んだかどうだかしたのでっしゃろな・・。辺境の地で沈まなかった日本に居った者たちがそのまま残り、命辛々逃げ出した王族の子孫も、時を超えて、時代を超えて戻って来たのでっしゃろ。

 例えば、秦の始皇帝さん・・は知っとるよね。今はその子孫は日本じゃ「ハタさん」。「秦=ハタ」っちゅう訳。ここはま~・・簡単な話しにはならないばってん、もしそんな視点で書けるようなら・・書いてみるけんど、簡単にはいかんでっしゃろな~・・。

始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年)
は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)。現代中国語では、秦始皇帝(拼音: Qín Shǐ Huángdì)、または秦始皇(拼音: Qin shi huang pronunciation 2.ogg Qín Shǐ Huáng[ヘルプ/ファイル] チンシュフアン)と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。
by WIKI


 始皇帝さんの姓は「嬴(えい)」でんがな・・。で、この始皇帝さんを騙くらかして、3千人もの大群衆で日本に来たのが、

「徐芾(じょふつ)」

さんでんな・・。日本では「徐福」じょふくさんになっとるっちゅう話しは、前にも書いたのんで、気になる方は探してみてくなんしょ。

 で、始皇帝さんの姓は「嬴(えい)」だって話しなのねんが・・、実は日本のことを中国では何と書くか・・ちゅうとね・・。

「東瀛(とうえい)」

ちゅうねんな。「瀛州(えいしゅう)」とも言ったのねんが、

嬴→瀛

 ・・・判りやすいだしょ?


 ま、サンズイが有るか無いかの違いだけなのねんよ。つまり中国人は、日本のことを、

「東の海の秦人の国」

と理解していたっちゅうことやねん。裏を返すと、

「中国は(追い出したので)秦人の国では無い」

ちゅうことなのねんよ。


 実はここは「ひっじょ~に」・・重要な部分なのねん。そのうちに判ると思うけんどもね~。


 で、秦人っちゅうのんは、「秦さん、羽田さん、畠さん、波多さん、波田さん・・」なのねん。っちゅうか、日本人のうちかなりのお方がここに連なっとるのねん。

 でもまぁ・・「徐芾(じょふつ)」さんが連れて来たのは秦人さんも混じってたかもしらんし、元々は同じ民族と思える「斉」の子孫なのねんな。その辺については、さっきは書かんかったけんど、

えっ!?・・徐福さんは何と~!?

を読んでくだしゃんせ。


 つまり、斉が滅んで子孫は大陸を逃げ出し日本に逃れ、その後すぐに秦が滅んで子孫は大陸を逃れ、一部は日本まで到達したけんどもほとんどは半島に居付き、時を置いて日本に移住・・っちゅうコースを辿ったのねんな~。

 っちゅうか、日本は紀元前の昔から、実質、

「避難場所」


 になってたのねんよ。

 ま、人質を取った形にしといて子孫を守ってやるっちゅうか・・ね。結果的に・・っちゅう感じも有ったにせよ、その考え方が判りやすく表れてるのんが、

「天君(あまぎみ)」

でんな・・。

「天君」の正体は??
も見てみてねん。


 でね・・ようやっと「天(あま)」に話しを持ってきた訳だけんども・・ま、キリが良いのんで、とりあえずこの辺にしとこかの~。すまんの・・時間が無うてね~。

東征されたのは・・何と、あなたでしたか?!






 とうとう官僚の自殺者まで出したことに、何の責任も感じないのか、まともなコメントさえ無くただ居座るっちゅうのんはどうなんかの~。一人ならずも・・いや、そのうちにまだ出ると思ってたら二人目も出たそうでんな~・・余り話題にはなっとらんのねんが・・。

 これでとかげの尻尾を切ったつもりで反省はしとらんよ~だし、まだまだ民不在のドタバタ劇は続きそうだの~・・そもそも自殺かど~かもね~・・。しかし、いつの時代も変わらん。穢れた魂はいつまでもそのまんま。自分本位のみで周りの者の痛みなど、思う神経を持って無いのねんな~。


 安閑天皇さんは物部麁鹿火(もののべのあらかい)さんがモデルだったっちゅうことが判ると、色んな事が白昼の元になるのねん。麁鹿火さんは九州王朝・・っちゅうか、北九州を中心とする王権の長になった訳だしょ?それに少なくとも元々から、記紀における「物部大連」とか、先代旧辞本紀における物部の氏上は、ある王権の長だったのは間違い無いのねん。

 それに、先代の天皇さんで、物部麁鹿火(もののべのあらかい)さんに筑紫君磐井さんを討たせ、九州をくれてやると言ったと伝わる

「越から来た継体天皇さん」

は、少なくとも九州王朝の大王では無いっちゅうことが判るよねん?・・・だって、九州は物部木蓮子さんたる筑紫君磐井さんを討った物部麁鹿火さんの治める所になったのねんから・・。


 でね・・物部麁鹿火さん・・ちゅうか、安閑天皇さんって凄いのねんよ。も~・・スーパースターみたいな、いや、

「スサノオさんもビックリ!」

っちゅう位の実績が有るのねん。ま・・そげなこつ、言うんはファシレのおじさん位だろ~けんどもね~。


安閑天皇(あんかんてんのう、雄略天皇10年?(466年?) - 安閑天皇4年12月17日(536年1月25日?))
 は、第27代天皇(在位:継体天皇25年2月7日(531年3月10日?) - 安閑天皇4年12月17日(536年1月25日?))。

諱・諡号
『日本書紀』では、諱を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)としている(「まがりのおいねのみこ」とも読む)。
和風諡号は、『古事記』に広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、『日本書紀』に広国押武金日天皇とある。

系譜
継体天皇の長子。母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)。

皇后:春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ。仁賢天皇の皇女)
妃:紗手媛(さてひめ。許勢男人大臣の女)
妃:香香有媛(かかりひめ。紗手媛の妹)
妃:宅媛(やかひめ。物部木蓮子大連の女)
 記紀に皇子女の記述はない。『本朝皇胤紹運録』に「豊彦王(とよひこのみこ)」を挙げるが、所拠不明である。

皇居
 都は勾金橋宮(まがりのかなはしのみや。現在の奈良県橿原市曲川町か)。
なお、1889年から1956年まで存続した「金橋村(高市郡)」(現、橿原市)は、この宮号による近代の復古地名であった。金橋村がなくなった今でも駅名(JR金橋駅)や小学校名、郵便局名等々にその名を留めている。

事績
 継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。
 なお、『日本書紀』に引く「百済本記」(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞?城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという。このことから、継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする説もある(「辛亥の変」説)。
 後世、神仏習合の教説で蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多い。

陵・霊廟
安閑天皇 古市高屋丘陵(大阪府羽曳野市)
 安閑天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市古市5丁目にある古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。遺跡名は「高屋築山古墳」(前方後円墳、墳丘長122メートル)。

by WIKI


 長々とすまんの~・・。これがいっちゃん判りやすいかの~・・と思うての~。WIKIからいただいてきた文章なのねん。

「66歳にして即位したが、わずか4年で崩御」

「九州から関東にまでも及ぶ41箇所の屯倉の大量設置」

 そう。たったの4年の在位の間に、大和王朝の影響範囲内と言われる土地に「屯倉(みやけ)」を41箇所も造ったっちゅうのねんよ~。

上総 - 伊甚屯倉 -->千葉だすな・・
倭 - 小墾田屯倉、毎国田部 --> ま、色々有りなんすが九州でっしゃろな・・
河内 - 桜井屯倉、毎国田部 -->大阪すか?・・でも九州かもしれんす・・
摂津 - 難波屯倉、毎郡钁丁 --> これは下もそうだけんど、大阪・兵庫でっか?
摂津三嶋 - 竹村屯倉(上御野・下御野・上桑原・下桑原)、毎郡钁丁
安芸 - 過戸虜城部屯倉 --> 広島辺りでっしゃろな・・
武蔵 - 横渟屯倉、橘花屯倉、多氷屯倉、倉樔屯倉 -->神奈川とか・・その辺
筑紫 - 穂波屯倉、鎌屯倉 -->北九州でんな
豊 - 勝碕屯倉、桑原屯倉、肝等屯倉、大抜屯倉、我鹿屯倉 -->豊国・・でんな
火(肥) - 春日部屯倉 -->肥国
播磨 - 越部屯倉、牛鹿屯倉 --> 兵庫辺りでっしゃろか
備後(備中) - 後城屯倉、多禰屯倉、来履屯倉、葉稚屯倉、河音屯倉 -->岡山広島・・
婀娜 - 胆殖屯倉、胆年部屯倉 --> 広島でんな
阿波 - 春日部屯倉 -->徳島か・・房総か・・
紀 - 経湍屯倉、河辺屯倉 --> 紀州でんな
丹波 - 蘇斯岐屯倉 -->京都辺りでっしゃろな
近江 - 葦浦屯倉 --> 滋賀でんな
尾張 - 間敷屯倉、入鹿屯倉 --> 愛知でんな
上毛野 - 緑野屯倉 --> おそらく群馬
駿河 - 稚贄屯倉 --> 静岡辺りでんな・・
播磨三宅(損保郡越部里)-->兵庫でっしゃろな

 ま~・・九州の北から四国、山陽、畿内、東海、関東 に掛けて、九州は除くと太平洋側をそっくりいただいたと・・言うことなのねんよ。無いのは、北海道、東北、九州の北を除く日本海側、南九州・・でんな~。

 これ、

「朕に寄越せ!」

「へい!判りもうした!」

と・・使いを出して返事をもらうだけでも、相当な時間を必要とするしねん。ましてや、力ずくで攻めるとするなら・・大変な時間と兵力が無いとね~。


 つまり、屯倉(みやけ、三宅、官家)は、天皇っちゅうか大王(おおきみ)の直轄地っちゅうことでんがな~。記紀にそれ以前までの天皇さんが置いたと言われる屯倉(みやけ)の合計は20箇所以下でんがな~。ど~ゆ~こっちゃ~?

 ま~・・、継体天皇さんの長子っちゅう立ち位置の安閑天皇さんなら、

「父、継体天皇の後を引き継ぎ、ようやく、やっとの思いで41箇所の屯倉を造った」

と言えるかもしらんけんども、

「磐井君を倒し、その娘を妃にし、九州王朝王権の長になった物部麁鹿火さんが、九州から関東に直轄地を山ほど置いた!」

っちゅうのんはど~ゆ~ことなのねん・・っちゅうこっちゃねん。


 でねでね・・これも以前のブログで書いたけんどもね・・

531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去


なお、『日本書紀』に引く「百済本記」(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞?城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝がある

っちゅうのんはど~ゆ~ことなのねん?


 ま、継体天皇さんの崩御年は以前から問題になっとるのんで・・ファシレのおじさんは敢えては言わんがの~。そもそも、百済本記の記述も怪しいっちゅう話しにもなりかねんしの~。

 でもね・・これって、安閑天皇(在位 西暦531年?~536年?)さんによる九州から関東にかけての沢山の屯倉を造った事績と、安閑天皇さん=物部麁鹿火さん・・ちゅう真実?、西暦540年の新羅による任那併合=倭の任那政策失敗=大伴金村さん失脚を考えあわせりゃ~・・結論はただひとつ。

「物部麁鹿火さんによる継体天皇さん攻め!」

っちゅうこっちゃねん。それで百済本記にゃ

「又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」
(日本の天皇、および太子と皇子、531年に薨去)

と書かれたのねん!

 「日本の天皇」と百済本記に書かれたのは継体天皇さんだったのねん!天皇という称号は別にしてもその頃から「日本」という国のようなものは認識されていたのねん!それらを誰かが隠した・・隠すしか無かったのねん!それで、

「物部麁鹿火さんを安閑天皇さんと持ち上げ、継体天皇さんの長子とした!」



 どっひゃ~・・だしょ?・・継体天皇さん、太子、皇子は西暦531年頃に滅ぼされたのねんよ。歴史家は百済本記に書かれた上の内容に当たる日本天皇及太子皇子はどこにもおらんっちゅうての~~。仕事をせ~へんばってん・・。

 それに、磐井さんを「日本」の天皇さんだっちゅうての~・・そりゃ~ね~・・ちゃうちゃう・・ま~、その頃の天皇さんの称号は後付けものだから良いかもしらんが、「日本の」だけは・・無いのねん。・・ま、ここはいずれ書かせてもらうつもりだけんどもね~・・。ブログ的にはようやっと・・日本だすな~。


 ま、麁鹿火さんはスサノオさんもビツクリ・・日本武尊張りに・・、神武天皇さん張りに東征したのねん。っちゅうか、記紀の神武さんが東征したっちゅうのんはかなりの脚色が有るのねんな~。皆怯えてしもうて、大事な豊穣の土地を差し出したのねん。そんなこたぁ全く記紀にゃぁ書かれとらんのねん・・そりゃぁ・・まともにゃぁ書けんよの~。なもんで、紀は百済本記から引いたっちゅうことにして、この一大事を後世に残したのねん。・・しかし紀の執筆者よ、良くぞやってくれた!これが無きゃぁ暗黒の西暦400年~500年、意味不明の500年~700年の日本の歴史は誰にも判らんかった可能性大なのねん!

 っちゅうことでねん・・ビツクリされたとは思うけんども・・そろそろ本題、アマも書かんとの~・・ほな、またね~・・ばいなら~。

麁鹿火さんって九州を手に入れたんだしょ?・・・その2






 書き忘れたことが有るもんでね・・それにしても気まぐれでんな~・・わし・・。自分ながら嫌になってくるの~・・。数か月間もブログを書かんと思えば、続けて書き込むことも有り・・良く判らんわ・・。何でこんなことをしとるのかと思い返すと元はと言えば、「山田貢司のどこにイクのか?バカボン一家」の張本人さんの無茶振りから始まっとる・・何だかな~・・でんな~。

 物部麁鹿火さんが滅ぼしたのは、実は物部の内紛で、同族同士の争い・・つまり、物部氏が「大王」だったっちゅうことやねんな・・。

 まぁ、記紀に書かれとるように・・と言うか、それをそのまま信じたとして、神武はんが饒速日はん、ナガスネヒコはんを服従させた時、互いの「印」を見せ合って同族で有ることを確かめ合った訳やからねん。素直に言っちゃえば神武はんも皇孫ながら「物部氏」、もしくは、後に物部氏と言われる氏族と同族・・っちゅうことやね~。

 で、物部麁鹿火さんと物部木蓮子(イタビ)さんが争い、木蓮子さんが滅び、後継者の「葛子」さんは追いやられた・・もしくは滅ぼされた訳なのじゃが・・

 まぁ、「イタビ + カズラ」 で「木蓮子 + 葛子」・・「洒落だ」と書いた訳。で、もっとね・・判りやすいのんが有ったのを忘れとったのよねんな~。

 イタビは昔から漢字で木蓮子と書くのねんが・・九州では「オオイタビ」のことを「イタビ」と呼んだらしいのねんな・・。ファシレのおじさんはその辺も全く詳しくないのねんで、オオイタビとイタビがどう違うのか、違わないのかが良く判らんのねん。

 でもね・・オオイタビを漢字で書くとね・・何と!

大崖石榴

 おお、がけ(ガイ)、いし、ざくろ

っちゅうことかな~。


 つまり、大きな崖や石をよじ登るようにして生える「蔓性植物のザクロ」みたいな植物・・っちゅうことかな~と。

 でねでね・・物部木蓮子大連さんが「筑紫君磐井」だったんだしょ?・・・っつ~か、記紀はそのような見立ての上になりたっとるっつ~か、そげなこつ言~とるのはファシレのおじさんだけだけんども、

「大連木蓮子」=「大崖榴」=「筑紫君井」

「オオムラジイタビ」=「オオイタビ」=「イワイ」

正式には・・っちゅうか、「井」に昔の仮名を充てると「ゐ」だから

「オオムラジイタビ」=「オオイタビ」=「イワゐ」

っちゅう図式になっとるのねん・・。


 まぁ、古代の日本語は清音で濁らんよ~だったらしいのんでね・・「イタビ」の「ビ」はど~なるのか判らんよね~。(大連 オオムラジと訓どるのんはど~なるんかいの~・・) 「ビ」も「ゐ(うぃ)」も・・・同じだしょ?「うぃ」なら「wi」なんで、「わ行」でっしゃろ?仮に、

「 I T A B I 」 が 「I T A W I 」 になるとするならね・・これ、ど~読むんかいの~・・

I T A W I  イタウィ

 これって・・

イワウィ


と、実際に発音したのを聞いたら・・同じだよねん・・。


 つまり、

木蓮子



イワイ

と読むのねん。

 もしくは、今風に言うなら

磐井

と書いて

イタビ

と読む・・。


 まぁ、物部氏の第12代から第14代の当主の順番がグッチャグチャなのんは、持統天皇さんの時代に豪族さんたちに墓誌を提出させ、焚書したことも絡んどるとは思うけんどもね・・それに、木蓮子の読みはフツーなファシレには「もくれんこ」としか読めんけんどもね~。

♪♪ 木蓮~~の~~つ~ぼみがぁ~~ ひ~らくの~を~~ 見るたびにぃ~~♪♪

・・っちゅう訳で取り合えずの言い訳・・を・・♪♪・・置き去りに・・♪♪。

 やってくれはったね~・・不比等ちゃん・・すっげ~!・・ほな、まったね~!


麁鹿火さんって九州を手に入れたんだしょ?






 お久しぶりでんな~・・世の中はやがて訪れる混乱の前のちょっとした平穏・・みたいな感じで、北と南は仮面で顔を覆いつつ、ひきつった笑顔・・。見たく無いの~・・。ま、平和なのは良いけんどもね~。

 文書を書き換えたと某新聞社のスクープで、安倍政権の屋台骨を揺るがしかねない将来も有るようだけんどもね・・庶民にゃぁ余り関係にゃぁすな~。

「・・やったんだしょ?・・xx小学校だしょ?・・名誉校長は誰?・・決まりだしょ・・いつまでやっとるん?」

ちゅうこっちゃよねんな~。

 ま、2018年の夏、7~8月は・・特に7月、かなりヤバい感じは前々からしとったけんね~・・ちと身の振り方には気を付けにゃぁあかんよ・・。夏だ、バケーションだ、なんだかんだと浮かれてる場合じゃねえ~・・・ったって気を付けよ~もどうしよ~も無いことだけんどもね~。何が起こるんかの~・・もしかしたら誰かが止めてくれるか、思い留まるかもしらんけんど、止まったら止まったでそれで済んでしまう・・起きようとしていたことすら世に出んし、その真実すらも表にならんしの・・もし起きてしまったらその上っ面な部分だけは庶民たるわしらも知ることになるんだろうけんどもね~。ただ、311の前日まで3カ月間のような物凄い胸騒ぎ、不安と焦りみたいなものはまだ無いのんが救いかの~・・。


 そうそう、「天(あま)」について、ずいぶんとほっぽりっぱなしですまんかったのねん・・。結構めんど~なのねんな~。ま、少しずつ書こうと思っとるけんね~。

 ところで時はほぼ西暦500年頃、場所は「倭」でんがな・・。継体天皇(けいたいてんのう)さんが第26代の天皇さんとして即位したと言われとるのねん。在位は507年から531年(頃)。

 「頃」と付いとるのんは、あまり定かでは無いのねん。ハッキリせんのねんな~・・高々1500年前のことだけんどもね・・。

 能力者の「見える方々」が言うにゃ、

「・・・あら・・大王(オオキミ・天皇)さんの(直系の)血筋、絶えちゃったわ・・ど~しょ~・・」

と、自分たちがやったことを思いっきり棚に上げながら青くなった大臣・大連(マエツキミ)の嘆きが有ったそうなのねんが・・。


 そんな時に出てきたのんが「継体天皇さん」でんな~・・。ま、このブログでもずいぶん前に書いとるのんで探してみてほしいのねん。前代の「武烈天皇(ぶれつてんのう)」さんは、日本書紀には、

「極悪そのもの!」

と描かれとるのねん!・・ま~・・ホントだったら酷いものなのねん・・。さっきの話しから、まったくの嘘だろ~と思うけんどもね~。


 でね・・ま、そんな嘘っぱちな極悪非道な日本書紀の書いた部分は置いとくとして、武烈天皇さんは皇太子の時、

「物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。」
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のだそうなのねん・・。覚えとってね・・物部麁鹿火(もののべのあらかい)さんの娘、影媛(かげひめ)さんね~。

 で、何故か武烈天皇さんはたったの「8年」の在位で、子供もいないまま、崩御されたそうなのねん。ま、そこでさっきの、

「・・・あら・・大王(オオキミ・天皇)さんの(直系の)血筋、絶えちゃったわ・・ど~しょ~・・」

なのねんけんどもね・・。ここは今は突っ込まんよ~。脇道に行き過ぎてしまうからね~。


 で、大臣・大連たちは北陸の方から血筋のお方を探し出してきた・・それが継体天皇さんでんな~。判るよね~。


 北陸から出ていらした継体天皇さんは継体21年に、

「磐井の乱(いわいのらん)」

に出くわすのねん・・。新羅を討とうとして近江毛野さんを九州に派遣したものの、筑紫国造の磐井さんが通さなかったと・・それで争いになったと伝わるのねんな。

で、継体天皇さんは大連(おおむらじ・・まぁ、大将軍っちゅうところだしょ・・)の物部麁鹿火(もののべのあらかい)さんに、

「筑紫以西の統治を委任。翌年11月に筑紫三井郡にて磐井を破って処刑」
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 のよ~にさせたのねんな~・・。

 そう、

「筑紫より西、つまり九州を継体天皇さんからいただいた」

のねん。ま、細かく言うともっと東・・本州の西の端も入っとったのねんけんどもね~。つまり、

「記紀は、物部麁鹿火さんの九州統治・支配を認めている」

のねん。つまり、

「九州王朝らしきものを認めている」

のねん!物部麁鹿火さんは九州王朝の大王・・っちゅうことにならんかの~・・。


 物部麁鹿火さんは継体天皇さんの次代、安閑天皇さん(在位531年3月10日?~536年1月25日?)の時も大連として安閑天皇さんを支えたことになっちょる。

 オカシイと思わん?・・その頃の九州を手に入れてね・・文化の最先端、半島や大陸の情報や物がどんどん入ってくる地を持っていて「大連のまま・・」なんてね~。・・ま、いいわ・・。そんなことにカマッテはいられんのんで。


 でねでね・・その安閑天皇さん、継体天皇さんの長子で、母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)さん。

皇后:春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ。仁賢天皇の皇女)
妃:紗手媛(さてひめ。許勢男人大臣の女)
妃:香香有媛(かかりひめ。紗手媛の妹)
妃:宅媛(やかひめ。物部木蓮子大連の女)

記紀に皇子女の記述はない。『本朝皇胤紹運録』に「豊彦王(とよひこのみこ)」を挙げるが、所拠不明である。
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で、在位はたったの4年ほど崩御され・・次代で弟の宣化天皇さんになられたのねん・・が、ここで大問題が起こるのねんよ。

 安閑天皇さんのお妃さんに物部木蓮子大連さんが居るのねんけんど、そもそも大連は九州王朝らしき大王の物部麁鹿火さんだしょ?・・まぁ、在任中に亡くなられて代わったと考えられなくも無いけんどもね。でもね~・・

物部 木蓮子(もののべ の いたび、生没年不詳)は、古墳時代の豪族。物部氏十二世。父は物部布都久留(ふつくる)。弟に小事・多波が、子に麻佐良・宅媛(やかひめ)がいる。名は伊陀寐(いたび)と読む。

『先代旧事本紀』「天孫本紀」は、宇摩志麻治命12世の孫で、仁賢天皇の時代の大連とし、石上神宮を奉斎した、とする。また、『日本書紀』では、安閑天皇の妃に物部木蓮子大連の女宅媛をあげる。なお、安閑天皇の妃には、宅媛の他に皇后の春日山田皇女と、許勢男人大臣の女紗手媛・香香有媛の姉妹がいた。
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 つまりね~・・物部氏は、

12世 木蓮子(いたび) 娘に宅媛(やかひめ 安閑天皇妃)
13世 麻佐良(まさら)
14世 麁鹿火(あらかひ)

と言う継承になっとるのんにね・・木蓮子(いたび) さんの娘の宅媛(やかひめ)さんが安閑天皇さんの妃ちゅうことになっとるのねんよ。あり得んだしょ?

「安閑天皇さんって・・どんなに年増好きなのねん?」

 ましてや、先々代の武烈天皇さんの時代

麁鹿火(あらかひ)さんの娘、影媛(かげひめ)さんを皇太子さん(武烈さん)と大臣の息子さんで取り合いし、大臣一家を滅ぼしたことになっとるのねんから・・。これって一体、ど~ゆ~ことなのねん??


 つまりね、ここんとこは

「都合が良く無いので書き換えられた」

「良く判らないので適当に書いた」

のねんで、おそらく前者、結果として脈略が無くなってぐちゃぐちゃになってしもたのねんな~。ま、思いっきりオマケして代をずらしたとしても、

「孫娘はタイムマシンにでも乗らんと数十年前に嫁ぐことは無理」

なのねんからね~。


 で、ここはど~書き換えられたか、元はど~だったかっちゅうことやね~。記紀もまるっきり嘘を書いとるのんではなさそうでね・・。安閑天皇さんは継体天皇さんの長子っちゅうことになっとるのねんけんども、そこがまず嘘。

 安閑天皇さんこそ、実は・・

「物部麁鹿火さん」

なのねん。


「あ・ん・か・ん」
「あ・ら・か・ひ」

・・似てはおるけんどもね・・。九州王朝に気を使ったのかの~・・


 で、「磐井の乱(いわいのらん)」こそ、かなりの・・

「嘘だらけ」

なのねん。

 継体天皇さんの命令で大連の物部麁鹿火さんが筑紫君磐井さんを討ったように書かれとるけんど・・

「これは単なる物部氏の内輪の争い」

なのねんよ。

 それも物部麁鹿火さんが・・

「物部木蓮子(もののべいたび)さんを滅ぼした!」

のねん。そんでもって、娘の宅媛(やかひめ)を側室にし、息子の葛子(くずこ)さんを追い出した・・と言えるのねん。で、おそらく息子さんの葛子さんは、

「物部麻佐良さん」

なのねん・・いや、ここは自信は無いけんどもね・・これって実は

「記紀特有の嫌味な洒落(しゃれ)」

なのねん。

大辞林 第三版によると、
いたび 木蓮子
1. イヌビワの別名。
2. イタビカズラの古名。

そう・・イタビの次がカズラっちゅう訳・・。ふざけとるしょ~?・・そうやって物部氏を貶めたのかもしらんね~。で、その後は物部氏も力を削がれ、物部守屋さんが蘇我氏に討たれ、石上(いそのかみ)氏と名乗りを変えて行くのねんな~。まぁ、北部九州の石人石馬・・を見れば、

石上=石神

を想像させるよねん?


 ちゅうことで・・ちょっとだけ・・書いてみたけんども・・ホント、どこから書いたら良いのか判らんの~・・。ほんじゃまた!
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Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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