足仲彦(仲哀天皇) その5






 余りにスピードを出し過ぎたかの~~?・・ちょっとついては来れんようじゃし、ところどころで休憩を挟まにゃいかんかとは思うけんど、まんだまんだ・・先が長いでの・・。思いやられるこっちゃねんな・・。

 新羅の初期の王は、何故か「倭」の有名人にソックリ・・っちゅうか、そのもののお名前をいただいとるのねん。昨今は半島の連中も中国人に輪を掛けたようなヒステリックさで、

「日本のものは韓国のもの!」

とばかり、何でもかんでも自分のものにしたがっとるけんど、

「そ~ゆ~ことを人間として恥ずかしい・・と思うかどうか・・」


だしょな・・。日本から仏像を盗んで帰国しても罰せられることなくヒーロー扱い・・・挙句の果てには裁判所まで、

「仏像は昔、朝鮮から盗まれたもの」

と、まさに見て来たかのような独善的判断でね・・。呆れてものが言えんが、ま・・日本人も段々毒され、似て来とるんじゃないかの~。


 彦五瀬命はんが新羅第一代の王、第二代が何故か住吉三神の中筒男さん、第三代が彦五瀬はんの弟、稲飯命はんで稲荷神・・あ、ここはいずれ書くのんでの・・、で第四代が神武天皇はんのお子さんで手研耳命はん・・っちゅうことやったね・・。


「・・ファシレのゆ~ことも判らんでも無いけど、脱解尼師今(だっかいにしきん)が手研耳(たぎしみみ)っちゅうのは、ちとツラくね?」


 そ~かの~?・・脱解は「タケ」だしの、手研も普通に読んで「タケン」・・・ま、「武内宿祢」さんも「タケ + ウチノスクネ」だしょ?・・同じなのねんな・・。


 じゃ、ま、そ~ゆ~ことをゆ~なら、こ~ゆ~のはど~かの?

 手研耳はんは神武はんの息子はんなのねんが、実はの・・神武はんの奥方はんをの・・つまり、自分の母親、もしくは兄弟の母親をの・・嫁に迎えておるのねん。

 今の時代やったらの

「ぬわに~・・!やっちまったな~!」


・・と、とんでもないこと・・になってまうけんど、これは風習もあっての・・家長(かちょう)が無くなると、他の兄弟が成人していない場合は、一番上の息子が母親を奥さんに迎えたのねんな・・。ま、そ~ゆ~大族になるとの・・奥方は一人じゃないしの、それに通い婚だったじゃろうしの・・。

 でね・・その神武はんの元の奥方はんであり、手研耳はんの奥方はんになられたと思われるのんがの・・

「吾平津媛(あひらつひめ)」

はんでんな・・。


 ま、ここは中々に微妙なところでの、吾平津媛(あひらつひめ)じゃなくて媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ の みこと)・、伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)が奥方っちゅう見方もあるからの・・。特に記紀が饒舌に語る部分はの・・逆の見方をしたり、実際に無かったことが有ったように見せかけとる・・と見ないといかんからの・・。でも、

「x 奥方」
「O (実の)母親」

としても、どっちでもえ~ねん。「ホの一族」と「阿多」が肝心なんじゃから・・ま、良しとしといての・・で、


吾平津媛(あひらつひめ、生没年不詳)
 は、古代日本の人物。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)と記される。『日本書紀』によれば、日向国吾田邑の人である。

系譜
 記紀には両親についての記載はない。『古事記』によれば、「阿多之小椅君」の妹。同じく『古事記』には火照の子孫に「隼人阿多君」がある。なお、『古代豪族系図集覧』によれば、兄に阿多小橋君の祖の天曽利がいる。
 上述の「阿多之小椅君」は、『日本書紀』に火闌降の子孫としてみえる「吾田君小橋」と同一と思われる。そのため、同じく『日本書紀』に火闌降の子孫としてみえる隼人との関連が指摘される。

夫:神武天皇 - 『日本書紀』
初代天皇(ただし当時は即位前で、太子だった)。なお、吾平津媛を火闌降の娘とする系図があり、それに従えば、神武天皇と吾平津媛とはいとこ違いの関係になる。

子:手研耳(たぎしみみ、『古事記』:多芸志美美) - 『日本書紀』
神武天皇崩後、皇太子神渟名川耳に対する反逆(タギシミミの反逆)を起こし殺害された。

子:岐須美美命(きすみみ、『古事記』) - 『先代旧事本紀』には研耳。『日本書紀』には記載がない。

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 ま、こちらも「ホの一族」でんな~・・。

 でね・・じゃ、脱解尼師今(だっかいにしきん)さんの奥方はんは、何ちゅうお名前かっちゅうとね・・。

「阿孝(アヒョ)夫人」

っちゅうねん。・・ま、いつものとおり、やらんでも・・判るよねん?・・でもやっぱ、やる~?




日本語
発音
音読み
呉音 :
漢音 :
訓読み
きた、おか、あわ、あず、ほとり、おもね-る、な、くま

中国語
ローマ字表記
普通話
ピンイン: ā (a1), ē (e1)
ウェード式: a1
広東語
イェール式: a3, o1

朝鮮語
ハングル: 아, 옥
音訓読み: 언덕 아, 아름다울 아, 알랑거릴 아, 누구 옥
文化観光部2000年式: a, ok
マッキューン=ライシャワー式: a, ok
イェール式: a, ok




日本語
発音
音読み
呉音 : キョウ(ケウ)(表外)
漢音 : コウ(カウ)
名乗り
たか、たかし、のり、よし

中国語
ローマ字表記
普通話
ピンイン: xiào (xiao4)
ウェード式: hsiao4
イェール式:
注音符号: ㄒㄧㄠˋ
広東語
ピンイン:
ウェード式:
イェール式: haau3
閩南語
POJ: hàu, hà
閩東語
平話字: háu, há
客家語
白話字: hau
呉語
ピンイン: hau3, shiau3
中古音: xæwH
上古音: *qʰˁ‹r›u-s {*qʰˁ‹r›uʔ-s}

朝鮮語
ハングル: 효
文化観光部2000年式: hyo
マッキューン=ライシャワー式: hyo



だしね・・で、じゃ、こちらの吾平津媛はんの場合はど~かっちゅうとね・・?






日本語
音読み
呉音 : グ
漢音 : ゴ
訓読み
われ、わが、、あが


日本語
発音
音読み
呉音 : ビョウ(ビャゥ)
漢音 : ヘイ (ヘィ)
慣用音 :ヒョウ( ヒャゥ)
訓読み :
常用漢字表内 : たいら、ひら


 だから、阿孝(アヒョ) と吾平(アヒョウ)・・なのねん。


「・・・あひょ~!・・やっちまったな・・!」

「男は黙って橿原神宮(かしはらじんぐう)!」

「女も黙って吾平津神社 (あひらつ じんじゃ 宮崎県日南市)!」


 これなら・・グーの根も・・出んだしょ?・・そ~なのねん・・そ~ゆ~ことなのねん・・ん?・・ど~ゆ~こと?


 ま・・の~・・そんな具合での・・第五代の婆娑尼師今(ばさ にしきん)さんもの、詳細は省くけんども、

ホデリ(『古事記』では火照)
は、日本神話の『古事記』に登場する神。山幸彦と海幸彦の説話に登場し、一般には海幸彦(海佐知毘古、うみさちひこ)の名で知られる。隼人の阿多君の祖神とされる。
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 の、「火照命(ほでりのみこと)」と読みがほぼ同じ、「日本語の ホ ・中国語の po4 + 中国語の suō (suo1)」 で(ホスオ=ホショウ)」と読めるのねんな・・。


 ま、そ~ゆ~ことなのねん・・


「・・だから・・(*・`ω´・)ゞ ど~ゆ~ことなのねんよ!?」



 あんまりに長い文ばかりじゃ、さらに読んでもらえんようなんでの・・今日はこの辺にしといたろか~。ほな。・・仲哀天皇はん・・ど~したんかいの~・・・すまん・・
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足仲彦(仲哀天皇) その4 ついに大きく脱線編






 彦五瀬命(ひこいつせのみこと)さんは神武天皇さんの兄とされ、神武東征と語り継がれたけんども、実際は、

「彦五瀬東征」

であったのでありんすが、紀州で矢傷が元で亡くなられたもんでの・・代わりに弟の神武はんが成し遂げた・・っちゅう美談なのねんな・・。それなりの違いはあるにせよ、古事記も日本書紀もね・・さしたる違い無く、そのように書いとるのねん。


 でもね・・新羅王の第一代の赫居世居西干(日本語読み かくきょせい・きょせいかん・朝鮮語読み ヒョッコセ・ゴソガン)さんの音霊を紐解きゃ・・

✖「ヒョッコセ・ゴゾガン」
◎「ヒコ イセ イセカン」

で有って、ヒョッコセ は ヒコイセ を繋げて発音しとるだけ・・・っちゅうことが判るのねん。・・・だよね~・・。


 じゃぁ、なんで記紀は彦五瀬さんのお名前の読み方まで、「ヒコイツセ(のミコト)」 と訓ませたのかの?

 そりゃぁ・・

「ヒコ イセ の ミコトじゃ困るから・・ヒコ イ(ツ)セにした」

っちゅうことは・・判るよね~~。

 ♪♪ ひふみよいむなや・・・ って、聞いたことが有るかと思うけんども、ま~・・気楽に言ってしまえば・・の、

♪♪ ひ~、ふ~、み~、よ~、いつ、む~・・・になる訳での・・

 でも、正式にゃ・・「い」で有っての、「いつ」では無いのねんよ。「いつ」はラフな場合じゃけんの・・。「つ」を入れたきゃ・・の・・

「五瀬彦命(いせつひこ のみこと)」

とせにゃ・・いかん・・やろ?


 でもね・・記紀はね・・「いせつひこ」とは、絶対に書きたく無かったのねん。さらには、

「彦を頭にせんといかん!」

事情もあったのねんよ。

「五瀬命(イセのミコト)」

じゃぁ・・いかんのねん。伊勢神宮・・いんや、あそこは単に「神宮」だけんども、地名が「伊勢」やから・・ね。・・ね?・・いかんでっしゃろ?・・遺憾なのねん。


 ましてね・・ 赫居世 居西干 = ヒョッコセ・ゴソガン = ヒコイセ・イセカン なんてね・・してしまうとね・・彦五瀬伊勢神・・になってまうのねんな・・いや~・・これはいかんだろ・・絶対に・・いかんのねん・・・あれっ?


 それにね・・第二代は取り合えず飛ばして、第三代の新羅王さんは誰だっけ?・・儒理尼師今 さんだよねん。

erh(いあ) + i (い) =稲飯命で、なんとまた神武はんのご兄弟で、

「我が先祖は天神、母は海神なのになぜだ!」

と叫んで、剣を持って入水した・・などとね・・、まさに見て来たようにね・・演劇され・・いや、伝わってるのねんが、何とこれは・・

「稲荷神」

だったよね~・・でも、なんでそうなんか?・・は書いて無かったかな・・それはね・・


儒理尼師今 治世
 28年11月、役人に命じて国内の寡婦・寡夫・独り身の者・老人などに食料を与えて養ったため、隣国から新羅に移入するものが多かった。

 32年、元の六村(六部)の名を改めて、それぞれに姓を与えるとともに、17等の官位を整備したとされる。

 36年、楽浪の兵が北辺に攻め入り、朶山城(京畿道安城市二竹面)が奪われた。翌37年に高句麗の大武神王が楽浪を攻め滅ぼすと、楽浪の民5千人が新羅に流入した。これらの民は六部に分けられて住まわされた。

 40年9月、先に楽浪から独立していた濊の治める華麗県・不耐県が新羅の北辺に攻めてきたが、貊国が出兵してこれら二県の兵を打ち負かした。儒理尼師今はこのことを喜んで、貊国と好を通じることとした。42年8月には貊国の首長が禽獣を献上してきた。『三国遺事』によれば、この年に伊西国を討滅し、高句麗から侵攻されたとする。

 57年9月に在位34年にして病に倒れ、脱解を王位につけるように訓示を残して10月に死去した。父南解次次雄と同じように、始祖赫居世の陵である虵陵(現在地未詳)の域内に葬られた。

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稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)
 は、稲を象徴する穀霊神・農耕神。「稲荷」とは食物の神(ウカノミタマ)、キツネ(御食津神)、油揚げ、稲荷寿司、旅芸人が町回りで立てる細長い旗などを指す語。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)、お稲荷様、お稲荷さんともいう。

 「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。もとは古代社会において、渡来民の秦氏から伝わった氏神的な稲荷信仰であり、秦氏の勢力拡大によって信仰も広まっていった。本来の「田の神」の祭場は狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の穴)だったと推測されるが、近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。

 五穀をつかさどる神・ウカノミタマと稲荷神が同一視されることから、伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社ではウカノミタマを主祭神としている。

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 っちゅうこちゃねん。ま・・判らんよね~・・良いのねん。後で・・判ってくるのねんから・・先の長い・・話しなのねんな・・。

 ま、少なくともね・・稲荷は元はウカノミタマさんじゃぁ・・無いのねん。後から色々と習合してもうての・・今のオキツネはんの稲荷神社になったのねんよ。元は、「稲飯命」なのねんな~・・。いんや、ファシレのおじさんは、新羅の歴史として伝わるものが正しい!・・なんてね・・これっぽっちも思ってないのねんよ・・これもずっと後でね・・説明するつもりなのねん。その前に明らかにせんといかんことが山ほど・・あるのねんから。


 じゃあね・・ま、第三代まではファシレのおじさんの言うとおりでも良いと仮定しといてね・・第四代はどうなる?っちゅうこっちゃよねん?




脱解尼師今(だっかい にしきん)
 は、新羅の第4代の王(在位:57年 - 80年)で、姓は昔(ソク)、名は脱解(タルヘ)。吐解尼師今(とかい にしきん、토해 이사금、トヘ・イサグム)とも記される。第2代の南解次次雄の娘の阿孝(アヒョ)夫人の婿。新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。

即位まで(誕生説話)
 『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀は、誕生及び即位については以下のように記している。
 倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。

 やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。

 長じて、第2代南解次次雄5年(8年)に南解次次雄の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。

治世
 百済の多婁王と蛙山城(忠清北道報恩郡)をめぐって度々戦争があった。また73年、倭人が木出島に進入してきたが、角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した。77年には伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官)に引き上げた。

 65年には後の金氏王統の始祖となる金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)を瓠公が発見し、跡継ぎとして養育することとなった。実際には脱解尼師今の後は儒理尼師今の子が王位を継いで婆娑尼師今となり、儒理尼師今系の4人の王の後で脱解尼師今の孫が伐休尼師今が王位につくという複雑な継承となり、金氏の王統が直ちに立てられたわけではなかった。詳細は朝鮮の君主一覧#新羅の王系図参照。在位24年にして80年8月に死去し、首都金城(慶州市)の北壌井丘に葬られた。

姓名の由来
 『三国遺事』によるとはじめ姓名がわからなかったので、箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、という。

 出自
 脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などに比定する説があり、上垣外憲一は、神話である以上、他系統の伝承が混ざっているだろうと述べた上で、脱解は丹波国で玉作りをしていた王で、交易ルートを経て新羅にたどり着いたというのが脱解神話の骨子であるとし、神話の詳細な虚実は措くとしても、昔氏は倭国と交易していた氏族だと推測できるとした。一方、韓国では『三国遺事』にある龍城国を先住民族アイヌの部族国家とみて、脱解をアイヌとみる説もある。

by WIKI



 すまんの~・・文字だらけ、WIKIの引用だらけで、つまらんだしょ?・・でもの・・最低限の情報は判っとらんとの・・説明のしようが無いねん。


 ま、脱解はんはもう、倭人だっちゅうことでね・・決着が付いとるようなのねんが、これじゃぁ何も詳細には判らんよね?

 でね・・前の記事のように、詳細に何語だからこう発音するのねん・・と説明しても良いけんど、また見辛くなってまうけん、ずいぶんと端折るけんど、

脱解(タケ・タゲ・タカ) と読めるよねん?南解次次雄がナカツツオなら、タカ・・と読みたいところだけんど、ここはの、一応、

「タゲ」

とね・・。


 するって~とこりゃまた不思議なことにの・・神武はんの実の息子はんが出てくるのねんよ・・困ったもんじゃの~・・・


手研耳命(たぎしみみ の みこと、『古事記』では多芸志美美命、生年不詳 - 己卯年11月)
 は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。二人の弟に対する反逆(手研耳の反逆)を起こしたとされることで知られる。

系譜
『日本書紀』によれば、神武天皇(初代天皇)の第1皇子である。母は吾平津媛。同書によれば、異母弟に神八井耳命および神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇(第2代天皇))がいる。

妻:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ の みこと、伊須気余理比売命)
手研耳命の父である神武天皇の皇后。なお、この婚姻は『古事記』のみの所伝である。

by WIKI


 そう、神武はんの次代の天皇はんになられる弟たちを殺そうとして、逆に返り討ちにあってもうた・・あの「たぎしみみ」はん・・なのねん。

「ん?・・たぎしみみ であって、たげ・たぎ じゃぁねえしょ?」


 ほ・・ま、そうなのねんが、「みみ」は尊称みたいなもんでの・・その「みみ」を引っ張り出すためにの、「し」がついとるもんでの、本名?は「たぎ、たげ、たけ、たき」なのねんよ・・「武」もタケだったりタケシだったりするしょ?・・同じようなもんと思ってもろて結構なのねん・・ま、ここはクドクドと説明はせんのねん。でもね・・ここで重要なのんは・・


「第四代の新羅王さんは、昔氏(しゃく し)で有り、それまでの王は朴氏(ぼく し)」

っちゅうことやねんな~。


 ま、これも答えを言っちゃった方が楽なのねんから、先に言わせてもろうての・・調べたいお方は自身でお調べいただくっちゅうのんが、話が早いかもしれんしの・・。

 朴氏(ぼく し)は今の朝鮮語じゃぁ「パク」さん・・・ま、日本語じゃぁ「僕(ボク)」かもしれん・・が、

「 朴は ほう 」

なのねん。ホウノキ、朴木の「ほう」なのねんよ。だからの・・

「朴は火で豊!」

なのねんな・・。

 ホノニニギのホ、火・・なのねん。ホの一族がいっぱいいらしたじゃろ?ホスセリ、ホオリ・・・・神武はんと言われておる方も、爺様と同じ、ヒコホホデミじゃ・・。


 じゃぁ、昔氏っちゅうのんは何なのかの?・・昔だから「シャク」じゃろ?・・だから、磯城(シキ)王朝の磯城を一字での・・表したのねん。中国語(広東語)だと sik1(シク)、現朝鮮語だと seok, chak (セク シャク?)・・かの・・。判るよね~・・。


 で、磯城王朝っちゅうのんは・・とはまだ言えんのねんな~・・。話しが飛び過ぎてまうのねん・・。それにの、こんな文字だらけのブログは誰も見んじゃろ~から・・さっさとの・・。ほな、今日のとこはこんなところで許しといたろ・・。じゃぁ・・またね~。

足仲彦(仲哀天皇) その3






 大体にして、記紀が饒舌に語る物語は・・いい加減な作り話がほとんどだっちゅうことはね・・どうやら間違い無いと感じるだしょ~・・?。出雲振根の話しにしても、紀は弟の飯入根を騙し討ちにしてね・・出雲人同士で争い、最後は朝廷に成敗されたっちゅう・・勝者の勝者による勝者のためのね・・ものの見事な勧善懲悪の物語に仕立てとるのねん。

 出雲の口伝によると・・んなこたぁ・・全く無く、物部氏の東征時にどちらも戦死したっちゅうことになっとるのねん・・。さぁ・・どっちが本当かの・・はたまたもしくは、全く違うストーリーだったのかもしらんが、

「・・だれがどう考えても出雲の口伝が真実に近い」

と思うに違いないのねんな~・・で、おそらくその通りじゃろうての。

 仲哀天皇さんと持ち上げられた仲津彦さんを取り巻く記紀の物語はさらに壮大での・・。神掛かった神功皇后さんに武内宿祢さんがサニワになり仲津彦さんに琴を弾くよう迫ったが、降りた神さんを信ぜずに亡くなられてしまったと伝わるけんど、

「・・んなもん、誰が見て来たんじゃ?」

「誰がバラしたのかの~・・天皇さんの死をずっと秘匿しといたはずなのにの?」

 作り話・・見て来たような嘘を言い

でんな~。


 でね・・。新羅の第二代大統領・・じゃなかった、王とされておる、「南解次次雄(なんかいじじゆう)」さんは、

「南解次次雄 --> 中筒男 と読めるじゃろ?」

とね・・書いたのねんが、「読めん!」っちゅうお方もおろうがの・・心を自由にしての・・再度トライしてみりゃ、「・・・読めんこともない・・」っちゅうか、「ま、読めるかも・・」となるはずなんじゃがの・・。

 次次雄 ちゅうのんは、

王の称号
『三国史記』及び『三国遺事』では金大問(8世紀の新羅の学者)の解説として、「次次雄」は「慈充」ともいい、巫(シャーマン)を表す語とし、鬼神に仕えるシャーマンへの畏怖から転じて尊称になったとする。また、こうした称号に現われることから、新羅初期の社会はシャーマニズムの支配する部族社会であったと見られている。
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 っちゅうことにして納得したような気になっとるのねんが、その頃はまだ「新羅」っちゅう国すら存在せんで、徐羅伐(ソラボル)、徐伐(ソボル)、斯羅(シラ)、斯盧(シロ)と名乗っておっての・・辰韓の地の10国も有ったっちゅう内のひとつの国に過ぎんかったはずなのねん。二代目じゃからの・・国なんぞ全く安定しとらん。それに馬韓の王が辰韓諸国の王を兼ねて居ったっちゅうことが真実のようだしの・・・。馬韓じゃぁシャーマンは「天君」じゃけんの~・・。次次雄がシャーマンで王号のひとつなら、何で一代で尼師今になってしもうたのかの?

1. 赫居世居西干(前57-4)
2. 南解次次雄(4-24)
3. 儒理尼師今(24-57)
4. 脱解尼師今(57-80)
5. 婆娑尼師今(80-112)

 それにの・・初代の居西干(前57-4)と第三代の尼師今(24-57)を比べりゃぁ・・誰でもの・・

「きっと同じ発音なんだろな~・・」

っちゅうことは想像できるだしょ?「イセカン」「イセキン」みたいな・・ね。だから次次雄が王の称号替わりだって言われてもの・・全く説得力なかろう?


 でねでね・・ま、中筒男さんはまだ良いとしてもね・・ファシレのおじさんにとっちゃ、この新羅の初代から数代のお名前はの~・・どうも大問題を含んどると感じるのねん。じゃ、行ってみよっか~・・

 じゃぁまんず初代の 赫居世居西干さんだすな・・ちょうど紀元を挟んでの登場だっせ・・。


赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん、紀元前69年? - 後4年 )は、斯蘆国の初代の王(在位:紀元前57年? - 4年)であり、姓を朴、名を赫居世とする。

建国神話
 『三国史記』新羅本紀によれば、辰韓の今の慶州一帯には古朝鮮の遺民が山合に住んでおり、楊山村(後の梁部もしくは及梁部)・高墟村(後の沙梁部)・珍支村(後の本彼部)・大樹村(後の漸梁部もしくは牟梁部)・加利村(後の漢祇部)・高耶村(後の習比部)という6つの村を作っていた。この六つの村を新羅六部と呼ぶ。

 楊山の麓の蘿井(慶州市塔里に比定される)の林で、馬が跪いて嘶いていることに気がついた高墟村の長の蘇伐都利(ソボルトリ)がその場所に行くと、馬が消えてあとには大きい卵があった。その卵を割ると中から男の子が出てきたので、村長たちはこれを育てた。

 10歳を過ぎるころには人となりが優れていたので、出生が神がかりでもあったために6村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は13歳であり、前漢の五鳳元年(前57年)のことという。即位するとともに居西干と名乗り、国号を徐那伐(ソナボル)といった。

 王となって5年、閼英井の傍に現れた龍(娑蘇夫人)の左脇(『三国史記』では右脇)から幼女が生まれた。娑蘇夫人がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英と名づけた。成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。閼英夫人は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した。
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 卵から生まれはったのねんな~・・半島の神話はこれが多いのねん。ま、出雲の近辺にもの・・鶏の卵は絶対に食べんっちゅう地域もあるがの~・・現首相さんは・・どうなんかの~・・。


 でね・・赫居世居西干さんは日本語だと「かくきょせい きょせいかん」だっちゅう訳やけんど、現朝鮮語だと「ヒョッコセゴソガン」と読むらしいのねんな・・。ま、ファシレのおじさん的にゃぁ・・

「・・そんな読み方する訳なかろ・・」

っちゅうことでの・・いつものように・・やってみよ~かの・・。


日本語
音読み
呉音 : キャク
漢音 : カク
訓読み
あかい、かがや-く

中国語
ローマ字表記
普通話
ピンイン: hè (he4)
ウェード式: ho4
広東語
イェール式: haak1

朝鮮語
ハングル: 혁
音訓読み: 불 이글이글할 혁, 빛날 혁, 성할 혁
文化観光部2000年式: hyeok
マッキューン=ライシャワー式: hyŏk
イェール式: hyek


 ま、現朝鮮語では「ヒョク」みたいな感じかの・・最後に子音の「K」が入るのんが・・重要なのねん・・。じゃぁ・・次は?




日本語
音読み
呉音 : コ(表外)
漢音 : キョ
訓読み
常用漢字表内
-る
常用漢字表外
お-る、ぐ、すえ、おき

中国語
ローマ字表記
普通話
ピンイン: jū (ju1)
ウェード式: chü1
広東語
ピンイン:
イェール式: geui1
閩南語
POJ: ku
客家語
白話字:
呉語
ピンイン: ciu1, ke1
中古音: *giu

朝鮮語
ハングル: 거, 기
音訓読み: 살 거
文化観光部2000年式: geo, gi
マッキューン=ライシャワー式: kŏ, ki
イェール式: ke, ki

 居る・・は、日本語だと「おる」か「いる」じゃけんの・・この場合は母音の「i」がの・・必要なのねん・・覚えておってくなんしょ・・。




日本語
音読み
呉音 :
漢音 : セイ
訓読み
常用漢字表内

常用漢字表外
さんじゅう、ゆ、ゆき、とし

中国語
ローマ字表記
普通話
ピンイン: shì (shi4)
ウェード式: shih4
広東語
イェール式: sai3
閩南語
POJ:
客家語
白話字: sṳ
呉語
ピンイン: sy3

朝鮮語
ハングル: 세
音訓読み: 누리 세
文化観光部2000年式: se
マッキューン=ライシャワー式: se
イェール式: sey

 これはもう・・「世」は「せ」じゃろ?・・日本語も中国語も朝鮮語も・・の。じゃぁ繋げてみよっか~?朝鮮語だけでも良いのねん。

hyŏk ki se

 何と読むかの・・でも朝鮮風に繋げて読んじゃいかんのよ・・日本語風に一文字一文字、ちゃんと切らんと・・の・・やってみよっか・・。


Hyŏkk I  Se

 そう・・こうなる・・

「ひこ い せ」

 「ひこいせ」なのねん。どっかで聞いたお名前じゃろ?・・そうなのねん。





「彦五瀬命!」


彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
 は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では「彦五瀬命」や「五瀬命(いつせのみこと)」、『古事記』では「五瀬命」と表記される。神武天皇(初代天皇)の長兄である。

記録
 『日本書紀』・『古事記』によると、鸕鶿草葺不合尊と、海神の娘の玉依姫との間に生まれた長男である。弟に稻飯命・三毛入野命・神日本磐余彦尊(神武天皇)がいる。

 彦五瀬命は弟たちとともに東征に従軍したが、浪速国の白肩津(あるいは孔舎衛坂)での長髄彦との交戦中に長髄彦の放った矢に当たった。彦五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東に向かって)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西に向かって)戦おう」と助言し、一行は南へ廻り込んだ。

 しかし紀国の男之水門に着いた所で、彦五瀬命の射られた傷が悪化した。この時に彦五瀬命が「賊に傷つけられて死ぬとは」と雄叫びしたので、その地は「雄水門(おのみなと、男之水門)」というとする。その後『日本書紀』によると紀国竈山で亡くなり、竈山に墓が築かれたという。ただし『古事記』では紀国男之水門で亡くなったとする。
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 あら?・・神武はんのお兄はんやないの~?・・こげなところで何やっとん?・・いつのまに新羅の第一代の王様になってしもたん?・・・わて、びっくりやわ~・・

 そう、何故かの・・新羅の初代に、あの神武東征時に射られた矢が原因で無念の戦死を遂げられたと伝わる「彦五瀬」はんなのねん。

 新羅の王には弟の「稻飯命」がなったっちゅうことで、新撰姓氏録にゃぁ・・新良貴(しらき)氏 、彦波瀲武草葺不合尊男稲飯命之後也 是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王者組合 と書かれての、皇別に分類されとるのねん。

 新良貴(しらき)さんのその後はの~・・・不明なのねんが、ど~なったのかの~・・って、


「そんな悠長なことを言っておる場合か~?」


でんな~・・。居西干は王の称号じゃから、そのまんまで良いのよ~。・・良し!・・次も行っちゃお!


儒理尼師今(じゅり にしきん、生年不詳 - 57年10月)
 は、新羅の第3代の王(在位:24年 - 57年)であり、姓は朴。先代の南解次次雄の長男。王妃は日知葛文王の娘(『三国史記』新羅本紀・儒理尼師今紀の分注には王妃の姓を朴、許婁葛文王の娘とする)。『三国遺事』では王名を弩禮尼叱今(どれい にしきん、노례 이사금)とする。

即位まで
 紀元24年9月以降に南解次次雄が死去したとき儒理は太子の位にあったが、妹婿であり大輔の位にあった昔脱解(後の脱解尼師今)が徳望を備えていたので脱解に王位を譲ろうとした。脱解は「聖人は歯が多いと聞きます。あなたと私とで餅を噛んでみて、歯の数を調べてみましょう。」と答え、儒理のほうが歯が多かったので国人は儒理を王に立て、尼師今と号した。
治世
 28年11月、役人に命じて国内の寡婦・寡夫・独り身の者・老人などに食料を与えて養ったため、隣国から新羅に移入するものが多かった。
 32年、元の六村(六部)の名を改めて、それぞれに姓を与えるとともに、17等の官位を整備したとされる。
 36年、楽浪の兵が北辺に攻め入り、朶山城(京畿道安城市二竹面)が奪われた。翌37年に高句麗の大武神王が楽浪を攻め滅ぼすと、楽浪の民5千人が新羅に流入した。これらの民は六部に分けられて住まわされた。
 40年9月、先に楽浪から独立していた濊の治める華麗県・不耐県が新羅の北辺に攻めてきたが、貊国が出兵してこれら二県の兵を打ち負かした。儒理尼師今はこのことを喜んで、貊国と好を通じることとした。42年8月には貊国の首長が禽獣を献上してきた。『三国遺事』によれば、この年に伊西国を討滅し、高句麗から侵攻されたとする。
 57年9月に在位34年にして病に倒れ、脱解を王位につけるように訓示を残して10月に死去した。父南解次次雄と同じように、始祖赫居世の陵である虵陵(現在地未詳)の域内に葬られた。
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日本語
音読み
呉音 : ニュウ(表外)
漢音 : ジュ

中国語
ローマ字表記
普通話
ピンイン: ěr (er3), nǎi (nai3), rú (ru2)
ウェード式: erh3, nai3, ju2
広東語
イェール式: yu4
閩南語
POJ: jû
客家語
白話字: yî
閩東語
平話字: ṳ̀
呉語
ピンイン: zy1

朝鮮語
ハングル: 유
文化観光部2000年式: yu
マッキューン=ライシャワー式: yu



日本語
音読み
呉音 漢音:
常用漢字表外
みち、まろ、まさし、まこと、ひ、のり、に、とおる、ただし、さとる、おさむ、ことわり、よし、あや

中国語
ローマ字表記
標準中国語
ピンイン: (li3), yá (ya2)
ウェード式: li3, ya2
広東語
イェール式: lei5
閩南語
POJ:
客家語
白話字:
閩東語
平話字:
呉語
ピンイン: li2
中古音: *liə̌

朝鮮語
ハングル: 리 > 이
音訓読み: 다스릴 리
文化観光部2000年式: ri > i
マッキューン=ライシャワー式: ri > i
イェール式: li > i


 さてと・・ど~しよ~かの~・・ここをちゃんと書くとなると、何話にもなってしまいかねん・・ファシレのおじさんの寿命が尽きる前までにゃ、何とか終わらせんといかんしの・・ちと端折るかの・・


稲飯命(いないのみこと)は、
 記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。『日本書紀』では「稲飯命」や「彦稲飯命」、『古事記』では「稲氷命」と表記される。神武天皇(初代天皇)の兄である。

記録
 『日本書紀』・『古事記』によれば、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と、海神の娘の玉依姫との間に生まれた第二子(第三子とも)である。兄に彦五瀬命、弟に三毛入野命・神日本磐余彦尊(神武天皇)がいる。

 『日本書紀』では、稲飯命は神武東征に従うが、熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さいもち)の神」になったとする。

 『古事記』では事績の記載はなく、稲氷命は妣国(母の国)である海原へ入坐としたとのみ記されている。

後裔氏族
 『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
右京皇別 新良貴 - 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男の稲飯命の後。続けて「是出於新良國。即為國主。稻飯命出於新羅國王者祖合」と記し、稲飯命は新羅王の祖であると伝える。
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 ま、さっきも同じことを書いたけんね・・「新撰姓氏録」じゃ新羅王の子孫じゃ言うとるのんに、記紀はそうは書いとらん。神武東征で亡くなられた、もしくは亡くなったに違い無いと思わせ振りな書き方をしとる・・ん?・・でも、てんで稲飯命とは読めんってか~?


中国語 erh3 + 朝鮮語 i

「いあい・いあひ」


 それに yu の発音は「ゆ」ともするがの、子音の「y」一文字で「い」とも発音したりするのでの・・「いうい」「いうひ」ともなろうしの、「理」は「り」でありんすが、

「いあり、いうり」

でも良いしの、

「nai でも・・(い)ない、(い)なり」

でも良いのねん。


 だって・・

稲荷 だから・・」


 そうなのねん。第三代新羅王として名前の伝わる「儒理尼師今(じゅり にしきん)」さんは、神武天皇はんの兄弟の稲飯命(いないのみこと)はんであり、「稲荷(いなり)」なのねん・・。


 ま・・よかろ~・・今日んとこはこの位にしといたろか・・仲哀はんのことは書けんかったけんど・・すまん!っつ~ことで・・またね~・・。

足仲彦(仲哀天皇) その2






 ま、足仲彦さんの天皇名、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)さんっちゅう漢風諡号(かんふうしごう)は、西暦700年代中頃に淡海三船(おうみのみふね)さんによって考えられたとされとるのねんけんども、

「仲哀」

でありんすから・・の~。文字からも溢れとるの・・・悲しみっちゅうか哀れっちゅうか・・


「人のなかの哀しみの天皇」



なんて名前にされちゃったのねんで。


 ま、それをお考えになった淡海三船さんだって、元は「大友皇子(弘文天皇)」さんのひ孫でやんすから、「天智天皇」直系の正当なる血筋のお方なのねん。それに、漢風諡号を歴代の天皇さんに付けたのは良いけんど、

「・・やりやがったな?」

と因縁を付けられ・・・いんや、つけたのはもちろん藤原氏だろうけんども、地方官を転々とさせられたようなのねんな~・・。家族にとっちゃその方が哀しいかもしらんの~・・。ま、そんなこたぁ~とりあえずはど~でもええんよ。


 でね。出雲の口伝だと、

「仲哀天皇さんは神功皇后の旦那さんでは無く、ただの九州の豪族で・・新羅遠征を持ちかけられたが断っただけの人。」

っちゅうことになっとる。


 落ちぶれたとは言え出雲の本家には、傘下のサンカから膨大な情報が集まってたみたいだし、年に一度の「神有月」にゃ、出雲の血の濃い日本中の豪族の頭(神)が集まってたようでも・・有るから、倭の中で何が起こっているかとか、倭を取り巻く他国の状況は知っていたらしいのねん。

 でもね・・記紀が天皇さんだと認定したお方を、全然関係が無い・・と言い切ってしまうのには、ファシレのおじさんとしてもね・・反論せにゃならんことになってしまうのねん。


 でね・・神功皇后さんは半島遠征から戻った後、住吉三神を祀ったのねんが・・出雲の口伝でもね・・その・・

「住吉三神とは誰か?」


について、公表されとるのねんな・・。それは、

「葛城そつ彦さん、仲津彦さん、若垂彦さん」


なのねん。


「ほなら、神功皇后さんは遠征を断った仲津彦さんを祀ったのけ?」



 ま、ね・・・後の世の誰かが変えてしまったっちゅうパターンは予想できるとしてもね・・。そりゃ~ね~だろ?・・と思うのが普通だよねん。


住吉三神
 『日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神(読み同じ)と表記される3神の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。住吉は、元は「すみのえ」と読んだ。

住吉三神と神功皇后
 日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、

「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」

との神託を得た。しかし仲哀天皇はこの神託に対して疑問を口にしたため、祟り殺されてしまう。その後、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて新羅へ出航した。皇后は神々の力に導かれ、戦わずして新羅、高麗、百済の三韓を従わせたという。
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 ま、

・底筒男命(そこつつのおのみこと)
・中筒男命(なかつつのおのみこと)
・表筒男命(うわつつのおのみこと)

が住吉三神で、だいぶ後になってから出来た住吉大社じゃぁそこに神功皇后がいっしょに祀られとるのねん・・。


 底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される。

 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は4座。『住吉大社神代記』(平安時代前期頃か)でも祭神を4座とするが、第一宮を表筒男、第二宮を中筒男、第三宮を底筒男、第四宮を姫神宮(気息帯長足姫皇后宮)としており現在とは順序が異同する。

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 これはね・・ど~ゆ~ことかっつうとね・・勘のするどいお方はもうお判りかもしらんけんども・・実は、

・底筒男命(つのおのみこと) -->そつ彦
・中筒男命(なかつつのおのみこと) -->仲津彦
・表筒男命(うつつのおのみこと) -->若帯彦

っちゅうことなのねん。これは出雲の口伝もそうだとね・・認めとるのねん。記紀は全く沈黙だったけんね・・。だから出雲の口伝で公にされたことで幸いにも、

「住吉の大神とは一体誰のことか?」

がハッキリしたっちゅうことなのねんな~。


 で、住吉大社の第一殿と第三殿が入れ替わっとるのんは、最初の旦那さんを最初にするか、最後の旦那さんを最初にするか・・っちゅうことかの?・・と思うがの~・・。


 でねでね・・出雲の口伝も、中筒男命(なかつつのおのみこと) が仲津彦(なかつひこ)さんだと認めていながらね・・

「全然関係の無い人。ただ遠征を頼まれて断っただけの人。」

っちゅう訳なのよん・・

「・・んなもん、何かを隠しとるに違い無かろう?」



 もし神功皇后さんが遠征から帰還した後に仲津彦さんを祀らなかったと言うのならね・・

「・・じゃぁ、なんで後になって祀ったのよん?」

っちゅうことになるし、最初から祀ってたとするなら、

「・・じゃぁ、なんで関係の無い人になっちゃうのよん?」

っちゅうことだしょ?・・判るよねん?


 実は、ここに大きな・・誰も言いたくなかった、知られたくなかった、隠したかった秘密が有るのねんな~。言っちゃってもいいかな~~?


「(い~とも~~!)」

と聞こえたことにしとこ~かの・・。


 でもここからは誰もこんなことはバラしたことがないし、大した証拠も無いのねん・・。そりゃぁ・・そうだわん・・一生懸命、隠したのねんから・・。


 神功皇后さんは成務天皇さんに死なれ、辰韓(秦韓とも云う)の権益を守るために遠征を懇願した仲津彦(仲哀天皇)さんに断られ、しかし快諾してくれたそつ彦さんと一緒に半島に遠征した・・っちゅうのんが出雲の口伝。


 記紀は、武内宿祢さんと一緒に神功皇后さんが半島遠征に出かけ、三国を叩いた・・っちゅうのが記載事項。


 ただしどちらもね・・

「まともに戦わずして相手の王が怯み、臣下になった。」


としとるのねん。


「・・・ほんとか~?」



 ・・んなわけ無かろう?記紀は、「新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約した」と書いとるけんど、

「新羅も戦ったが負けたので王が変わった」

のねんよ。地の利が有る新羅国(斯蘆国)に対し、どれだけの軍勢で押し掛けたにせよ、

「王が全く戦わずして開城(城を開くこと・・負けを認めること)することなど考えられん!」

のねん。

「・・どんだけお人好しなのかの~・・新羅国王は!」


 ま、これには裏が有っての・・この頃まで新羅(斯蘆)国王は・・と言うか辰韓の王は馬韓の王が兼ねておったのねん。つまり、百済王が辰韓の代表者だったと思われるのねんで、神功皇后ご一行様は弁韓と馬韓にも向かったのねん。

 記紀は三韓を「新羅・百済・高句麗」としとるけんど、そりゃわざと間違ったのねんな・・。高句麗とは戦ったにしても臣下にはなっとらん。この場合の三韓は「秦韓・弁韓・馬韓」でね。秦韓(この場合は斯蘆・新羅)は攻められたが大して抵抗もせず、弁韓は同族の倭と争いを好まず、馬韓は倭に席巻され、百済も臣下になった・・っちゅうことやね。高句麗にゃぁ巻き返しを喰った訳じゃの・・。


「・・・ほんとか~~?」



 ・・・ファシレのおじさんを非難する声が聞こえて来そうやね~・・でもね。文献的にもそれがちゃんと見えるのねんよ・・。なんで誰も気付かんのかの・・ファシレ的には不思議でしょうが無い位やのにの・・。


南解次次雄
 (なんかい じじゆう、生年不詳 - 24年)
は、新羅の第2代の王(在位:4年 - 24年)であり、姓は朴。二聖と称される新羅始祖赫居世居西干と閼英夫人との間の長男。

 治世
 紀元4年3月に赫居世の死去を受けて即位した。同年7月には楽浪の侵入を受けて首都の金城が何重にも包囲された。このとき、王は自らの不徳を嘆いて群臣にどうするべきかを尋ねたところ、臣下の者は「我々が喪に服していることを恃んで賊が攻めてきたのであって、天佑は賊には及ばないであろうから、恐れることはない」と言った。やがて楽浪の兵は引き上げた。

 賢者の昔脱解(後の第4代王の脱解尼師今)の噂を聞きつけて取立て、王の長女を嫁がせ、10年7月には大輔の役につかせ、軍事及び政治を任せた。

 14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。
 24年の9月以降に在位21年にして死去し、始祖赫居世の陵である虵陵(現在地未詳)の域内に葬られた。

王の称号
 『三国史記』及び『三国遺事』では金大問(8世紀の新羅の学者)の解説として、「次次雄」は「慈充」ともいい、巫(シャーマン)を表す語とし、鬼神に仕えるシャーマンへの畏怖から転じて尊称になったとする。また、こうした称号に現われることから、新羅初期の社会はシャーマニズムの支配する部族社会であったと見られている。

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 南解次次雄(なんかいじじゆう)さんは、新羅の第二代の王とされとるお方なのねん。在位は西暦4年から24年だと・・言うのねんよ。

「・・はぁ?・・そんな時代に新羅と言う国は無いのは常識!」


 まぁ・・ね・・半島で残った国は新羅だけだからねん・・西暦500年代に弁韓の加羅諸国、西暦600年代に百済、高句麗と滅亡しとるから、全く書物が残っとらんのねん。そして加羅諸国や百済、高句麗からは争いの難を逃れ、倭に続々とね・・渡って来たのねん。

 ましてや新羅(斯蘆)っちゅう国は、若い国だからの・・出来るだけ古い歴史が有るように見せたかったのねん。なのんでの・・

「斯蘆国は紀元前57年に赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん)が立てた!」

と言い張るしか無かったのねん。


 でねでね・・その第二代の王の名前だけが・・めっちゃ変だしょ?

1. 赫居世居西干(前57-4)
2. 南解次次雄(4-24)
3. 儒理尼師今(24-57)
4. 脱解尼師今(57-80)
5. 婆娑尼師今(80-112)
6. 祇摩尼師今(112-134)
7. 逸聖尼師今(134-154)
8. 阿達羅尼師今(154-184)
9. 伐休尼師今(184-196)
10. 奈解尼師今(196-230)
11. 助賁尼師今(230-247)
12. 沾解尼師今(247-261)
13. 味鄒尼師今(262-284)
14. 儒礼尼師今(284-298)
15. 基臨尼師今(298-310)
16. 訖解尼師今(310-356)
17. 奈勿尼師今(356-402)
18. 実聖尼師今(402-417)
19. 訥祇麻立干(417-458)
20. 慈悲麻立干(458-479)
21. 炤知麻立干(479-500)
22. 智証麻立干(500-514)
23. 法興(514-540)
24. 真興(540-576)
25. 真智(576-579)
26. 真平(579-632)
27. 善徳(632-647)
28. 真徳(647-654)

 これを見りゃ一目瞭然。第二代の王だけが・・浮いとるのねんよ・・。居西干、尼師今、麻立干、王は何となく分るよねん?・・じじゆ~って・・なんじゃらほい?


 でねでねでね・・・ここからが非常~~に、怖いお話しなのねん。

 この漢字、日本語的にね・・読んでみてくだしゃんせ~~~。一体、何と読めるかの・・。

南解次次雄

「なんかいじじゆう?・・ちゃうちゃう・・もっと自由に・・」




「・・・中筒男」

「なかつつお」


・・・だしょ?


「住吉三神の中筒男命って・・誰の事だっけ?」

・・・


「出雲の口伝じゃ神功皇后とは関係の無いことになってる、記紀が旦那と書いた仲津彦、仲哀天皇さんのこと」

・・・だっただしょ?


「・・ぬわにぃ~~?・・・やっちまったな~・・」


「男は黙って!」

「お参りする!」

「女も黙って!」

「住吉大社へ行く!」


・・・次次雄・・もとい、次号を待とう・・なのねん。ほな。

足仲彦(仲哀天皇) その1






 ようやっと倭の歴史に戻れるかの~・・。ただし、環太平洋を取り巻く地震の渦は、未だに健在じゃからの~・・気を付けなあかんよ・・。会社員なら、はぐれた家族とどこで落ち合うか、どう連絡を取り合うかくらいはの・・少なくとも決めておかにゃいかん。遠くに離れて暮らしているのなら、何か有った時のためにの、お互いの普段の行動パターンを常々伝えておかにゃ~いかん・・でもこれは最終的にゃ最愛の者たちの骨を拾うためじゃ。・・だからそうならんためにもの・・、普段から準備を怠らないこっちゃねん。ヤバイかもしらん・・と思うこと、微妙な変化を感じる感性を磨くことが肝心なのねんな~。わかるよね~・・。

 天日矛さんが倭の歴史に大きく関わってることはもう、何度か話したのねんから覚えとるよね~・・そう、渡来人なのに「あめのひぼこ」っちゅうお名前をいただいとるのねん。只者じゃぁ無いことはバレバレだし、日本子(ひほんこ)とも読めなくも無いし、その子孫だと言われる神功皇后さん、仲哀天皇さんの奥さんの子孫も、新撰姓氏録の皇別のトップに名前を連ねる

「息長真人」


の姓をいただいとることからも・・伺えるのねん。


 昨今はの、出雲の口伝が表に出て来たことで、今までぼんやりとしか判らんかったことも、ハッキリしつつあるのねんよ。出雲の故富上官出雲臣財當雄(とみのじょうかんいずもじんたからまさお)さんやその息子さん、ペンネームだろうけんども、斎木 雲州(さいき うんしゅう)さんが、貴重なお話しを書いてくれとるのねん。有難いこっちゃね~。証拠が中々見つからん倭の本当の歴史にせまることができるのねんから・・。

 ・・とは言っても・・の~・・。雲州さんの「出雲と蘇我王国」や「出雲と大和のあけぼの」などで暴露?されとる口伝が、全くもって正しいか?・・と聞かれたら~・・

「・・そんなことは有り得ん・・」

としか言えんの。出雲の本家や出雲人にとって都合の悪い事実は伏せられたまま伝わっておろうし、富氏の口伝は一子相伝・・いや、一子では無いのねんけんども、血筋の最も適任の者にのみ、丸暗記で覚えさせると言うものなのんでの・・。そりゃぁ・・丸暗記で一度完全に覚えたからっちゅうて、次の代に伝える前に病気になることだってあろうし、文字に起こせん分、曖昧になってしまう部分だって有るのねんから。ファシレのおじさんなんぞ、昨日の晩のオカズは何だったかすら・・覚えてないのねんからの~。


 神功皇后さんの時代はの、倭も非常に・・「エポック」な時代じゃったのねんよ。だから、ここを余りにハッキリしてしまうとの・・大勢の人間が戸惑うことになってまうのねん・・と、多くの支配者たちやその手下たちは考えた・・のねん。

 神功皇后さんっちゅうのんはの、記紀によれば、

「第14代天皇仲哀天皇さんの奥方さま」

っちゅうことになっとるのねん。

 でもね・・出雲の口伝によるとそれは嘘!・・なんと、

「本当は第13代天皇成務天皇さんの奥方さま!」

が正解だったのねんな~。


 仲哀天皇さんっちゅうのんは、成務天皇さんに日嗣の皇子がおらんかったのんで、成務さんの兄である、

「小碓尊(おうすのみこと)-->日本武尊(やまとたける)のみこと」

の息子さんとしての・・天皇の座に就いたとされたのねんよ。・・ま~・・その頃はまだ天皇とは言わんのは確実だし、まだまだ倭の中も一枚岩じゃ無いのねんから、

「記紀による贈り名」

みたいなものだったのねんな・・。


 で、出雲の口伝じゃと、仲哀天皇さんとされる「足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)」「帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」は、

「まったく関係ない九州の人」


とされとるのねん。


 ま、神功皇后さんとの接点が有ったことは口伝も認めとるけんども、記紀が言うような天皇さんじゃぁ無かったっちゅうことやねんな~。


 じゃ、記紀は何でそんな風に書いたか・・っちゅうこっちゃねん・・何でじゃと思う?・・実は簡単なことなのねんよ・・。

「皇統が途切れてしまうから」

なのねん。

 仮に女系で繋がっていたとしてもねん・・その繋がりを書くのも憚られる・・もしくは絶対に書きたく無い・・だから、関係の無い「足仲彦(たらしなかつひこ)」さんを引っ張り出して来たっちゅう訳やねんな~・・。


「・・・本当かぁ~~?」


 ま、確かにそんな一面も有ったことは認めるけんど・・


「・・・もっとずっと巨大な嘘を隠すために皆でそうしたんだしょ?」

・・てなもんや・・。


 じゃ、神功皇后さんについて出雲の口伝をおおまかにまとめておこ~。

・第13代成務天皇さんは神功皇后さんを奥さんに迎えた。

・天日矛の子孫で有る神功皇后さんは、辰韓が新羅に滅ぼされたことを知り、辰韓の王族たる権利を主張したいと思い、成務天皇さんに新羅を攻めるように要請したが断られた。

・成務天皇は国内の戦いに負け敗死した。

・神宮皇后さんは九州の豪族の仲津彦(なかつひこ)に新羅遠征を頼んだが断られた。

・諦めきれない神功皇后さんは、武内宿祢の子孫、葛城そつ彦さんに相談し快諾を得た。半島に遠征し、新羅、百済、高句麗に勝った。新羅に大量の朝貢を約束させ、新羅の城の前に「矛」を突き立てて帰国した。

・成務天皇さんとの間に生まれた子は亡くなられた。

・葛城そつ彦さんとの間に生まれた子も6歳で亡くなった。

 こんな感じかの~・・・。


「ん?・・ちゅうことは、15代の応神天皇さんって・・誰なの?・・大事件じゃん!」


 ま・・そんなに焦らんと・・出雲の口伝が知りたかったら、斎木雲州さんの本を探されるこっちゃ・・今から入手するのんは大変かもしらんけんどもの~・・。応神天皇さんについちゃもう結論出まくりなのんで・・今のファシレのおじさんの興味はそんなところにゃ無いのねん。・・斎木さんって苗字だけでも・・めちゃんこ意味深なのは、このブログをお読みの方ならピンと来るはず。ま・・ま~単に「いつく木」っちゅう意味で名乗られただけかもしらんけんどもね・・。でも、


「もっと凄い秘密についちゃ・・誰も言っておらんのねん!」


 書いてしもうて・・良いのかの~?・・・っちゅうような迷いはあるのねん。証拠が無いばってんの~。最近は本家の山田さんや、倭の歴史に詳しい巫女さん連中(ファシレのおじさんも超ビックリの能力の持ち主たち)の協力も中々得られん・・・っちゅうか、ファシレのおじさん自体がすでに忘れられた存在なのかもしらんし、彼女らの興味はもう別のところに行ってしもうとるのかもしらんけんどもの・・。・・ま、よかろ~・・ちょっとだけよ・・。


 例えば、記紀は神功皇后さんの旦那さんは「(足)仲津彦(なかつひこ)」の仲哀天皇さんだと言うとるのねん。でも出雲の口伝じゃと、先代の成務天皇である「稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)」で有って、

「(足)仲津彦(なかつひこ)では無い。彼は新羅遠征を相談しただけ、その後仲津彦は戦死した。」

としとるのねんよ。


「ん?・・記紀(を創った者たち)は関係の無い仲津彦を14代天皇と持ち上げたのけ?」

 そんならわざわざ半島から戻って、仲津彦の前妻との2人の息子(麛坂皇子 かごさかのみこ と 忍熊皇子 おしくまのみこ)を誅殺したことにする必要は全く無いのねんよ。2人の皇孫のどちらかが一時的に日嗣させてことにすりゃぁ簡単なのねんからの~。だから、

「仲津彦を死んだことにしなければ非常に都合が悪かった!」



 ちと長くなり過ぎたかの?・・文もちと・・クドイの~・・頭を冷やすかの~・・。ここでCMとさせていただこうかの~・・・ほな。
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Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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