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日本 その7






 ま、記紀をまともには読まずとも、何となく内容を知ってらっしゃる方なら、おそらく誰もが・・

「・・なんか・・なぁ・・しっくり来ないよなぁ・・」

と思うに違いないのが、天日矛(あめのひほこ)さんの件だしょ~な・・。


 だってね・・日本と言うか、倭と言うか、大和朝廷の話しなのに、

「新羅から来た王子の天日矛さん」

が活躍してるのねんから・・。


 そして、その子孫もさらに大活躍で、いつの間にか大王・天皇家に入り込んでいることを、全く隠しもせず、堂々とね・・大々的に書いてるのねんよ。

 まるで記紀が出来た当時の大王・天皇家は天日矛さんの血筋・・とさえ言いたげな書き方なのねん。

 でも、そんな風なイントネーションを知りつつも、日本人的な心情からなのか、

「・・認めたくない!」


と言うような心がね・・きっと有ると思うのねんな・・だからこそ、意図的に差し込まれたとしか考えられないような天日矛~田道間守~神功皇后さんの物語の意味を、

「そうかも・・しれない・・」

と思いつつも、見て見ないフリや考えないフリをしてしまうのねん。


 ファシレのおじさんは天邪鬼じぇけんね・・。「ひほこ」と聞けば「ひほんこ」とどこが違う?・・同じじゃん・・と思ってしまうし、天日槍は「あめのひやり」ちゃうのん?・・片や、天日矛と書く古事記と何故漢字が違うん?・・古事記は「橘氏系じゃん?」・・だから、判り易く書いてあって、日本書紀は「藤原氏・毛野氏系じゃん?」・・だから「ほこ」を「槍」に当てたんじゃねすか~?・・などと思ってしまうのねん。

 韓国語で天気のことを「日気」っちゅうなら、天日矛は日日矛・・に置き換えられると・・仮にするなら、比自㶱や非自火、非時伐とどう違うのかと・・

 新羅本記に書かれた「八年春 阿麻來服 遣元器與淨土入唐 淨土留不歸 元器還 有勅 此後禁獻女人」には、「阿麻が降伏してきた」と、唐に行かせた使いの者(高句麗から降伏した捕虜だったのねんが・・)の名はフルネームで書き、阿麻さんのことは、まるで誰でも知っているか、分かって当然のように書いて、唐の帝から女を献ずるなと勅が有ったのなら、

「じゃぁ当然・・阿麻は女人なのねん・・」

と、感じてしまうのねんな・・。因みに北朝鮮の一部じゃぁ、今でも「お婆ちゃん」のことを「アマ」と言うらしいのねんし・・


 なら、比自㶱は日自本で、「日が自ら(昇る)本(もと)」になるし、卓淳国が達句火で「タックスンバル・タックファ・タックバル」の「立花・橘花・橘」なら、

「橘は常世の国に生える非時香果を持ってきた人・・」

だから、

「卓淳国(橘)は比自㶱を連れてきた人」

と変換できるのねんし、もっと言ってしまえば・・

新羅から来た天日矛

天日矛の子孫の常世の国に橘の実を取りに行った田道間守

天日矛の子孫の神功皇后

天日矛の子孫の三宅連氏


は、橘が関連付けられていて、その後の「橘宿祢」の「縣犬養美千代」「橘諸兄」に、

 その橘は卓淳国なのねんから、


天日矛は新羅の王子ではなく卓淳国の王子で

卓淳国を平定した神功皇后(とされた方)は新羅に攻め取られた卓淳国を取り返したお方で

三宅連は卓淳国を官家として管理した神功皇后(とされた方)ゆかりの氏族で

縣犬養氏も官家絡みの神功皇后(とされた方)ゆかりの氏族で

だから、彼らが比自ホとも、大いに関係しているのねんな~・・。


 そもそもね・・昔の記事でも書いたけんども、

「伽耶諸国や百済、新羅の王は記録に残ってるが、それ以外の地域や国の王は記録が無い」


っちゅうことでんな~。

 それに、倭王武は宋の順帝から西暦478年に
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」

に任じられているのに、

「秦韓・慕韓諸国の王が伝わっていないし、そもそも新羅・百済以外の秦韓・慕韓諸国が有ったことになってない」

のねんよ。ま、卓淳国王さんは一人だけ、末錦旱岐(マキムカンキ?)さんっちゅう名前が判ってるけんどもね・・。この末錦旱岐(マキムカンキ?)さんも神功皇后さん絡みで日本書紀に出て来るけんども、

「・・なんだかな~・・」

な内容なんで、ここでは触れんけんどもね~。



 卓淳国も比自㶱も、そんな秦韓の国、もしくは秦韓に引っ付いた弁韓と混在した地域の国なのねん。新羅に地理的に近く、歴史的に新羅に蹂躙されていたと思われる国なのねん。


 神功皇后さん(将軍の荒田別さんと加賀別さん)が

 比自㶱(ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定

したっちゅうのんは、


 その国々への新羅の影響力を排除し倭国連合に組み入れ、屯倉(官家)を創った・・っちゅうことでっしゃろ?天日矛さんが垂仁天皇さんのところにいらしたっちゅう古事も、

× 新羅から来た王子
〇 新羅を経由して来た比自㶱(ひじほ)の王子

なのねんな~・・。何せ、天日矛さんは「あめにちほこ」さんと読めるのねんで、

「天」=「日」じゃぁ無いとしても、

「比自㶱(公・子)」=「ひぢほこ」

でんがな~・・。「ひ」と「し」と「に」は、非常に微妙でね~・・クルクル、入れ替わってしまうのねんな~・・7時を「しちじ」と言いたくても言えず、「ひちじ」になっちゃう地域の方も多いでっしゃろ?それに「ぢ」や「じ」は簡単に「っ(小さい つ )」に変化するでっしゃろ?さらにその頃の日本の発音は「清音」だったと言われていてね・・「濁らない」から、「ぢ」や「じ」はそれぞれ「ち」や「し」になるもんで、余計に「小さい つ」=「っ」に変化しやすいはずなのねんな~。

 それにね・・「日本」は「じゃぱん、じゃぽん」でっせ~?日本=JAPANなのねんで、ま、これは大昔の中国語だと「日」を「ジャ、ヤー」と発音したのに由来するみたいだけんどもね~・・。それに邪馬臺(やまたい)は「じゃばつ」だったのかもしれんしね~。


 だから、

「日本と言う国名の発音は、にっぽん、にほん、のどちらでも良い」

のはつまり、歴史がそうさせたっちゅうことなのねん。


 さて、じゃぁ、藤原氏はどうか・・っちゅうことになるのよねん・・。これがね・・もう判っちゃってるかもしれんけんどもね~・・。何となくはもう・・書いてまんがな~・・。それに、鹿島昇氏は馬韓の不斯濆邪国は、藤原国だと・・本に書いてるしね~・・。その辺は「日本 その3」に書いてると思うのねんで確かめてみてちょ~。


 だけんどね・・不斯濆邪国は馬韓だしょ?・・馬韓っちゅうのんは、百済が制した国でっせ?・・ま、倭王武は使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王だから馬韓(慕韓)も入っとるし、ファシレのおじさん自身「日本 その3」で、「ふじふぁら」なんて書いておいて思わせ振りなのねんが、

「不斯濆邪」=「不斯火」

で、「比自火」と非常に似た発音になることを思うと、関連無しとも思えんのねん。


 ただし、不斯濆邪国についちゃぁ、記紀からはまるで読み取れんのねん。上のように「不斯濆邪」は「ふしふんや」だから、「比自火」の「ひじふぁ」と似た発音なら、

「弁韓に有った不斯濆邪国が秦韓に移動して比自㶱・非時火になった」

もしくは、

「弁韓と秦韓は混在していたので、百済と新羅の争いでその境界が移動した」

っちゅうような可能性はあると思うのねん・・この辺は余り良く見えんのんで、自信は無いけんどもね・・。国は移動せず、その境界が微妙で、百済が強い時は弁韓に、新羅が影響力を発揮していた時は秦韓に・・ちゅうことかもしれんね~。その場合は、「不斯濆邪国=比自㶱=非時火=非自伐」っちゅうことになってしまうのねんよ・・。


 するってぇと、比自㶱・非時火は比自伐とも書くのんで「ひじばる」でっしゃろ~?・・「伐」は国とか地域っちゅう意味の新羅的な当て字で、現代日本語だと「原」(ばる・はら・ゲン)だし、「不」から「非」への転換が可能なら、比自㶱も「ふじはら」と同じ意味になってまうのねん。

「どっひゃ~!」

・・でっしゃろ~?


 でもね・・これを忘れてないかなん?

「橘」は常世の国に生える「非時香果」を持ってきた人・・


 非時香果は「比自㶱国」で有り、「藤原」だよねん?・・だから・・

「橘」は「比自㶱国」の「藤原」を連れて来た人・・

とは読めんかなん・・?


 それにね・・不比等ちゃんの中臣氏のご先祖さんに、有名な

「中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)さん」

 がいらっしゃるのは・・ご存知かもしれんね~。


 記紀によると彼は神功皇后さんの取り巻きで、武内宿祢さんに次ぐナンバー3の座にいた方でんな~。仲哀天皇さんが亡くなられた後、神功皇后さんの審神者(さにわ)として対馬から呼ばれたとされてるのねん。


 でね・・その烏賊津使主(雷臣)さんはその後、百済の女と娶って一男を生んだと・・されているのねんが、対馬の霹靂神社(いかづちじんじゃ)の明細帳に

「神功皇后の時、雷大臣・安曇磯武良を新羅に遣わし、雷大臣彼地で女を娶り一男を産む。名を日本大臣と云う。」

と書かれていたのねん・・。


「何?・・日本大臣?」


 ま、日本と言う地名はどこにも無いけんども、その名前を持ったその時代の方が一人だけ居ったのねん・・。「日本大臣」の読みは全く判らんけんどもね・・少なくとも、

「中臣--日本--藤原」

とキーワードを繋げることが出来るのねん。


 ま、続日本紀だと日本大臣じゃなくて、二人の子で大本臣さんと小本臣さんを生んだ・・と書かれてるけんどもね・・これは記紀の暗号と言うよりは、おそらく「罠(わな)」の類に過ぎんと思うけんどもね~・・允恭天皇さんの時、烏賊津使主さんは天皇さんの命令で現皇后の妹の衣通姫(そとおりひめ、そとおしひめ、そとおしのいらつめ)さんを迎える使者になり、 姫を后にしたのねんけんども、姉さんの皇后さんの怒りを受けて、

「藤原に屋敷をつくり、そこに衣通姫さんを住まわせた」

とされてるのねん。


 ま~・・14代仲哀天皇の皇后である神功皇后さんから、19代允恭天皇さんのお后さんまで手配するなんて・・

「・・何て長命なスケベ爺!」

って思っちゃうけんどもね~・・。長命過ぎて、


「第何代の烏賊津使主さん?・・日本大臣って名前の息子さんの立場はどうなん?」

だよね~・・。


 ま、この辺はやっぱりF原氏のお手盛り事件帖だしょ~・・。


 っちゅうところでお時間のよ~です。じゃ、またね~・・。
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日本 その6





2017/01/29、誤字脱字訂正、ちょっと加筆したのねん


 まぁ・・「卓淳国」が「橘」の由来だぁ・・なんて言われてもね~・・・

「・・んな訳あるかい!・・ただの言葉遊びに過ぎないじゃないか!」

「・・ま、読みは近いかもしれんけど、そこまでピッタリじゃ無いしね~・・」

などと言われるのが結局のオチ・・


 っつ~ことになってしまうのだけんど、何しろ・・・

「証拠が無い!・・全て闇に葬られ、消し去られている!」

のねん。


 だから、真の歴史を解明するには、明らかに嘘をつき、もしくは事実を変えて意図的に変更されている部分から真実を類推する・・ことも大事だし、その上で、

「もしかしたら存在するかもしれない記紀の暗号を読み解く!」

ことしか方法が無いのねん・・。それには記紀に書かれている様々な名称の由来や意味を紐解くこと・・それはほとんど、発音を漢字にあてはめたもんだから、漢字の意味を知る現代人とは異質のものになってるのねんし・・ただしその時代、秦人・呉人らも列島に入って来て入朝してるのねんで、弁韓・辰韓にゃぁその方々も沢山いらっしゃったのんで、何せ、万里の長城の建設労働が嫌で逃げて来たのが辰韓だからね・・中国的感性が生きてる場合もある・・・ま、真実を想像・・もしくは霊視出来たとしても、証拠となりそうなものはそれを利用しての、「記紀の暗号解読」しかない・・と思うのねんな~・・。

 だから、弁韓・辰韓と言われる百済と新羅の中間・・と言うよりも、西暦400~500年代は確実に新羅寄りの地理的場所に有った「卓淳国(たくじゅんこく)」こそが「橘(たちばな)」の由来で有って、

「卓淳国をその頃の直近の新羅風な卓淳伐・達句伐にし、その発音を漢字で当てて橘(たちばな)として縣犬養美千代さんに名乗らせ、橘氏を生んだ」

のねん。

 そしてそれは、常世の国から非時香菓(ときじくのかくのみ)を垂仁天皇さんのために探して持ち帰った・・とされる、田道間守(たじまもり/たぢまもり)さんから始まるのねん。

 さらに田道間守(たじまもり/たぢまもり)さんは、新羅出身の王子とされる「天日槍(日本書紀)」、「天之日矛(古事記)」さんが列島にやってきたことから始まり、田道間守はその子孫とされてるのねん。

 つまり、列島にはどこにも存在し無い「日本」の名称に最も近い「ひほこ」・・日本の読みは「ひほん」だしょ?・・だから「ひほんこ」だとするなら、非常に近い読みになるのねん。

 何せ「天日槍」を「あめのひほこ」とは・・フツー・・読めんだしょ?「あめのひやり」で、「槍」は「やり」・・「ほこ」じゃぁ・・無い・・ものを、無理槍・・いや、無理やり「ひほこ」と読ませてるのねんよ?

 ほんとうは「日本子」としたいけんども、それじゃぁあんまりにもバレバレだしょ?・・謎かけにならんのじゃぁしょうも無いのんで、「槍」や「矛」・・と記紀で書き分け、そこに・・気付く者が居たらば・・と思ったかどうかは分からんけんど、

「矛盾」

を想像させつつね・・「日本」のルーツをしのばせたのねんな・・。


 だから記紀では、壮大なお涙頂戴物語を載せてね・・記紀の暗号としたのねん。


 証拠もあるのねんよ。「三宅連(みあけむらじ)」は「天之日矛」の後継子孫と言われてるけんども、その名もね・・

「三宅(みあけ・みやけ)=「官家(みやけ)」=「屯倉(みやけ)」

なのねん。

屯倉(みやけ)
とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。
概要
「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。「官家」もミヤケと読まれることもあり、後に「郡家」はコオリノミヤケ、「五十戸家」がサトノミヤケと読まれた可能性がある。ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。屯倉は、直接経営し課税する地区や直接経営しないが課税をする地区も含むなど、時代によってその性格が変遷したらしいが、詳しいことは分かっていない。大化の改新で廃止された。
by WIKI


 ま、分かり易い例えをすると、継体天皇さんが筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)さんを滅ぼした時に、その子孫の「葛子」さんが糟屋屯倉(現在の福岡県糟屋郡・福岡市東区)を朝廷に献じ、死罪を免れた・・とされているのを覚えてるかもしらんね~。

 それにね・・「新羅が任那の官家を打ち滅ぼした」のが西暦562年とされててね・・ま、その後も何故か任那からの使者は朝廷に来てるっちゅう・・記紀は非常に不思議な書き方をしとるけんどもね・・新羅としちゃ、倭の皇族を亡き者にしてしまっては母国存亡の大危機になってしまうのは判ってるもんで、その後の三宅連氏=官家自体は滅ぼされることなく列島に戻ったのでっしゃろな~・・。

 つまり、

「天之日矛さんから始まる壮大な物語は、倭国から日本への国名変更で終わるのが日本書紀」

と言えるのねん。・・きっと何となく判るよね~・・。


 でねでね・・それでは終わらんよねん・・。橘(たちばな)はちっとは判ったにせよ、藤原(ふじわら)が判らんちんだし、仮に橘は「日」「日本子」だとしても「藤原」はど~なのよ・・・っつ~疑問はまだ解けてないよねん?

 そ~なのねん・・でもね・・もう答えは遠の昔に・・いっぱい・・アチコチに書いてるのねんな~・・ま、「ファシレの暗号」っちゅうべきか、「ファシレの勿体ぶりっこ」っちゅうかね~・・。

 前回の記事日本 その5の最後に書いたね・・


「橘」は常世の国に生える「非時香果」を持ってきた人・・

 これが実は日本につながるのねん・・「非時香果」っつ~のは橘の実のことだけにねん・・♪♪

もそ~なのねんけんども・・。


 橘は常世の国に生える「非時香果」でっせ~?

非時香果っつ~のんは「ときじくのかくのみ」と読ませたいらしい・・・けんども、ワシらのような学の無いもんは、

非時香果=ひじかか

としか読めんだしょ?


 そ、それで良いのよ~・・。逆に余りにオツムの良い人には判らんよ~になっとるのねん。


 でね・・思い出して欲しいのねんな~・・。神功皇后さんが三韓征伐をした後に、また新羅を懲らしめにね・・荒田別(あらたわけ)さんと鹿我別(かがわけ)さんを卓淳国に派遣して、比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定したんだったよね~?

 卓淳国はね・・モロに「金官加羅国」のお隣・・みたいな、比較的南の位置にあるのねんな~。でもね・・この赤字の・・

比自[火+保](ひじほ)

に注目するとね・・あの、

非時香果=ひじかか

に非常に似ているのが判るよねん?


 ま、読みも「ひじ ほ」と「ひじかか」だしね・・。誰にでも判り易いのねん。少なくとも、

「ひじ」

は同じだしょ?


 で、「非時香果=ひじかか」は橘の実のことだと記紀は言ってるけんどもね・・

香 の読みは 日本語でも「こう」、中国語の閩南語で「phang」(ファン・・かな?)、韓国語で「hyang」(ひゃん?)
果 の読みは 日本語で正確には「クヮ」、中国語ではおしなべて「guo、kuo」(クォ)、韓国語で「gwa、kwa」(グヮ、クヮ)

つまり、日本語で「香果」は「こうクヮ」
中国語では「ファンクォ」
韓国語では「ひゃんグヮ」

って・・なるよね~・・現代の日本語の「か」は、古代日本語の「カ」と「クァ・クヮ」が一緒になっちゃってるのねんね~。


 まぁ、めんど~なんで、中国語(・・これは後でちょっと説明するけんども)と韓国語は解説せんけんども、少なくとも日本語じゃぁ

ヮ」


なのねんで、

香果=こうクヮ=こク=国


となってね・・

「非時香果は【ひじかか】では無くて【ひじこく】と読むべし!」

だから、

「【非時国】は【非自国】!」

なのねんで、

「橘」は常世の国に生える「非自国」
を持ってきた人

っちゅうことを言いたかったのねんな~。・・暗号だしょ・・。


 でね・・非自ホ・非自国はね、現在の昌寧で、新羅と高霊伽耶の間にある地域なのねん。ここはね、

「古墳がたんまり在る」

のねんよ。

Changnyeong royal graves
By Timothyvail (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

 この昌寧には松峴洞古墳群や校洞古墳群だけじゃぁ無いのねん・・倭人が活躍した痕跡がね・・も~沢山・・見当たるのねん・・ま、あんまり書かんけんどもね~。

「古墳は日本独特のもの」

じゃ無かったっけか~?


 でねでねでね・・・長くなったもんで、そろそろ終わりたいけんどもね・・も~・・とりあえず書いちゃおうと。


 非自ホというのんは、発音を漢字で当てたもんだからね・・その他にも色んな当て字が有るのねんよ。

比斯伐、非自火とかね・・非自火の火は、どうも国っちゅう意味らしいのねんけんどもね・・中国語の「香果」は「ファンクオ」だからね・・これも、非自火国になっちゃうのねん・・。火と国が重なっちゃ~いるけんどもね・・。

 でも、もっとも印象的な当て字が有ってね・・。も~・・ずいぶん昔のことだから、覚えている人が居るかどうか心配ではあるけんども、・・それが・・日本 その1で書いてそれっきりの・・

「比自㶱」

でんな~。思い出してくれたかな~・・火辺に本と書くのねんが・・


「㶱」

でんがな・・。


 これ、あなたなら何て読む?・・学の無いワシなら・・フツーに・・

「ひじほん」

でっしゃろ?

 でね・・「比自㶱」の「自」の字はね・・日本語で「じ、し」、中国語で「ji6、chhṳ」、韓国語で「ja、cha、ca」でね・・

 漢文の「自」は「~から(出発して)・・」っつうような使われ方をしてたのねんが・・説明はかなり面倒なもんで・・ま、省力的になってしまうのねんけど答えを言っちゃうと・・



と読みがほとんど同じなのねん。

 「之」は日本語で「シ、の」、中国語で「ji1、chi、chṳ̂」、韓国語でも「ji、chi」・・

 もっと言ってしまって非時香果の「時」にしても、

 「時」は日本語で「ジ、シ、とき」、中国語で「shí (shi2)、 shih2、si4」、韓国語でも「si」・・

 だから、これは「自、時、之」は発音的に「同じ」と言えるよねん?・・まぁ、弁韓、辰韓の国の名乗りを漢字に当てはめた訳だから、発音が同じならどれでも良いのんで、国の名称も様々に言われたのねんな・・。


 それを踏まえてしまうとね・・

「比自㶱」 は 「比之㶱」 で・・「比」と「日」を入れ替えると 「日之㶱」になり、めんど~な「㶱」の火を外すとね・・なんと、

「日之本」

になってしまうのねん・・。


 「日」はね・・日本語は「 ニチ、ニッ、ジツ、ひ、か」だしょ?・・中国語は今は「リ」だけんども少し昔は「jat6、yat6、ji̍t、ngit、zeh4, nyih4」、大昔は「nyit、*C.nit {*C.ni[t]}」で「ジ、ニ」の音が有るしね・・大昔の朝鮮語は残っちゃいないから判らん・・今は「il」(イル)だけんどもね・・。これについちゃ百済語、新羅語が解明されんと厳しいのねんな・・


 でもね・・調べたら・・面白いことが判ったのねんよ・・何と、

現代の韓国語では、日本語の天気のことを「日気 (일기、il-gi、イルキ)」と言う

 つまり、韓国語の「日」は日本語の「天」!

 どっひゃ~!・・だしょ?「日=天」でっせ~?日本の日は「てん」っつ~ことだから、「あま」なのねんよ~・・。


 で、「比」はね・・中国語は「ヒ」と読むし、韓国語じゃ「bi、pi」で濁る・・「非」の字も非自ホは使うから、中国語も韓国語も「比」と「非」の読みは全く同じで変換が可能なのねん・・。


 因みにね・・新羅じゃぁ国のことを「伐(ポル、ボル)」と言うのねん・・。ポル、ボルでっせ~?

「ポル・ボルはホン・ポンにめちゃくちゃ近い!」

と言えんかの~?

「原は九州じゃぁバルでっせ~?ほぼ同じ意味を持つのは対馬じゃぁフレでっせ~?百済じゃぁプルでっせ~?・・それよりももっと近いでっしゃろ?」

・・・あっ・・


 だから、


「列島に無かった日本、いや、日之本が半島に有った」

もしくは、

「半島の国・地域の名称を倭から置き換えた」

可能性って・・ど~なのよ!

 「ひじほん・にちほん」=「日本」


 ・・・ずっと書きたく無いと思ってたのねん。でも開き直って言っちゃえば「㶱」そのもので「ひほん」でんがな・・。それをね・・

「記紀は暗号として、天之日矛~田道間守~神功皇后の物語を差し込んだ!」

のねん。


 ・・っつ~ところで時間切れ・・。ま、ふざけんな!・・っちゅうご批判もあろうかと思うけんど、オツムのいかれたおじさんの言うことを真に受けんでね・・。暗号自体が史実とは限らんしね~・・。だからど~した!って話しにもなるしね~。藤原さんもまだ書いちゃいないのんで・・またそのうちにね~。じゃぁ、バイナラ~!アディオース!

日本 その5






 あけおめでごんす・・。長らくご無沙汰してしもうて申し訳ないでごんす・・。年末年始は何かと忙しく、体調もイマイチ、未だに駄目だすな~・・。

 ま、こんなことは書きたく無い・・書いて良いのか判らん・・っちゅうような気持ちが、ファシレをブログから遠ざけてるのかもしれん・・っちゅうのは言い訳には過ぎんけんども、やっぱりこれは日本人にゃ~ちとショックなことかと想像できるしの・・。

 それは・・

「日本と言う名称は、西暦700年頃までは日本列島のどこにも無かった」

っちゅう事実なのねん。


 ま、史実として証明できん・・っちゅうだけで、もしかしたら列島の東国で「日本」「日之下」「日之本」を名乗る小国が有った時期が有る・・かもしれんけんどもね・・。でもそれはどんなに古文献を探してもでんな・・ま、評判の悪い東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)だけは除くとして、「日」が付く地域、小国は有っても「日本」につながる名称は出て来んのねん。

「有ったはず!」

っちゅうのんは、全くの「こじつけ」にしかならん。


 西暦700年前後に倭国の名称を捨て日本を名乗ったのは、内外の古書から確実視されとるけんども、中臣の大祓にも出て来る「日高見」国にしても、「日」だけであってね・・その響きが持つ意味がいかに近く思えても、「日本」とはかけ離れてる名称なのねんな・・。


 じゃぁ・・その「日本」っつう名称はどこから来たか・・っちゅうことが、このところのブログのタイトル「日本 その~」になっとるのねんが・・そろそろ書いてしまわないといかん。「ケリ」をつけんといかん・・。


 西暦700年頃の「日本」は藤原氏が天皇家の外戚に入ってね、天皇家へ着実にその藤原の血を濃くして行く初期段階と言えるよねん?

 ある意味、「日本とは藤原である」と言うのが大正解・・なのねん。だから、藤原氏を「あ~だこ~だ」と非難することは、自分自身を非難しているのと同様なのねん・・・ま、「そんなん、判っとるがな~!」っちゅうお方がほとんどでっしゃろが、

「・・うんにゃ・・そんなこと、考えたこともね~っす・・」

っつ~ような方々もおられるでっしゃろなぁ・・。

 それに、不比等ちゃんとは奥さんの一人の橘美千代さんでつながる「橘氏(たちばなし)」もね、不比等ちゃんの息子たちの藤原氏と同様に、我が世の天下を目指して高級官僚として世の中を動かしてたのねん。

 これも有る意味、

「橘美千代(たちばなみちよ)が日本を創った!」

と言えることは、皆さんもご存知かと思うけんども・・

「橘氏(たちばなうじ)って、何?」

っちゅう疑問は、どんな歴史家も、はたまた歴女も歴男?も・・結局誰にも解けてないだしょ~?


 大体ね・・敏達天皇さんの後裔の美努王さんとその後の橘氏を継ぐことになる子孫をつくりながら別れ、不比等ちゃんと一緒なって光明皇后(光明子 こうみょうし)さん等を生んだ縣犬養氏出身の女性・・なんてことが、日本の史実になってるっちゅうね・・本当に有ったこととされてるっつうね・・それが真実と信じさせられてるっちゅうね・・ことになってるのねんな~。ま、それはそれで良いんだけんどもね~・・反論しよ~としても、何の根拠も無いんじゃど~にもならんばってんね~。

 そもそも「橘氏」は縣犬養美千代さんが、元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜ってね・・美千代さんの息子たち・・これは皇族出身の王だけんども臣籍降下して母である三千代の氏姓を継いで出来た・・とされとるのねんな~。だから、橘氏はそれが最初っつうね・・ことなのねん。

 でもね・・橘(たちばな)何とか・・っつうお名前はね・・それ以前からずうっと使われててね・・ま、氏姓じゃぁないけんどもね・・例えば弟橘媛(おとたちばなひめ)ね・・。


 彼女はヤマトタケルさんの妻の一人でんがな~・・。相模から房総へ船で出た時に神に祟られ、嵐になってしもうたので、タケルさんの代わりに海に飛び込んで鎮めた・・ことになっとるのねんな。・・ま、そんな弟橘媛さんだけんども、偽書とされちゃあいる先代旧事本紀によると9人もの男子を生んでるのねん。


「何とまぁ・・9人もの男子を生んだ奥さんを連れて蝦夷征伐に出かけたヤマトタケル!」

 ・・うにゃ~・・でんな・・。ましてや神さんへの生贄としてなら普通、処女とか・・だっしょ?奥さん、自重しなはれ・・って、ま、ここじゃ関係無い話だけんどもね・・。

 他にも「」が付く西暦700年以前の方々は沢山おるのねん。もちろん、「」に関係するお方もね・・。その中でも歴史上、まずはこの方が最初かな?・・と思われるのんが・・

「田道間守(たじまもり/たぢまもり)」さん

でんな~・・。

「・・ありゃ?・・このひとは田道間守だから、たちばなと違うんちゃう?」

と思われるかもしらんけんどもね・・。


田道間守(たじまもり/たぢまもり)
は、記紀に伝わる古代日本の人物。
<略>
『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖としても信仰される。
<略>
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。

『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(同じく)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。
<略>
「たじまもり/たぢまもり」の名称については、「但馬国の国守(くにもり)」の意味とする説がある。この「たじまもり/たぢまもり」の類音からタチバナ伝来の物語が引き出されたと見られ、「タチバナ」という名前自体を「タヂマバナ(田道間花)」の転訛とする説もある。
By WIKI

注:三宅連(三宅氏)さんと非時香菓(ときじくのかくのみ)については、次回の試験に出る予定なのねんで覚えておくように~


 そうなのねん・・。橘の語源となった可能性が有るのが「タジマモリ」さん・・なのねん。

 で、その後もね、沢山、橘関係はあちこちにその名が使われてね・・あの聖徳太子さんの奥さんの一人も橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)っちゅうね・・お名前だったのねんよ~。

 西暦700年の直近にゃぁ、朝倉広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に斉明天皇さんが入られ、

 7月24日に朝倉宮で崩御。朝倉広庭宮に都が置かれたのはわずか2か月余りということになる。朝倉広庭宮の建設に際しては、朝倉社の木を切って用いたために神が怒って宮殿を壊したほか、宮中では鬼火が目撃され、大舎人らに病死者が続出したという。
by WIKI

 ま、ファシレのおじさん的にはね、「斉明天皇さんは新羅に出頭した」のんで・・ここでは亡くなってはおらん・・ちゅう立場だけんどもね・・それはこのページに書いてるけんども、

「斉明天皇さんもに関係していた」

 ちゅうことだけは確かなこと・・でんな~。

でねでね・・その「橘」だけんども、例のタジマモリさんが常世国から持ち帰った不老不死の果実で柑橘植物だったよねん?これ、かなり酸っぱいのねんな~・・まぁ、Wikiによるとそうよねん・・。

 じゃぁ、

「その常世国っつうのはどこなん?」

ちゅうのんが大事だしょ?。日本書紀によるとタジマモリさんは9年も掛かって常世国でタチバナを探し出して、帰って来たことになっとるのねんから・・。


 その国はね・・実は、神功皇后さんが平定した国・・とされている中に、その名前を見つけることができるのねんよ。

比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した
By WIKI

 ここの・・

卓淳国

でんな~・・。

 これはね・・達句火や達句伐とも書かれるのねんけんども、

卓 タク、タカ、タック
淳 ジュン、シュン、スン、スゥン

とね・・日本語や韓国語、中国語で読めるよねん?

 だから、最後の「国」の読みに新羅的に「伐(読みはボル、ポル)」を付けると・・

「タックスンボル」

 国=伐=原 は、日本語の「~原」・・・九州じゃ「~ばる」と読むでっしゃろ?わかみたふり解析は無駄な努力??でも百済語の意味を書いとるけんどもね・・。で、「田原」と書いて「たばる」でんがな~・・。なので、

「タックスンボル」=「タックスンバル」

 速く読むと・・

「タッスンバル」

で、

「タチバナ」

・・でんな~。・・ん?・・ちと苦しいじゃんってかぁ?・・ま、古代は

「漢字を読みに充てただけで現在の漢字の意味そのものは無く、読みも徐々に変化する」

からの~・・。


 達句伐だって、同じなのねんよ。達は「タチ・タッツ」、句は中国語で「チュ・ジュ」だから・・

達句伐=「タッチュバル」=タチバル=タチバナ

達句火だって・・火は国とか、地域と同意でね・・

達句火=タッチュ+「ファ」

で、火=ファ なのねんが・・何とね・・

花=hwa(中国語・韓国語)=ファ

だから、

橘=立花=達句火

なのねんよ~・・。


「モロ・・そのものじゃん!」

だしょ~?


 つまりね・・不比等ちゃんと同族の橘氏は、不比等ちゃんの奥さんの縣犬養美千代さんが賜った氏性、「橘宿祢」を皇族の息子たちがが臣籍降下して名乗ったのねんから・・

「・・あれ?・・橘は・・卓淳国?」


 ありゃらん・・やっちまったな~・・ど~しましょ~!・・ど~もならん!

「橘」は常世の国に生える「非時香果」



 これが実は日本につながるのねん・・「非時香果」っつ~のは橘の実のことだけにねん・・♪♪


 ・・ちゅうところで時間切れなのねん・・でもこの先もあまり書きたく無いの~。ま、ちょっと脳の崩れてるおっさんの言うことと笑って許してほしいのねん・・。じゃぁまた~!ばいなら~!

日本 その4






 そろそろ本題に入らんといかん・・と思いつつ、2カ月も経ってしもうた・・申し訳無いの~・・。・・とは申せ、ひっじょ~に誰も見とらん・・に近いブログなだけに、書いたところで誰も気にせんしの~・・でも、こんなん書いちゃってほんと、だいじょ~ぶなんかの~???と、づ~~~~っと葛藤を続けていたのねん。かなりの決心がいるのねんな~・・たかが文字の羅列でしかないのねんが、時に誰かを傷つけてしまうかもしれんし、そうするとそれは何らかの形に変わってでも自分に向かってくるのは必定なのねんから。

 書かんのが良いのか書いた方が良いか・・たとえ誰かが何かを隠滅したことに気付いたとしても、そんなにも臭ったもの、臭いものにフタをして、ただただ時を過ごして生きるっちゅうことは、気付かなかったことと同じにはならんで、何かを隠滅した者と同罪だとは判っているのねんがの・・。

 昨今は何かね、

「そんなに自分が大事なん?」

と他人に対して思えるようなことがあまりに沢山有って、けっこう凹んでまんがな・・。ま、ファシレのおじさんみたいなもんは圧倒的少数派であるんは自分でも大いに判っとるけんども、じゃぁ、自分がそんな場に出くわした時に、そんなに一貫した自分を持っているのねんか~?・・と自問した場合に、

「・・ん~~~・・迷うのねんな~~」

などと思った段階でもう、自分を凹ませた誰かとさして変わらんかったことに気付くことにもまた凹むのねん・・。


 「新撰姓氏録」を見るとね・・非常に面白いのねん。

「どこ出身のどなたは(その時の)誰々っちゅう名前なのねん」

とか、

「誰々っちゅう名前の人はxxx神の子孫なのねん」

と書いて有るように読めるからねん。


 平安時代の初期の西暦815年に出来たのねんから、色んなことが有った西暦700年前後からは120年位後の成立なのねんな~。

 で、さらに面白いのはね・・

「百済・百済王、新羅・新羅王、高句麗・高句麗王、秦を始めとする中国勢、任那、伽耶出身者は出ているがそれ以外は出て来てない」

っちゅうことでんな~~。

 まぁ、伽耶ったって高霊、金官くらいしか出て来んのねん・・他にも有ったのねんよ。安羅、古寧、星山、小加羅の伽耶に、多羅、卓淳、己汶、滞沙などね~・・。

 例えば安羅(あら)っちゅう国の出身者には新井さん、荒井さんとかね・・今でもそう名乗ってる人も沢山いらっしゃる位、大挙して日本列島に移動してるのねん。関東には沢山のアライさんいらっしゃるのねんよ~・・・。でもねん、

「安羅王のダレダレのあと・・」

なんぞは全く書かれておらんのねん。有ったかどうだかを韓国とバチバチやっとる「任那」さえね・・

任那国豊貴王之後也
任那国賀羅賀室王也
任那国人都怒賀阿羅斯止也
任那国主龍主王孫佐利王也

とね・・しっかり書かれとるのねん。記紀には全くその名も載って無い、レア情報なのねん。少なくともこの西暦815年の段階では、任那は国で、何人もの国王がいたことが判る・・もしくはそのように理解されていたことが想像できるのねんな~。

 ところがそんなレア情報満載の「新撰姓氏録」でもね・・全く出て来ない国が有るのねん・・。

「それって・・だいぶおかしいと思わん?」


 以前の記事にも書いたけんど、百済の「阿麻意弥(あまおみ)」は日本に来て「取石造(とりいしのみやっこ・とろしのみやっこ)」と名前を変えていることさえ判る「新撰姓氏録」に、掲載されない倭人国家出身者って???

「・・・倭王だった者、それに直接つながる者、もしくは倭・日本の指導者」

の可能性が高い!・・と思えるのねんがねん。


 神功皇后さんが三韓征伐をされた後のこと・・

 神功皇后49年(249年または369年)3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。比自[火+保](ひじほ)、南加羅喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳加羅七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。
by WIKI

となっとるのねん。


 ま、三韓征伐が本当に有ったのか・・神功皇后は本当に存在されたのか・・それは何年のことなのか・・とかの問題も有るけんども、その後の様子を見る限りにおいては、それに近いことは有ったと言えると思うのねん。

 だとするとね・・

「七カ国を平定」
「四つの邑は降伏」

だしょ?

 平定し、降伏させたら・・次はどうしなきゃいかんかな~?

「治める・統治する」

 これが無きゃおかしいのねん。


 ところがでんな・・記紀を見ても、三国史記の百済本記や新羅本記を見てもね・・その平定した後の指導者が・・書いて無いのねんよ。まったく伝わってないのねん。まぁ、加羅は六カ国ほど有って金官国王、高霊伽耶王のみ後世に伝わってるし、安羅王の1人はね・・ちらっとだけ伝わってはおるけんども、

「平定した直後の比自ホ、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳の王が伝わってない!その後もほとんど判らん!」


ちゅうのんは、絶対におかしいのねん。ま、古爰津(こけいのつ)と忱弥多礼(とむたれ 済州島)を亡ぼして百済に賜った・・とはされとるけんね・・それだけさ・・あらっ?


 何故ってね・・あれだけ記紀に神功皇后の功績として綿々と描かれているのにも関わらず、しかも「平定」しとるのねんから、その代理の王について何も書かん方がおかしい・・だしょ?

 結局は書かんかったのでは無く、書けんかったのねんな~。そうゆ~ことだしょ?

 先のWIKIから引用させていただいた文の中の将軍さんは、毛野氏族なのねんが・・崇神天皇さんの末裔と言われておるのんで、皇族でんな~・・「新撰姓氏録」的に言うと「皇別」になるのねん。

 で、お名前を見るとね・・・ひじょ~に有名なお方で、

「荒田別(あらたわけ)さん」
「鹿我別(かがわけ)さん」

とおっしゃるのねんが・・この名前でね・・判っちゃうよねん・・ん?。。判らんかぁ??

「荒田別(あらたわけ)さん」--> の一族が -->「安羅・多羅・分け られて統治」

「鹿我別(かがわけ)さん」--> の一族が --> 「伽耶・分け られて統治」

っちゅうことだんねん。かなり安易だし、危険さも含むとしてもねん・・伽耶全部を分けてもろうた訳じゃぁ無いのは当然だしねん。

 しかし、記紀ではこのお二人は戦いの後、しっかり帰順したことになっとるのねんよ。列島に帰ってきたことになっとるのねん。


 せっかく平定してもね・・何もせんで帰ったりはせんのよねん。ちゃんと統治したのねん。それが、

「毛野一族」

なのねん。


 でね・・これにはちゃんと「オチ」が有ってね・・そう、例の筑紫君「磐井(ちくしのきみ いわい)の乱」の時でんな~・・。


 527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
by WIKI

 ・・そう・・磐井さんが本当に反乱を起こしたかどうかは別にしてもね、

「近江毛野さんが南加羅・喙己呑を奪い返すために出発」

したと・・記紀に書いて有るのねんな~・・。


 もう・・判るよね~・・判らんかぁ・・?


 でね・・実は記紀にはさらに「オチのオチ」も・・書いて有るのねん。
 

 物部麁鹿火によって磐井の乱が平定された後、翌年の528年に、毛野はようやく任那の安羅に赴任し、新羅との間で領土交渉を行った。しかし、毛野は驕慢な振る舞いが多く、新羅・百済両国王を召し出そうとしたが、両者が応じず失敗。逆に両国から攻撃される始末であった。事態を重く見た朝廷から帰還の命令が出されたが、これを無視。530年、再び召還されて応じるも、その帰途対馬で病死した。
by WIKI


 どう?・・これって・・一体ど~ゆ~ことなのねん・・って思わん?


 まぁ、近江毛野さんは一応、「近江氏」のククリにされておるようでね・・毛野氏族とはされとらんのねん。日本書紀では「近江毛野臣」とされててね・・「波多氏」にククられとるけんども、


「毛野氏族が統治していた半島の国が新羅に奪われたので同族が助勢に行った」


のがホントだしょ。・・もしくは・・

 ま、近江毛野さんが波多氏だとしてもね・・神功皇后とは同族の息長氏族なもんでね・・大将軍の荒田別さんが崇神天皇直系で、その後に断絶が無きゃ、これも末裔に違いは無いのねん・・・いや断絶が無きゃ・・ね。

 近江毛野さんが亡くなられてね・・それが530年だけんども、532年には金官国が新羅に滅ぼされて国王が降伏(でも皇太子に食扶ちとして所領を安堵)、562年には任那諸国を新羅が滅ぼしたのねん。

 っちゅうことはねん・・少なくとも562年以降、滅ぼされた国の王や領民はそのまま新羅の配下になるか、列島(もしくは高句麗辺り)に逃げ出したか、新羅に殺されたか・・ということだしょ?

 でねでね・・ここで今回のメインイベントが始まるのねんよ・・。凄いのよん・・書いちゃって・・良いのかの~・・とは思うけんども・・。


 百済本記にはね・・

「辛亥(しんがい)の年に日本の天皇及び太子・皇子がともに死んだ」

とね・・書いてあるのねん。


 百済本記・・はね・・原本は現存もせんし、書紀などの記述を元に書かれたとされてはおるのだけんども、その日本書紀にもね・・継体天皇の崩御年を算出するために、その文章が掲載されとるのねん・・

 そう・・

「日本!」


又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥之歳、當廿五年矣

 辛亥の歳は西暦531年と見られててね・・。でも、記紀記載の「倭(やまと)の王」「天皇」には全く該当せんのよねん。しかもしっかり「日本天皇」とね・・書いてあるのねんよ。


 日本と言う国名を元にした記述が出てきたのは、おそらくこれが初めて・・なのねんな~~。でもね・・該当する天皇さんが日本にはおらん・・っちゅうことでんねん。


 記述されたものに初めてね・・日本の文字が出たのねんからね・・いや、でも初めてかどうかは微妙でね・・「任那日本府」・・が有るからね・・・で、これは「やまとのみこともち(倭宰)」と読まなきゃいかんようでね・・めんど~なのねん。

「みまなにほんふ」

でよろしいがな~・・。誰がど~やっても「やまとのみこともち」とは読めんのねんから・・。


 もしね・・本当に「みまな の にほん ふ」、もしくはね・・任那が滅んで安羅に移動しとるもんで、「安羅日本府」も「あら にほんふ」でよろしいとするなら・・


「日本=倭ではあり得ない!」


ちゅうことにならんかの?

 中国の正史とされる西暦945年に成立したと言われる「旧唐書(くとうじょ)」の日本国伝には、こう書いてあるのねん。

「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」

とあり、

日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本が倭国を併合した。
by WIKI

 そうなのねんよ・・いや、新唐書っちゅう本には微妙に違うニュアンスにはなっとるのねんけんどもね・・

「日本=倭では無く、日本が倭を併合!」

と、旧唐書には一度書かれ、その後出された新唐書(西暦1060年成立)には、

日本乃小國 為倭所并 故冒其號

「倭は小国の日本を併合し、その名を奪って号した」

と書いててね・・

「倭>=日本」

だと・・主張してるのねんよ。


 それって絶対・・

「おかしくね~すかぁ?」

 だって・・日本が見つかりもしないのにね・・日本の名前を奪えるのかの~?・・それに、一度は「日本=倭では無い」と言っておきながら、「倭>=日本だ」なんてね~・・。

 つまり、

「日本国隠し」

が行われた・・っちゅうことでんねん!倭が日本と単純に名乗りを変えたのなら、まぁ・・判らんでも無いの~・・。でも、日本と名乗る国、もしくは地域が有って、それが倭を併合したか、それとも倭が日本と名乗る地域・国を併合してその名を奪ったか?・・と聞かれりゃぁ・・勿論のこと、前者でしかあり得んだしょ?

「併合した国の名前を名乗ることは無い」

し、

「そもそも名乗りさえ無い日本の名など奪いようが無い」

のねん!


 っつ~ことは・・あれ?・・毛野氏って、上毛野(かみつけの・上野 こうづけ)と下毛野(しもつけの 下野 しもつけ)の毛野さんだしょ?・・じゃぁ・・日本って?あれ~?


っちゅうところで、すまんの~・・時間切れじゃ・・書きたく無いの~・・じゃぁまたね~・・

日本 その3






 倭の五王さんの話しは前にもしたけんど、覚えてるかな~~?・・ま、讃、珍、済、興、武 と言うお名前の王様でね・・

「だれがど~考えても日本人にゃぁ~思えん!」

っちゅう話しをしたように思うのねん。


 彼らは西暦413年から502年にかけて、今の中国に当たる国に貢物を献じてね・・倭王の称号と近隣の国の使持節都督として封ぜられたのねん。ま、今は「使持節都督」についちゃ説明はせんけんども、「その国の王では無く中国の代理の監督者」みたいなもんと思っておけばまぁまぁ・・でんな~。

 でね・・倭王武さんは西暦478年にね・・南朝宋に

「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六国諸軍事 安東大将軍 倭王」

に任ぜられてるのねん。

 長ったらしくてめんど~なのねんが、「使持節都督」「倭王」は何となくでも判るでっしゃろ・・。それに「安東大将軍」もね・・中国のお役の一つで、

「ちょっと偉い」

感じの官位だと思ってくれれば良いのねん。


 で、問題は、

「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六国諸軍事」

の、

「秦韓・慕韓」

にあるのねんな~。


 だって・・変だしょ~?西暦478年にぁ、秦韓、慕韓と言う国は存在せんことになっとるのねんから・・。秦韓は新羅「斯盧(しろ)国」に350年頃併合され、慕韓(馬韓)は百済に併合されてる・・ちゅうのんが今の常識とされてるのねん。

「もう存在せん国の監督も倭王のお役目のひとつなんでっか~?」

っちゅう疑問は無いのかの~・・。

 新羅や百済が出張る前はね・・三韓と言えば、「馬韓、弁韓、秦韓」だったけんども、西暦350年頃以降の三韓は、「高句麗、百済、新羅」ちゅうのんが常識で、それ以外の国は無いとされてたのねん。

 まぁ、そんなに厳しいことを言わんでもね・・それ以外の国も存在していたけど、

「中国のわしらに細かいことは判らんけん、もしかしたら秦韓・慕韓に他の国もあるのかもしれんからいちお~申請通り叙しとこうかいの~」

と、中国の王様も思ったのかもしれんからの~・・。


 でね・・まぁ、加羅や任那は昔の弁韓に括られるし、任那(みまな)についてはは韓国は認めんけんども日本府(にほんふ・やまとのみこともち)が有ったことは日本書紀も書いておるし、「新撰姓氏録」にゃ、

道田連 連   出自任那国賀羅賀室王也
多々良公 公   出自御間名国主尓利久牟王也
大伴造 造   出自任那国主龍主王孫佐利王也

など、任那の王様の出の公家さんを記録しとるしね・・ま、この方たちは、

「倭人」

なのでっしゃろな~・・。もっとも、「道田連の任那国賀羅賀室王」さんは、大加耶の王または、阿羅伽耶の王とされとるもんで、「任那(みまな)」っちゅうのんは何?っちゅう疑問の答えにはなっとらんけんどもね~。爾利久牟(ニリクム)王さんも百済人っちゅう話しもあるもんでね~・・。


 でねでね・・あんまり引っ張ってもしょうないもんで、そろそろ結論に向かわんといかんのねんが、やっぱりね・・


「西暦400年台の半島南部には、秦韓・慕韓の国々が存在した!

っちゅうことなのねんな~・・。中国の王様・皇帝さんも、ただ申請されたまんまに叙しておった訳じゃぁ無いのねん。ちゃんと判ってやってたに決まっとるのねん。そ~じゃなきゃ・・周辺諸国に

「馬鹿にされてしまう」

に決まっとるのねん。当たり前のことなのに、

「秦韓・慕韓はもう無かった」

で済ませてしまうのねん・・。きっと、そ~誤魔化さにゃならん必要が「今でもある」のかもしれんの~・・。


 因みに「秦韓」はね・・

「馬韓王が中国の労役から逃げてきた者たちに東部の土地を分けて住まわせ、国にした」

とされててね・・

秦韓(辰韓)12国

已柢国
不斯国
勤耆国
難彌離彌凍国
冉奚国
弁樂奴国
軍彌国
如湛国
戶路国
州鮮国(馬延国)
斯盧国
優由国

斯盧国が後の新羅(しんら・しらぎ)とされ、周辺他国を併合したとされてるのねん。

 また馬韓(慕韓)はね、

慕韓(馬韓)54国

感奚国
監奚卑離国
乾馬国
古臘国
古離国
古卑離国
古爰国
古誕者国
古蒲国
狗盧国
臼斯烏旦国
狗素国
狗奚国
內卑離国
怒藍国
大石索国
莫盧国
萬盧国
牟盧卑離国
牟水国
目支国
伯濟国
辟卑離国
不彌国
不斯濆邪国
不雲国
卑離国
卑彌国
駟盧国
桑外国
小石索国
素謂乾国
速盧不斯国
臣濆活国
臣蘇塗国
臣雲新国
臣国
兒林国
如來卑離国
冉路国
優休牟涿国
爰襄国
爰池国
一難国
一離国
日華国
臨素半国
咨離牟盧国
支半国
支侵国
捷盧国
楚離国
楚山塗卑離国
致利鞠国

と沢山有ってね・・伯濟国が後の百済とされ、周辺諸国を併合したと・・されてるのねん。


 でもね、上記のようにね、

「秦韓・慕韓の国は他にもまだ有った」
「百済・新羅の影響は受けていたが独立国家が有った」

と言えるのねんで・・中でも、

楚山塗卑離(ソサントヒリ・ショサントヒリ)国

なんぞはね、日本語じゃ「やまと」と読めるような「山塗」っちゅう漢字が当たってるしね~・・「臣蘇塗国」についちゃ、以前の記事で

「蘇塗(そと)」


「天君」のところで書いてるもんで見てほしいけんども、

「馬韓≒日本?」

と思えるような漢字・感じもあるのよねんな~・・まぁ、ここは今は余り関係無いのんで、はしょるけんども・・。


 でねでねでね・・ここで問題になる馬韓の国の名前が有るのよねん・・それが、


「不斯濆邪国」

でんな~・・


 何て読むのか・・非常にムズイのねんが~・・


「不」 は 「ふ」

    で・・ま~・・良いでっしゃろねん?・・「ぷ」かもしれんけんどもね~・・


「斯」 は「し」

    日本語じゃ 呉音 : シ 漢音 : シ

    中国語じゃ 普通話の ピンイン: sī (si1) ウェード式: ssu1 広東語 イェール式: si1

    韓国語じゃ sa

なのねんで、「し」「す」「さ」 のどれかの可能性が大きそうねんな~。



「濆」 は

    日本語じゃ 呉音 : ブン、ホン 漢音 : フン、ホン 訓読み ほとり、わ-く

    中国語じゃ 普通話 ピンイン: fén (fen2) ウェード式: fen2 広東語 イェール式: fan4

    韓国語じゃ bun もしくはpun

 なのねんで・・「ふん」「ほん」「ふぇん」「ふぁん」「ぶん」「ぷん」



「あれ?」


 ・・ま、良いのねん・・で、


「邪」 は・・

    日本語じゃぁ
    呉音 : ジャ、ヤ(表外) 漢音 : シャ(表外)、ヤ(表外)

    中国語は
     普通話 ピンイン: xié (xie2) ウェード式: hsieh2 広東語 イェール式: che4

      韓国語は sa もしくは ya


で、「じゃ」「や」「しぇ」「さ」


っつ~ことは?


「ふ」 「し」 「ふぁん」 「じゃ」


 意味判らんのんで、

」は「や」なのんで、いつも通り「卑字」を使ってると見なせば良いねんから、伽耶の「耶」と同じ意味の「場所や土地を意味するもの」とすると?


=加

」 = 「

だから・・

「ふ」 「し」 「ふぁん」 「ら」

・・・・


藤原


 ・・・こんなんなっちゃいますた・・xxタx ガクガク ・・


 ま、可能性は低いけんど、「濆」は「沸く」で「わ く」なのんで、「わ」・・と、さらにそのまんまかもしれんしね~・・。



 っつ~ところで時間切れかな~・・すまんのねん・・まだ「㶱」にはたどり着かんのねん・・。これでも一生懸命書いとるばってん、許してちょ~よ~・・。じゃぁね~ばっはっは~い。














プロフィール

NSY3

Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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