だ~れかさんが・・紀を書き換えたのねん・・






 しかし、これだけ毎日、醜い争いを見せつけられると、つくづく

「歳は取りたくないものよの・・」

と感じてしまうの~。


 政争相手が不利と見れば、伝家の宝刀よろしく・・

「解散!」

と、嫌だ嫌だ、何やかやと理由を付けて逃げ回った挙句、ようやく開催した臨時国会の冒頭で議長に言わせてしまうんだからの~・・。


 大体、

「国民に信を問わなきゃならん時には解散せんで、誰がどう見ても党利党略と私利隠しが大義!」

っつ~ことは、如何にアホで盲目な国民にでも充分過ぎる位に見えるよね~。


 ま~・・「お友達に利益供与したのを突っ込まれたくない解散」っちゅうことやろうね~。


 それに憲法の第7条による衆院の解散だってね・・そもそもは首相が決めて良いことにはならんのよね~・・条文を都合よく解釈しとるだけ・・っとも言えるのねん。

天皇は内閣の助言と承認により国民のために、左(次-->下)の国事に関する行為を行ふ。
 衆議院を解散すること。

 この条文でね・・首相が解散権を行使できることになっとるのねん。


 ま~・・天皇はんは国事行為以外は何も権限を持っとらん・・っちゅう建前になっとるのねんで、そうなっとるのねんけんど、これでさえ、

「じゃぁ、天皇さんが・・嫌だと言ったらど~すんの?」

ちゅう部分はちと、あやふやなのねんな~・・。


 まー、

第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

ってことなもんだからね~・・。


 だから、

「天皇さんが国事行為を拒否、摂政になった方も拒否、挿げ替えられた次代の天皇さんも拒否すりゃぁ、解散はできん」

っちゅうことなのねんけんどもね~。


 でもま~、そ~なったらそ~なったで、何事も進まん状況になって大混乱だけんどもね~・・。そこら辺は日本国憲法のい~かげんな部分では有ると思うけんどもね~・・。天皇はんも日本のことを思うなら意を決して解散詔書に、

「×」

とでっかく墨書きしたれば良かったのねん!・・それで退位されたら偉いカッコよかったのねんけんどね~・・いや、後のことはわしゃしらん・・


 それにしても・・・ジャーナリズムも政府にオベッカで「忖度新党批判」・・この状況にしたのは誰なのかの~?ここまでの国民不在
は今まであったのかの?

「醜い!」

 醜いの~!


 天智称制はね・・紀によると、斉明天皇さんが亡くなられてから皇太子の天智さんが即位せずに政治を司ったとされるのねん。西暦に直すと、

661年8月24日 斉明天皇さんの死去

から、

668年2月20日 天智天皇さん即位

だから、足掛け7年間・・だすな~。長いの~・・長すぎる・・意味が全く判らんちん・・なのねん。



 で、「さらに可哀想な斉明さん」でも書いたけんども、

668年2月第一週立春 阿麻(アマ)さんが新羅に出頭

しとるのんで・・・斉明さんが阿麻として新羅に出頭したと言うことは確実なのねんよ。


 だけんども、だ~れもそれを言わんのんで~、しゃ~ないもんでファシレのおじさんが記事にしたって訳・・。

 だからその証明をね~・・もう少しちゃんとせにゃいかんばってん、こんな記事になっちまった訳だすな~。若干見にくいかもしらんけんども醜きゃなかろうもん?


 前の記事にはね、「天」っちゅう和風諡号の付く天皇さんを上げたのねんな~・・こんな感じ・・

第29代天皇 欽明さん 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)
第35代天皇 皇極さん 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
第36代天皇 孝徳さん 天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)-->皇極・斉明さんの弟さん
第37代天皇 斉明さん
第38代天皇 天智さん 天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)-->皇極・斉明さんの息子さん
第40代天皇 天武さん 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)-->皇極・斉明さんの息子さん
第41代天皇 持統さん 大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
          高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)-->天武さんの奥さん、天智さんの娘さん
第43代天皇 元明さん 日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと)
第45代天皇 聖武さん 天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)
第49代天皇 光仁さん 天宗高紹天皇(あまつむねたかつぎのすめらみこと)

(第42代天皇 文武さんは797年になってから天之真宗豊祖父天皇 と諡されたので・・一応パス)
(第50代天皇 桓武さん -->別称で 天國押撥御宇柏原天皇)
(第51代天皇 平城さん -->別称で 日本根子天推国高彦尊)
(第53代天皇 淳和さん -->別称で 日本根子天高譲弥遠尊)
(第54代天皇 仁明さん -->別称で 日本根子天璽豊聡慧尊)

 確かに和風諡号に「天(アマ・アメ)」が付く天皇はんは、これで全てなのねん。

 でもね・・間が抜けとるよね~?・・繋がってそうで繋がってないなんて、おかしいだしょ?・・不思議に思わん?


 じゃぁ、ここにね・・生誕年と死亡年・・と推定・確定される年月日を入れてみよ~か~?青字は、「天」が付かない天皇はんなのねんよ・・ほい、スタート!

29 欽明(509年?) - (571年5月24日?)

35 皇極(594年) - (661年8月24日)
36 孝徳(596年) - (654年11月24日)
37 斉明(594年) - (661年8月24日)
39 弘文(648年) - (672年8月21日)
40 天武 生年不明 - (686年10月1日)
41 持統(645年) - (703年1月13日)
42 文武(683年) - (707年7月18日)
43 元明(661年) - (721年12月29日)
44 元正(680年) - (748年5月22日)
45 聖武(701年) - (756年6月4日)
46 孝謙(718年) - (770年8月28日)
47 淳仁(733年) - (765年11月10日)
48 称徳(718年) - (770年8月28日)
49 光仁 (709年) - (782年1月11日)
50 桓武 (737年) - (806年4月9日)
51 平城 (774年) - (824年8月5日)
52 嵯峨 (786年) - (842年8月24日)
53 淳和 (786年) - (833年3月22日)
54 仁明 (810年) - (850年5月4日) 和風諡号を奉贈された最後の天皇


 一応ね・・和風諡号だけじゃなくて、別称も含んどるけんどもね・・これを若い年代から見てみると・・

 52代の嵯峨天皇さんは「天」が付かんよね?・・でも、51代平城天皇さんが774~824年、生きとるもんで、53代の淳和天皇さんの786~833年と、重なってるよねん?判るよね~?

 46、47、48代は三代続けて「天」の名乗りが無いのねん。けんども、45代の聖武天皇さんが701~756年、49代の光仁天皇さんが709~782年なもんでね~・・重なっとるだしょ?

 44代の元正天皇さんは「天」の名乗りは無いのねんが、43代の元明天皇さんは661~721年、45代の聖武天皇さんは701~756年だったから重なっとる。

 39代の弘文天皇さんは、そもそも天皇さんと認められたのが明治時代になってからなもんで、和風諡号が無いし・・でも、親とされる38代の天智天皇さんと叔父さんとされる39代の天武天皇さんに挟まれてる訳だから、ここも重なっとるよね~?


 で、

 問題は、29代の欽明天皇さんの509~571年と、35代の皇極さんの594~661年・・いや、

ここは「594年の生誕から668年以降」 で確定なのねんが・・皇極さんと斉明さんは同じお方とされているのねんでね~・・

 この29代と35代の天皇さんの間、30代、31代、32代、33代、34代の天皇さんは、ここにお名前は書いちゃいないけんども「天」の名乗りは無いのねんよ。つまり、

「天の名乗りは短く見積もっても571年から594年までの13年間、見当たらない!」

 っちゅうことになっとるのねん!

 しかも西暦594年は皇極天皇さんが生まれた年だから、

「生まれてすぐにアマを名乗る訳じゃ・・おそらく・・無い!」

のは当然なのねんから、


「皇極天皇として即位する 642年2月19日 までの間、71年間の天(アマ)が不明!」

ちゅうことだしょ?


 それにね・・皇極即位は642年2月19日、斉明さんがアマとして新羅に出頭したのが688年2月立春、天智即位は・・なんと、

「668年2月20日!」

なのねんよ~・・。46年を経て、2月19日の次の日は、2月20日なのねんな~・・。誰でも判るよね~。天智さんがここにこだわったのか、後に書き換えられたのか・・っちゅうことでんな~。・・おそらく後者だと思うけんどもね・・。皇極さんとしてじゃなくて斉明さんとしての即位日は、2月14日だからね~・・その意味は書けたら書くのねん・・。

***文が変なのでちょっと訂正加筆したのねん

 立春は冬至と春分の中間だしょ?冬至は一番、日の短い日で今の暦だと大体12月22日頃・・春分は昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなる日で、冬至から1/4年先・・・3月20日頃なのねん。立春は2月3~4日辺りでんな~。

 で、この時代はおそらく1ケ月位、日が前倒しになるもんで、立春は1月辺り・・。

八年春 阿麻來服

 っちゅうことは、立春後に「阿麻」たる斉明さんが新羅に出頭したのねん・・。そして、

遣元器與淨土入唐

 阿麻が出頭して来たあ?そりゃ~大変だ・・唐皇に知らせなきゃいかんぞ~!・・っちゅうことで元器さんと淨土さんと使いにやったのねん。だから、668年の春までは斉明さんは生きておられて出頭し、その後・・っちゅうことやね。


 紀には、こんな風に書いてあるのねん・・

天智六年(667年)二月、天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女とを、小市岡の上の陵に合わせ葬す。

 ま、娘だった間人皇女(孝徳天皇のお后、間人大后さん)と一緒に葬った・・っちゅうことなのねんけんど、斉明さんは661年に亡くなられたのならね・・6年も放っておくなんて、ありえんだしょ?斉明さんはお孫さんの建王(たけるおう・・8歳で亡くなったお孫さん)と一緒に葬ってくれと遺言してたのねんが、それも聞かれなかったっちゅうのねん。有り得んだしょ?


でもね・・さらには続日本紀によると、文武三年(699年)10月に文武天皇は「越智山陵」と「山科山陵」を新規造営したっちゅうのねんよ・・。「越智山陵」は斉明天皇さんの陵、「山科山陵」は天智天皇さんの陵とされてるのねん。

  つまり、斉明天皇さんの亡骸は、亡くなられたかなりの後になってからようやく、陵に入れられる状況になったっちゅうこと・・661年死亡説はでっち上げっちゅうことだしょ?

「斉明さんは少なくとも668年2月頃までは生きていたっちゅうこと!天智称制は嘘八百!」

「斉明さんの新羅出頭を隠す意図が働いた結果がこれ!」

っちゅうことなのねん。

 ま~・・おそらく、不比等ちゃんがやったのねん!・・・と思うだっしょ?・・違うのねんな~・・これをやったのは、

「桓武天皇さん!」


でっしゃろな~・・。


 ま~・・これを説明するのんは、ちと大変なのねんで~・・書けるかどうか判らんけんども先に延ばさせて貰うのねん。


 でもね・・まだ疑問は残っとるよね~・・?


 そう、欽明天皇さんが「天」で、皇極・斉明さんが「天」だとしても、その間の「天」が誰だか判らんだっしょ?

 しかも、その間には隋書に書かれた西暦600年の

「アメタラシヒコ」

が・・いたはず・・だしょ?


 ものの見事に・・そこが抜けとるのねんよ。古事記も日本書紀にも、どんな古書にも書いとらんのねんで~。


 そう、誰かが隠したのねん・・いや・・正直なとこ・・


「アメタリシヒコを隠したかったのではなく、紀をいじった結果、隠れてしもうた!

 それが、

「661年の天智称制」

「668年2月立春の斉明新羅出頭」

「668年2月20日の天智天皇即位」

が原因になってくのねんな~。


 これを隠したかったのが・・さっきのお方なのねん。


「 じゃぁ・・西暦600年のアメタリシヒコって誰なのねん?」

と・・誰でも思うだっしょ?・・


 話せば長~~~いもんでね~・・またそのうちね~。ほな、ばいなら。







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アマの影






 お久しぶりでんな~・・・。半年以上も記事を書かないでいると、書かないことが日常になってしまう・・もんで、それに・・

「やっちまったな・・」

的な・・ね・・言っちゃあいかんことをしっかり書いちまった一連の流れからのストレスと、相反するようなある種の解放感が、記事を書くことからファシレのおじさんを遠ざけていたのかもしらんね~。

 まぁ・・天の日矛さんっちゅうお方が古代の倭から新生日本へ変貌してく中で、とても重要な立ち位置にいらしたんだっちゅうことになる訳だけんども、

「・・だからどうした?」

とか、

「・・んな訳ゃ~なかろ~もん!」

みたいにね・・人それぞれ、受け取り方も受け取れ方も、受け取るつもりもないかもしらんし、そもそもこんなブログなどの書いている内容も存在自体もね・・っちゅうような部分は有ると思うのねんけんどね~。


 まぁ、極一部の方には、とっても注目されていることでは有るけんども、歴史的、歴史学的にはほとんど無視されていることにはね、以前の記事の「さらに可哀想な斉明さん・・・」辺りでも書いたけんども、

「阿麻來服」

っちゅう新羅本記の記事でんな~。

 これはね、

「八年春 阿麻來服 遣元器與淨土入唐 淨土留不歸 元器還 有勅 此後禁獻女人」

「アマが新羅に投降してきたもんで、元高句麗高官の同じく新羅に投降して新羅官吏になった元器君と淨土君を唐に派遣した。したらば淨土君は行ったっきり。でも元器君は新羅に戻り、『女はよこすな!』・・との勅令が有った」

みたいに訳せば良いのかな~・・と。

 まぁ、前半~中間部分までね、理解されてはおるのねんが、『女はよこすな!』の部分がね・・全く問題視されとらん!・・と、ファシレのおじさんは言いたいのねんが、そんなことも問題視されとらんのねんな~。

 つまり、「アマは女人だった」っちゅうことなのねんで、だからファシレのおじさんは、

「斉明(・皇極)さんがアマ」

って・・書いたのねん。


 ただね~・・「阿麻」は「アマ」なのねんが、その説明がね・・新羅本記にゃぁ、全く記載されておらんし、

「阿麻って・・一体・・何なのねん?」

ってことにもなりかねんのねんのねん。


 そもそも記紀にもね・・「アマ」についちゃぁ、まるで無視しとるような感じでね・・。何も書かれていないような感じに見えるだしょ~?


 でも、良く良くね~・・記紀だけに留めず、その他の文献なども読んでみると、意外なことが判ってるのねんよ。

 そう・・

「アマの影」

でんな~。


 大体ね、斉明さん、重祚してるから皇極さんも同じ人物とされとるのねんが、このお方はね・・

和風諡号:豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。

とおっしゃるのねんよ。


和風諡号

 和風諡号(国風諡号)を奉る制度は、記録に残る限り、41代持統天皇以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼=殯(もがり)の一環として行われてきた。その殯の場では、先帝の血筋が正しく継承されたものであることやその正統性を称揚するとともに、併せて先帝に和風諡号を贈った。持統天皇から平安時代前期の54代仁明天皇まで追贈された(途中、当時は廃帝とされた47代淳仁天皇と唐風文化を愛した52代嵯峨天皇には和風諡号らしきものはない。46代孝謙天皇(重祚して48代称徳天皇)は、「高野姫天皇」「倭根子天皇」と呼ばれた例はあるが、いずれも和風諡号ではない)。

 初代神武天皇「神日本磐余彦」(かむやまといわれひこ)から40代天武天皇「天渟中原瀛真人」(あめのぬなはらおきのまひと)までの名も、慣例的に和風諡号と呼んでいるが、必ずしも実際に諡号だったわけではない。特に15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、22代清寧天皇を除き多くの研究者により諱(いみな=実名)と考えられている。したがって和風諡号の制度ができたのは、その後である(制度として確実なのは持統天皇が最初である)。


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っちゅうことでんな~。

だから、実名っちゅうことかどうかは判らんけんども、少なくとも「天(あめ)」っちゅうお名前は持っておって、「阿麻(アマ)」かもしれん・・っちゅう位は納得していただけるんじゃぁないかな~・・と思うのねんな~。


 でね・・この「天」っちゅう文字がお名前に有る天皇さん・・もしくは大王(おおきみ)さんは、どのくらいいらっしゃるか、ご存知かな~?

「ん?・・んなもん、沢山居るに違いなかろ~もん!」


と思うかもしらんが~・・さに在らず。数えられる程度しかおらんのよ~。ホントよ~。

 因みに皇極斉明さんの後はね・・こんな感じ。

第35代天皇 皇極さん 豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
第36代天皇 孝徳さん 万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)-->皇極・斉明さんの弟さん
第37代天皇 斉明さん
第38代天皇 天智さん 命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)-->皇極・斉明さんの息子さん
第40代天皇 天武さん 渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)-->皇極・斉明さんの息子さん
第41代天皇 持統さん 大倭根子之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
          高原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)-->天武さんの奥さん、天智さんの娘さん
第43代天皇 元明さん 日本根子津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと)
第45代天皇 聖武さん 璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)
第49代天皇 光仁さん 宗高紹天皇(あまつむねたかつぎのすめらみこと)

(第42代天皇 文武さんは797年になってから之真宗豊祖父天皇 と諡されたので・・一応パス)
(第50代天皇 桓武さん -->別称で 國押撥御宇柏原天皇)
(第51代天皇 平城さん -->別称で 日本根子推国高彦尊)
(第53代天皇 淳和さん -->別称で 日本根子高譲弥遠尊)
(第54代天皇 仁明さん -->別称で 日本根子璽豊聡慧尊)


こんだけ・・だす・・。10名+αだっちゃ。

 ね・・斉明さんの後は、少ないだしょ?第39代の弘文さんが天皇さんと認められたのは明治になってから・・なのねんで、皇極さんからは・・

「連続して『天』の時代が続く!」

のねんな~。


 じゃぁ、皇極さんの前は?っつ~とね・・これも面白いのねんよ・・。

第29代 欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明天皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)

by WIKI

 そう・・欽明天皇さん、ただ一人・・なのねん。

 つまり、第29代天皇さん・・とされる方に「天」の名前が有り、第35代天皇さん・・とされる方から再び「天」の名前が有る・・っちゅうことでんな~・・。それ以外には意外にも、「天」の諱を持つ天皇さんは居らん!・・っちゅうことでんがな~。


 斉明さんはね・・

欽明天皇-->敏達天皇-->押坂彦人大兄皇子-->茅渟王-->斉明天皇

っつ~繋がりなのねんな~。

 お母さんは吉備姫王さんで、用明天皇さんの奥さんになる前に高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだとされてるのねん。

「再婚・・でんな~」


 でもね・・良く良く考えてみるとね・・欽明さんは「天」だしょ?・・そして、斉明さんも「天」。

 斉明さんの後は「天」の名前を持つ天皇さんが続くのねん。

 でも、斉明さんの前は?・・おらん!・・第29代の欽明さんが「天」で居るだけなのねん。


「それって・・おかしくないすか~?」


 ファシレのおじさんは、「斉明天皇さんが阿麻」と言ってるのねん。その後はちゃんと続いてるのねん。でも、斉明さんの前が不明・・・だよねん?でも、欽明さんは「阿麻」だった可能性も・・あるだしょ?

「その間の阿麻って・・誰なのねん!」

「隋書の阿毎多利思北孤と関係が有るの?」

「新羅本記の阿麻来服の阿麻との関係は~?」


 あらら・・またちっと・・めんど~なことになってしまったのねん・・。またそのうちに書くのねん・・ほな、さいなら。


 

日本 その7






 ま、記紀をまともには読まずとも、何となく内容を知ってらっしゃる方なら、おそらく誰もが・・

「・・なんか・・なぁ・・しっくり来ないよなぁ・・」

と思うに違いないのが、天日矛(あめのひほこ)さんの件だしょ~な・・。


 だってね・・日本と言うか、倭と言うか、大和朝廷の話しなのに、

「新羅から来た王子の天日矛さん」

が活躍してるのねんから・・。


 そして、その子孫もさらに大活躍で、いつの間にか大王・天皇家に入り込んでいることを、全く隠しもせず、堂々とね・・大々的に書いてるのねんよ。

 まるで記紀が出来た当時の大王・天皇家は天日矛さんの血筋・・とさえ言いたげな書き方なのねん。

 でも、そんな風なイントネーションを知りつつも、日本人的な心情からなのか、

「・・認めたくない!」


と言うような心がね・・きっと有ると思うのねんな・・だからこそ、意図的に差し込まれたとしか考えられないような天日矛~田道間守~神功皇后さんの物語の意味を、

「そうかも・・しれない・・」

と思いつつも、見て見ないフリや考えないフリをしてしまうのねん。


 ファシレのおじさんは天邪鬼じぇけんね・・。「ひほこ」と聞けば「ひほんこ」とどこが違う?・・同じじゃん・・と思ってしまうし、天日槍は「あめのひやり」ちゃうのん?・・片や、天日矛と書く古事記と何故漢字が違うん?・・古事記は「橘氏系じゃん?」・・だから、判り易く書いてあって、日本書紀は「藤原氏・毛野氏系じゃん?」・・だから「ほこ」を「槍」に当てたんじゃねすか~?・・などと思ってしまうのねん。

 韓国語で天気のことを「日気」っちゅうなら、天日矛は日日矛・・に置き換えられると・・仮にするなら、比自㶱や非自火、非時伐とどう違うのかと・・

 新羅本記に書かれた「八年春 阿麻來服 遣元器與淨土入唐 淨土留不歸 元器還 有勅 此後禁獻女人」には、「阿麻が降伏してきた」と、唐に行かせた使いの者(高句麗から降伏した捕虜だったのねんが・・)の名はフルネームで書き、阿麻さんのことは、まるで誰でも知っているか、分かって当然のように書いて、唐の帝から女を献ずるなと勅が有ったのなら、

「じゃぁ当然・・阿麻は女人なのねん・・」

と、感じてしまうのねんな・・。因みに北朝鮮の一部じゃぁ、今でも「お婆ちゃん」のことを「アマ」と言うらしいのねんし・・


 なら、比自㶱は日自本で、「日が自ら(昇る)本(もと)」になるし、卓淳国が達句火で「タックスンバル・タックファ・タックバル」の「立花・橘花・橘」なら、

「橘は常世の国に生える非時香果を持ってきた人・・」

だから、

「卓淳国(橘)は比自㶱を連れてきた人」

と変換できるのねんし、もっと言ってしまえば・・

新羅から来た天日矛

天日矛の子孫の常世の国に橘の実を取りに行った田道間守

天日矛の子孫の神功皇后

天日矛の子孫の三宅連氏


は、橘が関連付けられていて、その後の「橘宿祢」の「縣犬養美千代」「橘諸兄」に、

 その橘は卓淳国なのねんから、


天日矛は新羅の王子ではなく卓淳国の王子で

卓淳国を平定した神功皇后(とされた方)は新羅に攻め取られた卓淳国を取り返したお方で

三宅連は卓淳国を官家として管理した神功皇后(とされた方)ゆかりの氏族で

縣犬養氏も官家絡みの神功皇后(とされた方)ゆかりの氏族で

だから、彼らが比自ホとも、大いに関係しているのねんな~・・。


 そもそもね・・昔の記事でも書いたけんども、

「伽耶諸国や百済、新羅の王は記録に残ってるが、それ以外の地域や国の王は記録が無い」


っちゅうことでんな~。

 それに、倭王武は宋の順帝から西暦478年に
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」

に任じられているのに、

「秦韓・慕韓諸国の王が伝わっていないし、そもそも新羅・百済以外の秦韓・慕韓諸国が有ったことになってない」

のねんよ。ま、卓淳国王さんは一人だけ、末錦旱岐(マキムカンキ?)さんっちゅう名前が判ってるけんどもね・・。この末錦旱岐(マキムカンキ?)さんも神功皇后さん絡みで日本書紀に出て来るけんども、

「・・なんだかな~・・」

な内容なんで、ここでは触れんけんどもね~。



 卓淳国も比自㶱も、そんな秦韓の国、もしくは秦韓に引っ付いた弁韓と混在した地域の国なのねん。新羅に地理的に近く、歴史的に新羅に蹂躙されていたと思われる国なのねん。


 神功皇后さん(将軍の荒田別さんと加賀別さん)が

 比自㶱(ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定

したっちゅうのんは、


 その国々への新羅の影響力を排除し倭国連合に組み入れ、屯倉(官家)を創った・・っちゅうことでっしゃろ?天日矛さんが垂仁天皇さんのところにいらしたっちゅう古事も、

× 新羅から来た王子
〇 新羅を経由して来た比自㶱(ひじほ)の王子

なのねんな~・・。何せ、天日矛さんは「あめにちほこ」さんと読めるのねんで、

「天」=「日」じゃぁ無いとしても、

「比自㶱(公・子)」=「ひぢほこ」

でんがな~・・。「ひ」と「し」と「に」は、非常に微妙でね~・・クルクル、入れ替わってしまうのねんな~・・7時を「しちじ」と言いたくても言えず、「ひちじ」になっちゃう地域の方も多いでっしゃろ?それに「ぢ」や「じ」は簡単に「っ(小さい つ )」に変化するでっしゃろ?さらにその頃の日本の発音は「清音」だったと言われていてね・・「濁らない」から、「ぢ」や「じ」はそれぞれ「ち」や「し」になるもんで、余計に「小さい つ」=「っ」に変化しやすいはずなのねんな~。

 それにね・・「日本」は「じゃぱん、じゃぽん」でっせ~?日本=JAPANなのねんで、ま、これは大昔の中国語だと「日」を「ジャ、ヤー」と発音したのに由来するみたいだけんどもね~・・。それに邪馬臺(やまたい)は「じゃばつ」だったのかもしれんしね~。


 だから、

「日本と言う国名の発音は、にっぽん、にほん、のどちらでも良い」

のはつまり、歴史がそうさせたっちゅうことなのねん。


 さて、じゃぁ、藤原氏はどうか・・っちゅうことになるのよねん・・。これがね・・もう判っちゃってるかもしれんけんどもね~・・。何となくはもう・・書いてまんがな~・・。それに、鹿島昇氏は馬韓の不斯濆邪国は、藤原国だと・・本に書いてるしね~・・。その辺は「日本 その3」に書いてると思うのねんで確かめてみてちょ~。


 だけんどね・・不斯濆邪国は馬韓だしょ?・・馬韓っちゅうのんは、百済が制した国でっせ?・・ま、倭王武は使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王だから馬韓(慕韓)も入っとるし、ファシレのおじさん自身「日本 その3」で、「ふじふぁら」なんて書いておいて思わせ振りなのねんが、

「不斯濆邪」=「不斯火」

で、「比自火」と非常に似た発音になることを思うと、関連無しとも思えんのねん。


 ただし、不斯濆邪国についちゃぁ、記紀からはまるで読み取れんのねん。上のように「不斯濆邪」は「ふしふんや」だから、「比自火」の「ひじふぁ」と似た発音なら、

「弁韓に有った不斯濆邪国が秦韓に移動して比自㶱・非時火になった」

もしくは、

「弁韓と秦韓は混在していたので、百済と新羅の争いでその境界が移動した」

っちゅうような可能性はあると思うのねん・・この辺は余り良く見えんのんで、自信は無いけんどもね・・。国は移動せず、その境界が微妙で、百済が強い時は弁韓に、新羅が影響力を発揮していた時は秦韓に・・ちゅうことかもしれんね~。その場合は、「不斯濆邪国=比自㶱=非時火=非自伐」っちゅうことになってしまうのねんよ・・。


 するってぇと、比自㶱・非時火は比自伐とも書くのんで「ひじばる」でっしゃろ~?・・「伐」は国とか地域っちゅう意味の新羅的な当て字で、現代日本語だと「原」(ばる・はら・ゲン)だし、「不」から「非」への転換が可能なら、比自㶱も「ふじはら」と同じ意味になってまうのねん。

「どっひゃ~!」

・・でっしゃろ~?


 でもね・・これを忘れてないかなん?

「橘」は常世の国に生える「非時香果」を持ってきた人・・


 非時香果は「比自㶱国」で有り、「藤原」だよねん?・・だから・・

「橘」は「比自㶱国」の「藤原」を連れて来た人・・

とは読めんかなん・・?


 それにね・・不比等ちゃんの中臣氏のご先祖さんに、有名な

「中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)さん」

 がいらっしゃるのは・・ご存知かもしれんね~。


 記紀によると彼は神功皇后さんの取り巻きで、武内宿祢さんに次ぐナンバー3の座にいた方でんな~。仲哀天皇さんが亡くなられた後、神功皇后さんの審神者(さにわ)として対馬から呼ばれたとされてるのねん。


 でね・・その烏賊津使主(雷臣)さんはその後、百済の女と娶って一男を生んだと・・されているのねんが、対馬の霹靂神社(いかづちじんじゃ)の明細帳に

「神功皇后の時、雷大臣・安曇磯武良を新羅に遣わし、雷大臣彼地で女を娶り一男を産む。名を日本大臣と云う。」

と書かれていたのねん・・。


「何?・・日本大臣?」


 ま、日本と言う地名はどこにも無いけんども、その名前を持ったその時代の方が一人だけ居ったのねん・・。「日本大臣」の読みは全く判らんけんどもね・・少なくとも、

「中臣--日本--藤原」

とキーワードを繋げることが出来るのねん。


 ま、続日本紀だと日本大臣じゃなくて、二人の子で大本臣さんと小本臣さんを生んだ・・と書かれてるけんどもね・・これは記紀の暗号と言うよりは、おそらく「罠(わな)」の類に過ぎんと思うけんどもね~・・允恭天皇さんの時、烏賊津使主さんは天皇さんの命令で現皇后の妹の衣通姫(そとおりひめ、そとおしひめ、そとおしのいらつめ)さんを迎える使者になり、 姫を后にしたのねんけんども、姉さんの皇后さんの怒りを受けて、

「藤原に屋敷をつくり、そこに衣通姫さんを住まわせた」

とされてるのねん。


 ま~・・14代仲哀天皇の皇后である神功皇后さんから、19代允恭天皇さんのお后さんまで手配するなんて・・

「・・何て長命なスケベ爺!」

って思っちゃうけんどもね~・・。長命過ぎて、


「第何代の烏賊津使主さん?・・日本大臣って名前の息子さんの立場はどうなん?」

だよね~・・。


 ま、この辺はやっぱりF原氏のお手盛り事件帖だしょ~・・。


 っちゅうところでお時間のよ~です。じゃ、またね~・・。

日本 その6





2017/01/29、誤字脱字訂正、ちょっと加筆したのねん


 まぁ・・「卓淳国」が「橘」の由来だぁ・・なんて言われてもね~・・・

「・・んな訳あるかい!・・ただの言葉遊びに過ぎないじゃないか!」

「・・ま、読みは近いかもしれんけど、そこまでピッタリじゃ無いしね~・・」

などと言われるのが結局のオチ・・


 っつ~ことになってしまうのだけんど、何しろ・・・

「証拠が無い!・・全て闇に葬られ、消し去られている!」

のねん。


 だから、真の歴史を解明するには、明らかに嘘をつき、もしくは事実を変えて意図的に変更されている部分から真実を類推する・・ことも大事だし、その上で、

「もしかしたら存在するかもしれない記紀の暗号を読み解く!」

ことしか方法が無いのねん・・。それには記紀に書かれている様々な名称の由来や意味を紐解くこと・・それはほとんど、発音を漢字にあてはめたもんだから、漢字の意味を知る現代人とは異質のものになってるのねんし・・ただしその時代、秦人・呉人らも列島に入って来て入朝してるのねんで、弁韓・辰韓にゃぁその方々も沢山いらっしゃったのんで、何せ、万里の長城の建設労働が嫌で逃げて来たのが辰韓だからね・・中国的感性が生きてる場合もある・・・ま、真実を想像・・もしくは霊視出来たとしても、証拠となりそうなものはそれを利用しての、「記紀の暗号解読」しかない・・と思うのねんな~・・。

 だから、弁韓・辰韓と言われる百済と新羅の中間・・と言うよりも、西暦400~500年代は確実に新羅寄りの地理的場所に有った「卓淳国(たくじゅんこく)」こそが「橘(たちばな)」の由来で有って、

「卓淳国をその頃の直近の新羅風な卓淳伐・達句伐にし、その発音を漢字で当てて橘(たちばな)として縣犬養美千代さんに名乗らせ、橘氏を生んだ」

のねん。

 そしてそれは、常世の国から非時香菓(ときじくのかくのみ)を垂仁天皇さんのために探して持ち帰った・・とされる、田道間守(たじまもり/たぢまもり)さんから始まるのねん。

 さらに田道間守(たじまもり/たぢまもり)さんは、新羅出身の王子とされる「天日槍(日本書紀)」、「天之日矛(古事記)」さんが列島にやってきたことから始まり、田道間守はその子孫とされてるのねん。

 つまり、列島にはどこにも存在し無い「日本」の名称に最も近い「ひほこ」・・日本の読みは「ひほん」だしょ?・・だから「ひほんこ」だとするなら、非常に近い読みになるのねん。

 何せ「天日槍」を「あめのひほこ」とは・・フツー・・読めんだしょ?「あめのひやり」で、「槍」は「やり」・・「ほこ」じゃぁ・・無い・・ものを、無理槍・・いや、無理やり「ひほこ」と読ませてるのねんよ?

 ほんとうは「日本子」としたいけんども、それじゃぁあんまりにもバレバレだしょ?・・謎かけにならんのじゃぁしょうも無いのんで、「槍」や「矛」・・と記紀で書き分け、そこに・・気付く者が居たらば・・と思ったかどうかは分からんけんど、

「矛盾」

を想像させつつね・・「日本」のルーツをしのばせたのねんな・・。


 だから記紀では、壮大なお涙頂戴物語を載せてね・・記紀の暗号としたのねん。


 証拠もあるのねんよ。「三宅連(みあけむらじ)」は「天之日矛」の後継子孫と言われてるけんども、その名もね・・

「三宅(みあけ・みやけ)=「官家(みやけ)」=「屯倉(みやけ)」

なのねん。

屯倉(みやけ)
とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。
概要
「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。「官家」もミヤケと読まれることもあり、後に「郡家」はコオリノミヤケ、「五十戸家」がサトノミヤケと読まれた可能性がある。ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。屯倉は、直接経営し課税する地区や直接経営しないが課税をする地区も含むなど、時代によってその性格が変遷したらしいが、詳しいことは分かっていない。大化の改新で廃止された。
by WIKI


 ま、分かり易い例えをすると、継体天皇さんが筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)さんを滅ぼした時に、その子孫の「葛子」さんが糟屋屯倉(現在の福岡県糟屋郡・福岡市東区)を朝廷に献じ、死罪を免れた・・とされているのを覚えてるかもしらんね~。

 それにね・・「新羅が任那の官家を打ち滅ぼした」のが西暦562年とされててね・・ま、その後も何故か任那からの使者は朝廷に来てるっちゅう・・記紀は非常に不思議な書き方をしとるけんどもね・・新羅としちゃ、倭の皇族を亡き者にしてしまっては母国存亡の大危機になってしまうのは判ってるもんで、その後の三宅連氏=官家自体は滅ぼされることなく列島に戻ったのでっしゃろな~・・。

 つまり、

「天之日矛さんから始まる壮大な物語は、倭国から日本への国名変更で終わるのが日本書紀」

と言えるのねん。・・きっと何となく判るよね~・・。


 でねでね・・それでは終わらんよねん・・。橘(たちばな)はちっとは判ったにせよ、藤原(ふじわら)が判らんちんだし、仮に橘は「日」「日本子」だとしても「藤原」はど~なのよ・・・っつ~疑問はまだ解けてないよねん?

 そ~なのねん・・でもね・・もう答えは遠の昔に・・いっぱい・・アチコチに書いてるのねんな~・・ま、「ファシレの暗号」っちゅうべきか、「ファシレの勿体ぶりっこ」っちゅうかね~・・。

 前回の記事日本 その5の最後に書いたね・・


「橘」は常世の国に生える「非時香果」を持ってきた人・・

 これが実は日本につながるのねん・・「非時香果」っつ~のは橘の実のことだけにねん・・♪♪

もそ~なのねんけんども・・。


 橘は常世の国に生える「非時香果」でっせ~?

非時香果っつ~のんは「ときじくのかくのみ」と読ませたいらしい・・・けんども、ワシらのような学の無いもんは、

非時香果=ひじかか

としか読めんだしょ?


 そ、それで良いのよ~・・。逆に余りにオツムの良い人には判らんよ~になっとるのねん。


 でね・・思い出して欲しいのねんな~・・。神功皇后さんが三韓征伐をした後に、また新羅を懲らしめにね・・荒田別(あらたわけ)さんと鹿我別(かがわけ)さんを卓淳国に派遣して、比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定したんだったよね~?

 卓淳国はね・・モロに「金官加羅国」のお隣・・みたいな、比較的南の位置にあるのねんな~。でもね・・この赤字の・・

比自[火+保](ひじほ)

に注目するとね・・あの、

非時香果=ひじかか

に非常に似ているのが判るよねん?


 ま、読みも「ひじ ほ」と「ひじかか」だしね・・。誰にでも判り易いのねん。少なくとも、

「ひじ」

は同じだしょ?


 で、「非時香果=ひじかか」は橘の実のことだと記紀は言ってるけんどもね・・

香 の読みは 日本語でも「こう」、中国語の閩南語で「phang」(ファン・・かな?)、韓国語で「hyang」(ひゃん?)
果 の読みは 日本語で正確には「クヮ」、中国語ではおしなべて「guo、kuo」(クォ)、韓国語で「gwa、kwa」(グヮ、クヮ)

つまり、日本語で「香果」は「こうクヮ」
中国語では「ファンクォ」
韓国語では「ひゃんグヮ」

って・・なるよね~・・現代の日本語の「か」は、古代日本語の「カ」と「クァ・クヮ」が一緒になっちゃってるのねんね~。


 まぁ、めんど~なんで、中国語(・・これは後でちょっと説明するけんども)と韓国語は解説せんけんども、少なくとも日本語じゃぁ

ヮ」


なのねんで、

香果=こうクヮ=こク=国


となってね・・

「非時香果は【ひじかか】では無くて【ひじこく】と読むべし!」

だから、

「【非時国】は【非自国】!」

なのねんで、

「橘」は常世の国に生える「非自国」
を持ってきた人

っちゅうことを言いたかったのねんな~。・・暗号だしょ・・。


 でね・・非自ホ・非自国はね、現在の昌寧で、新羅と高霊伽耶の間にある地域なのねん。ここはね、

「古墳がたんまり在る」

のねんよ。

Changnyeong royal graves
By Timothyvail (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

 この昌寧には松峴洞古墳群や校洞古墳群だけじゃぁ無いのねん・・倭人が活躍した痕跡がね・・も~沢山・・見当たるのねん・・ま、あんまり書かんけんどもね~。

「古墳は日本独特のもの」

じゃ無かったっけか~?


 でねでねでね・・・長くなったもんで、そろそろ終わりたいけんどもね・・も~・・とりあえず書いちゃおうと。


 非自ホというのんは、発音を漢字で当てたもんだからね・・その他にも色んな当て字が有るのねんよ。

比斯伐、非自火とかね・・非自火の火は、どうも国っちゅう意味らしいのねんけんどもね・・中国語の「香果」は「ファンクオ」だからね・・これも、非自火国になっちゃうのねん・・。火と国が重なっちゃ~いるけんどもね・・。

 でも、もっとも印象的な当て字が有ってね・・。も~・・ずいぶん昔のことだから、覚えている人が居るかどうか心配ではあるけんども、・・それが・・日本 その1で書いてそれっきりの・・

「比自㶱」

でんな~。思い出してくれたかな~・・火辺に本と書くのねんが・・


「㶱」

でんがな・・。


 これ、あなたなら何て読む?・・学の無いワシなら・・フツーに・・

「ひじほん」

でっしゃろ?

 でね・・「比自㶱」の「自」の字はね・・日本語で「じ、し」、中国語で「ji6、chhṳ」、韓国語で「ja、cha、ca」でね・・

 漢文の「自」は「~から(出発して)・・」っつうような使われ方をしてたのねんが・・説明はかなり面倒なもんで・・ま、省力的になってしまうのねんけど答えを言っちゃうと・・



と読みがほとんど同じなのねん。

 「之」は日本語で「シ、の」、中国語で「ji1、chi、chṳ̂」、韓国語でも「ji、chi」・・

 もっと言ってしまって非時香果の「時」にしても、

 「時」は日本語で「ジ、シ、とき」、中国語で「shí (shi2)、 shih2、si4」、韓国語でも「si」・・

 だから、これは「自、時、之」は発音的に「同じ」と言えるよねん?・・まぁ、弁韓、辰韓の国の名乗りを漢字に当てはめた訳だから、発音が同じならどれでも良いのんで、国の名称も様々に言われたのねんな・・。


 それを踏まえてしまうとね・・

「比自㶱」 は 「比之㶱」 で・・「比」と「日」を入れ替えると 「日之㶱」になり、めんど~な「㶱」の火を外すとね・・なんと、

「日之本」

になってしまうのねん・・。


 「日」はね・・日本語は「 ニチ、ニッ、ジツ、ひ、か」だしょ?・・中国語は今は「リ」だけんども少し昔は「jat6、yat6、ji̍t、ngit、zeh4, nyih4」、大昔は「nyit、*C.nit {*C.ni[t]}」で「ジ、ニ」の音が有るしね・・大昔の朝鮮語は残っちゃいないから判らん・・今は「il」(イル)だけんどもね・・。これについちゃ百済語、新羅語が解明されんと厳しいのねんな・・


 でもね・・調べたら・・面白いことが判ったのねんよ・・何と、

現代の韓国語では、日本語の天気のことを「日気 (일기、il-gi、イルキ)」と言う

 つまり、韓国語の「日」は日本語の「天」!

 どっひゃ~!・・だしょ?「日=天」でっせ~?日本の日は「てん」っつ~ことだから、「あま」なのねんよ~・・。


 で、「比」はね・・中国語は「ヒ」と読むし、韓国語じゃ「bi、pi」で濁る・・「非」の字も非自ホは使うから、中国語も韓国語も「比」と「非」の読みは全く同じで変換が可能なのねん・・。


 因みにね・・新羅じゃぁ国のことを「伐(ポル、ボル)」と言うのねん・・。ポル、ボルでっせ~?

「ポル・ボルはホン・ポンにめちゃくちゃ近い!」

と言えんかの~?

「原は九州じゃぁバルでっせ~?ほぼ同じ意味を持つのは対馬じゃぁフレでっせ~?百済じゃぁプルでっせ~?・・それよりももっと近いでっしゃろ?」

・・・あっ・・


 だから、


「列島に無かった日本、いや、日之本が半島に有った」

もしくは、

「半島の国・地域の名称を倭から置き換えた」

可能性って・・ど~なのよ!

 「ひじほん・にちほん」=「日本」


 ・・・ずっと書きたく無いと思ってたのねん。でも開き直って言っちゃえば「㶱」そのもので「ひほん」でんがな・・。それをね・・

「記紀は暗号として、天之日矛~田道間守~神功皇后の物語を差し込んだ!」

のねん。


 ・・っつ~ところで時間切れ・・。ま、ふざけんな!・・っちゅうご批判もあろうかと思うけんど、オツムのいかれたおじさんの言うことを真に受けんでね・・。暗号自体が史実とは限らんしね~・・。だからど~した!って話しにもなるしね~。藤原さんもまだ書いちゃいないのんで・・またそのうちにね~。じゃぁ、バイナラ~!アディオース!

日本 その5






 あけおめでごんす・・。長らくご無沙汰してしもうて申し訳ないでごんす・・。年末年始は何かと忙しく、体調もイマイチ、未だに駄目だすな~・・。

 ま、こんなことは書きたく無い・・書いて良いのか判らん・・っちゅうような気持ちが、ファシレをブログから遠ざけてるのかもしれん・・っちゅうのは言い訳には過ぎんけんども、やっぱりこれは日本人にゃ~ちとショックなことかと想像できるしの・・。

 それは・・

「日本と言う名称は、西暦700年頃までは日本列島のどこにも無かった」

っちゅう事実なのねん。


 ま、史実として証明できん・・っちゅうだけで、もしかしたら列島の東国で「日本」「日之下」「日之本」を名乗る小国が有った時期が有る・・かもしれんけんどもね・・。でもそれはどんなに古文献を探してもでんな・・ま、評判の悪い東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)だけは除くとして、「日」が付く地域、小国は有っても「日本」につながる名称は出て来んのねん。

「有ったはず!」

っちゅうのんは、全くの「こじつけ」にしかならん。


 西暦700年前後に倭国の名称を捨て日本を名乗ったのは、内外の古書から確実視されとるけんども、中臣の大祓にも出て来る「日高見」国にしても、「日」だけであってね・・その響きが持つ意味がいかに近く思えても、「日本」とはかけ離れてる名称なのねんな・・。


 じゃぁ・・その「日本」っつう名称はどこから来たか・・っちゅうことが、このところのブログのタイトル「日本 その~」になっとるのねんが・・そろそろ書いてしまわないといかん。「ケリ」をつけんといかん・・。


 西暦700年頃の「日本」は藤原氏が天皇家の外戚に入ってね、天皇家へ着実にその藤原の血を濃くして行く初期段階と言えるよねん?

 ある意味、「日本とは藤原である」と言うのが大正解・・なのねん。だから、藤原氏を「あ~だこ~だ」と非難することは、自分自身を非難しているのと同様なのねん・・・ま、「そんなん、判っとるがな~!」っちゅうお方がほとんどでっしゃろが、

「・・うんにゃ・・そんなこと、考えたこともね~っす・・」

っつ~ような方々もおられるでっしゃろなぁ・・。

 それに、不比等ちゃんとは奥さんの一人の橘美千代さんでつながる「橘氏(たちばなし)」もね、不比等ちゃんの息子たちの藤原氏と同様に、我が世の天下を目指して高級官僚として世の中を動かしてたのねん。

 これも有る意味、

「橘美千代(たちばなみちよ)が日本を創った!」

と言えることは、皆さんもご存知かと思うけんども・・

「橘氏(たちばなうじ)って、何?」

っちゅう疑問は、どんな歴史家も、はたまた歴女も歴男?も・・結局誰にも解けてないだしょ~?


 大体ね・・敏達天皇さんの後裔の美努王さんとその後の橘氏を継ぐことになる子孫をつくりながら別れ、不比等ちゃんと一緒なって光明皇后(光明子 こうみょうし)さん等を生んだ縣犬養氏出身の女性・・なんてことが、日本の史実になってるっちゅうね・・本当に有ったこととされてるっつうね・・それが真実と信じさせられてるっちゅうね・・ことになってるのねんな~。ま、それはそれで良いんだけんどもね~・・反論しよ~としても、何の根拠も無いんじゃど~にもならんばってんね~。

 そもそも「橘氏」は縣犬養美千代さんが、元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜ってね・・美千代さんの息子たち・・これは皇族出身の王だけんども臣籍降下して母である三千代の氏姓を継いで出来た・・とされとるのねんな~。だから、橘氏はそれが最初っつうね・・ことなのねん。

 でもね・・橘(たちばな)何とか・・っつうお名前はね・・それ以前からずうっと使われててね・・ま、氏姓じゃぁないけんどもね・・例えば弟橘媛(おとたちばなひめ)ね・・。


 彼女はヤマトタケルさんの妻の一人でんがな~・・。相模から房総へ船で出た時に神に祟られ、嵐になってしもうたので、タケルさんの代わりに海に飛び込んで鎮めた・・ことになっとるのねんな。・・ま、そんな弟橘媛さんだけんども、偽書とされちゃあいる先代旧事本紀によると9人もの男子を生んでるのねん。


「何とまぁ・・9人もの男子を生んだ奥さんを連れて蝦夷征伐に出かけたヤマトタケル!」

 ・・うにゃ~・・でんな・・。ましてや神さんへの生贄としてなら普通、処女とか・・だっしょ?奥さん、自重しなはれ・・って、ま、ここじゃ関係無い話だけんどもね・・。

 他にも「」が付く西暦700年以前の方々は沢山おるのねん。もちろん、「」に関係するお方もね・・。その中でも歴史上、まずはこの方が最初かな?・・と思われるのんが・・

「田道間守(たじまもり/たぢまもり)」さん

でんな~・・。

「・・ありゃ?・・このひとは田道間守だから、たちばなと違うんちゃう?」

と思われるかもしらんけんどもね・・。


田道間守(たじまもり/たぢまもり)
は、記紀に伝わる古代日本の人物。
<略>
『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖としても信仰される。
<略>
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。

『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(同じく)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。
<略>
「たじまもり/たぢまもり」の名称については、「但馬国の国守(くにもり)」の意味とする説がある。この「たじまもり/たぢまもり」の類音からタチバナ伝来の物語が引き出されたと見られ、「タチバナ」という名前自体を「タヂマバナ(田道間花)」の転訛とする説もある。
By WIKI

注:三宅連(三宅氏)さんと非時香菓(ときじくのかくのみ)については、次回の試験に出る予定なのねんで覚えておくように~


 そうなのねん・・。橘の語源となった可能性が有るのが「タジマモリ」さん・・なのねん。

 で、その後もね、沢山、橘関係はあちこちにその名が使われてね・・あの聖徳太子さんの奥さんの一人も橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)っちゅうね・・お名前だったのねんよ~。

 西暦700年の直近にゃぁ、朝倉広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に斉明天皇さんが入られ、

 7月24日に朝倉宮で崩御。朝倉広庭宮に都が置かれたのはわずか2か月余りということになる。朝倉広庭宮の建設に際しては、朝倉社の木を切って用いたために神が怒って宮殿を壊したほか、宮中では鬼火が目撃され、大舎人らに病死者が続出したという。
by WIKI

 ま、ファシレのおじさん的にはね、「斉明天皇さんは新羅に出頭した」のんで・・ここでは亡くなってはおらん・・ちゅう立場だけんどもね・・それはこのページに書いてるけんども、

「斉明天皇さんもに関係していた」

 ちゅうことだけは確かなこと・・でんな~。

でねでね・・その「橘」だけんども、例のタジマモリさんが常世国から持ち帰った不老不死の果実で柑橘植物だったよねん?これ、かなり酸っぱいのねんな~・・まぁ、Wikiによるとそうよねん・・。

 じゃぁ、

「その常世国っつうのはどこなん?」

ちゅうのんが大事だしょ?。日本書紀によるとタジマモリさんは9年も掛かって常世国でタチバナを探し出して、帰って来たことになっとるのねんから・・。


 その国はね・・実は、神功皇后さんが平定した国・・とされている中に、その名前を見つけることができるのねんよ。

比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した
By WIKI

 ここの・・

卓淳国

でんな~・・。

 これはね・・達句火や達句伐とも書かれるのねんけんども、

卓 タク、タカ、タック
淳 ジュン、シュン、スン、スゥン

とね・・日本語や韓国語、中国語で読めるよねん?

 だから、最後の「国」の読みに新羅的に「伐(読みはボル、ポル)」を付けると・・

「タックスンボル」

 国=伐=原 は、日本語の「~原」・・・九州じゃ「~ばる」と読むでっしゃろ?わかみたふり解析は無駄な努力??でも百済語の意味を書いとるけんどもね・・。で、「田原」と書いて「たばる」でんがな~・・。なので、

「タックスンボル」=「タックスンバル」

 速く読むと・・

「タッスンバル」

で、

「タチバナ」

・・でんな~。・・ん?・・ちと苦しいじゃんってかぁ?・・ま、古代は

「漢字を読みに充てただけで現在の漢字の意味そのものは無く、読みも徐々に変化する」

からの~・・。


 達句伐だって、同じなのねんよ。達は「タチ・タッツ」、句は中国語で「チュ・ジュ」だから・・

達句伐=「タッチュバル」=タチバル=タチバナ

達句火だって・・火は国とか、地域と同意でね・・

達句火=タッチュ+「ファ」

で、火=ファ なのねんが・・何とね・・

花=hwa(中国語・韓国語)=ファ

だから、

橘=立花=達句火

なのねんよ~・・。


「モロ・・そのものじゃん!」

だしょ~?


 つまりね・・不比等ちゃんと同族の橘氏は、不比等ちゃんの奥さんの縣犬養美千代さんが賜った氏性、「橘宿祢」を皇族の息子たちがが臣籍降下して名乗ったのねんから・・

「・・あれ?・・橘は・・卓淳国?」


 ありゃらん・・やっちまったな~・・ど~しましょ~!・・ど~もならん!

「橘」は常世の国に生える「非時香果」



 これが実は日本につながるのねん・・「非時香果」っつ~のは橘の実のことだけにねん・・♪♪


 ・・ちゅうところで時間切れなのねん・・でもこの先もあまり書きたく無いの~。ま、ちょっと脳の崩れてるおっさんの言うことと笑って許してほしいのねん・・。じゃぁまた~!ばいなら~!
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NSY3

Author:NSY3
 何でこんなに判らんことが多いのかが良く判らん!その判らんことの答えを探して旅に出たつもりが、その答えも見つからんうちにもっと判らんことの答えを探す旅に出ることになっちまったい・・・
不徳の致すところでございます♪♪またまたどちらに「おでかけ・・レソか?」今回は夫玉を探しに・・、おっと~!違った、音霊を探しにおでかけレス!

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